第1章 姫君の帰還 16
ルーアンは、ふうっと溜め息をつき、ミルククラウン形の冠を両手で捧げ持って、丁寧に元の位置に戻した。
冠は、再び何の支えもなく、玉座に浮かんで輝き始める。
「王族は、あなたしかいません。ということは、あなたは否応なく魔王の側近にならねばならないということです。さらに、ここには魔貴族もほとんどおりませんゆえ、あなたは魔貴族の役目も引き受けなければなりません。あなたはリュシフィンの世話をし、常に付き従い、あるいは奔走し、何かと助言もしなければならないのです。そして何よりも、あなたはリュシフィンに日々エディシルを与えなければならないのですよ。そういうことをすべてやっていただけるのですか?」
「……」
頭が真っ白になり、目の前が真っ暗になったようだった。
そんなこと……考えてなかった。
エディシルのことは、ちょっと気になったかもしれないけど、忘れていた……。
王族が自分だけならば、側近としての役目を果たさなければならない。そして、魔王にエディシルを与えなければならない……。
(舞踏会でわたしのエディシルを食べたときに、ジエルフォートさまが言っていたこと……。王族は、魔王にエディシルを与える役目を担うって……)
<蝶やカトゥースでは、とても追いつかないよ……。どうする、風の姫さま?>
意識が遠のく前に、ジエルフォートはそうも言って笑っていた。
つまり七都は、魔王となったルーアンに提供するために、人間やグリアモスからエディシルを奪い、集めて来なければならないということになる。
もちろん側近として、ルーアンに日々常に寄り添いながら。
この世界と元の世界を好きなときに行き来し、エディシルが足りなくなったら、元の世界の食生活で補う――。
七都が漠然と、且つ楽天的に計画しているそのことが、根底から覆ってしまう。
「無理だ、そんなの……」
七都は、呟いた。
ルーアンの視線が、さらに突き刺さる。
「側近になることも拒否されると?」
七都は、言い訳に出来そうな理由を探しながら、彼に言った。
「だって……。それはこの世界に来なければならないってことなんでしょう? わたしは向こうではまだ高校生だし、その生活を守らなきゃならない。この世界でずっと暮らすなんて出来ない。わたしは別の世界に住んでいるんだもの」
「中学生だろうが、高校生だろうが、そういうことはここでは問題ではありません。あなたの世界での学歴も立場も常識も、ここでは関係ありませんからね」
「でも、いやだ。わたしは元の世界でのわたしを捨てたくない」
「まったく。私が風の魔王になったとしても、めでたし、ではないではないですか。魔王になるのも拒否されるし、側近になるのもいやだとおっしゃる。何とわがままな姫さまなんでしょうね」
ルーアンが、再び溜め息をつく。
「わたし、自分に嘘をついて生きるのはいやだし、状況に流されるのもいやだ。出来ないことは出来ないってはっきり言っとかなきゃいけないと思う。それがわがままだって取られるなら、仕方がないけど」
「……」
ルーアンは一瞬黙り込み、じいっと七都を見つめた。
「もしかして、ナナト。あなたは……」
「な、なにっ!?」
七都は、身構える。
「あなたはまだエディシルを召し上がったことがないのですね? 人間や魔神族のエディシルを」
ルーアンが言った。
「そう。ないよ。カトゥースと蝶しか食べていない。っていうか、それしか食べない」
ルーアンは、三たび溜め息をつく。
彼が溜め息をつくたびに、七都は、胸がぎゅうっとしめつけられるような気がした。
それは罪悪感を伴ったストレスになって、蜘蛛の巣のようにもやもやと積み重なって行く。
「あなたは、無垢な赤ん坊状態なわけですね。それでここまで来られたことに関しては、あなたの元の世界の常識としては、褒めてさしあげるべきなのでしょうけれど」
「別に褒めてほしいとは思わない。何人ものアヌヴィムや魔神族、それに魔王さまたちにも、愚かな行為だと怒られたよ。でも、わたしは吸血鬼になるのはいやだ」
「吸血鬼ですか……。あなたの概念では、我々はやはりそういうことになるのですね。魔王になることも、そして側近になることも拒否されるのは、それがいちばんの理由ですか」
七都は、頷いた。仕方なく。
「そうだよ。魔王さまなんて、吸血鬼の親玉じゃない。そうなっちゃったら、もう逃れようがないよ」
「しかし残念ながら、あなたはこの世界では人間にとっては吸血鬼であり、魔物です。それはどうあがいても逃れられぬ、仕方のないこと。受け入れねばならぬことです。吸血鬼になりたくないなどとおっしゃる前に、あなたは既に吸血鬼です。あなたがおっしゃるところの親玉候補なのですよ」
ルーアンは、いきなり七都の肩に手を乗せた。
「ルーアン! 何を……」
彼が顔を近づけてくる。
「ルーアン!!」
「わたしのエディシルをお取りなさい、リュシフィンさま」
彼が叱るように言った。
七都は素早く顔を逸らせて、彼の唇から逃れた。
回避は完璧に出来たのだが、勢い余ってルーアンの胸に顔をうずめる格好になってしまう。
ルーアンは、ぎこちなく自分の手を七都の頭に回した。
だがその指先は、七都の髪に触れようとする寸前で、ぴたりと止まってしまった。
「リュシフィンさま」
ルーアンが、ささやくように声をかけてくる。
髪に触れようとした手を七都の肩にそっと置き直し、やさしくなだめるかのように。
「わたしはリュシフィンじゃない。その名前で呼ばないで!」
「いいえ。あなたは、間もなくリュシフィンさまになるのです」
「ならない!!」
七都は、ルーアンの腕から抜け出て、床にうずくまった。
「リュシフィンさま!」
ルーアンが屈みこんだ。七都は、彼の目を避けるために目を閉じる。
七都とそっくりな目だというのに、パワーがまるで違っていた。
直視していると、たぶん操られてしまう。催眠術にかかったようになってしまう。
魔力だって、生きてきた年月だって、彼とは根本的にレベルの差がありすぎる。
「側近になって吸血鬼をするがおいやなら、魔王としてこの玉座に座っておられるとよろしい。めんどうなことは、すべて私が引き受けましょう。あなたは自ら人間を襲う必要も、魔神族からエディシルを求める必要もない。常に、私かロビーディアンのエディシルを召し上がっておられればよいのです」
ルーアンが言った。
「いやだ……」
「もちろん、元の世界で高校生を続けられてもいい。ただ時折、週末にでも帰って来られて、ここに座っておられれば、それでよろしい。ミウゼリルがそうしていたように」
「いやだ……!!」
七都は、目を閉じたまま、呟く。
ふわりと、七都の体が宙に浮いた。
「……!!!」
目を開けると、七都は、玉座に座らされていた。
見た目よりもはるかに座り心地のよい、なめらかな白い石の椅子が、七都の体をしっかりと抱きとめていた。
真上に冠の底が見える。
それは、まるで七都に微笑みかけるかのように、金の光をその底に這わせていた。
ルーアンが、静かに七都を見下ろしている。相変わらずの威圧感だった。
屈辱だ。なんで力ずくで、無理やりこんなことをされなきゃならない?
元王族かもしれないけど、臣下で、魔貴族で、単なる留守番役の彼に?
七都は、ルーアンを睨んだ。
「リュシフィンさま。人間みたいに、見苦しく泣くのはおやめなさい」
ルーアンが言った。
七都は、はっとして目をぬぐう。
手の甲が透明な液体で濡れていた。
それは、あっという間に七都の白い手の表面から蒸発して、消えてしまう。
いけない。また涙が勝手に出た。
あまりの情けなさに、無意識にこぼれてしまった。
「わたしは、半分人間だもの。涙が出る。泣きたいときには泣く。あなたたちには、わからない!」
七都はルーアンの、自分とよく似てはいるが決して涙を流さない目を見据えて、そう叫ぶ。
声が震えて、かすれていた。
そのことでさらに情けなくなって、再び目が勝手に涙の準備をし始める。
「ミウゼリル……」
しばらく七都をじっと見下ろしていたルーアンが、呟いた。
「え……?」
「そこにそうしていると、彼女にそっくりですね。言い訳も、そうやって私を見つめる目つきも全く同じ。彼女は時々、今のあなたのような姿勢で玉座にすわり、泣いてもいましたから」
そうだ。母は泣いていたのだ。
幽体離脱した七都と、あの建物の中で会った時。
七都に会えて、嬉しくて涙を流していた……。
「お母さんって……。なぜ泣けるの? 生粋の魔神族じゃないの? 人間の血が混じっているの?」




