第1章 姫君の帰還 13
「あ……?」
七都は、何度も目を瞬いた。
階段のてっぺんの椅子。その中味。それだけが、夢とは違っていた。
そこにはルーアンが言ったとおり、あの少女は座ってはいなかった。
少女も、そして七都の母の美羽も、さらには他の誰もそこにはいなかった。
その玉座は、空っぽだったのだ。
(誰もいない……?)
何度見直しても、そこには何もなかった。
それは、座るもののない空の玉座。それ以外ではあり得ない。
七都の目の前にいきなり突きつけられた、紛うことのない事実だった。
けれども、やがて、玉座の背もたれのあたり――ちょうどあの少女が冠をはめていた位置に、金色のものが輝いているのがわかってくる。
それは、冠だった。
七都の夢の中で、少女が額にはめていた冠。そして、ナイジェルやアーデリーズやジエルフォートが持っているものとよく似た素材の、けれども形状は違う金の冠だ。
冠は、何の支えもなく宙に浮かんでいた。
まるであの少女が、冠だけを残して姿を見えなくしているかのように。
あるいは、冠そのものが玉座の真の主であるかのように。
七都は、後ろを振り返る。
ルーアンとナチグロ=ロビンが、七都を見つめていた。
彼らは黙り込んだまま、微動だにしない。
七都の反応を注意深く観察するために、そうしているようにも思えた。
「えーと。そのう……」
七都も、二人の顔をしばらく見比べた。そして、続ける。
「リュシフィンさまって……透明人間?」
ずるっとナチグロ=ロビンが、こける真似をする。
ルーアンはにこりともせず、冷静に七都を見つめ返した。
「いいえ。あの玉座には誰もいないのですよ、ナナト」
彼が言う。
「ルーアン。どういうことなのか、説明してくれる?」
ルーアンは、七都に手を伸ばした。
「どうぞ。玉座の前へ」
七都が彼の手を握った瞬間、七都の前に、いきなり玉座がアップになって現れた。
七都とルーアンは、階段のてっぺん――玉座の斜め前に立っていた。
すぐ手が届きそうなところに、冠が浮かんでいる。
階段のはるか下で、ストーフィを抱えたナチグロ=ロビンが、心配そうにこちらを見上げていた。
玉座に浮かぶ冠は、七都が夢の中で見たものとは、似ているようで少しデザインが違っていた。
七都は、そのことにほっとする。
それは幾分、夢の中のものより上部のぎざぎざが少なく、シルエットが滑らかで、やさしいような気がした。そしてそれは額にはめるのではなく、頭に乗せる形状のものだった。
冠は静かに息づいているように、七都には思えた。猫が呼吸をするときに、その背中がやわらかく上下するみたいに。
ルーアンは、両手を冠に近づけた。
すんなりと、彼の手が冠の下の空間に差し入れられる。
ということは、やはりリュシフィンが透明人間でそこに座っている、というわけではなく、そこには元々誰もいないのだ。
ルーアンは冠を両手で捧げ持って、七都の目の前にかざした。
(この人……冠を素手でさわってる……)
七都は、冠と、それを支えているルーアンの細い指を間近から見つめた。
魔王を継ぐ資格を持つ者以外は、触れることが出来ないはずの冠。
一般の魔神族は、魔王の冠に触れると深手を負う。キディアスのように。
なのにルーアンは、その冠を平然と持っているのだ。
冠とルーアンの間には、動揺や緊張といったたぐいのものは存在しなかった。
ルーアンは当たり前のように冠に触れ、冠はまるで安心しきっているかのように、その身をルーアンに預けている。
「あなたは、この冠にさわれるの?」
七都は、彼に訊ねる。
ルーアンは、頷いた。
「申し上げたでしょう。私は、元王族ですから」
「王族だって、さわれない人もいるんでしょ。冠にさわれるってことは、あなたには風の魔王の王位継承権があるってことだよ」
「そうですね」
ルーアンは何の感情も差し挟むことなく、そっけなく言った。
七都は、それ以上彼がそのことに関して答える気はないと判断し、別の質問に切り替える。
そうだ、今はそれよりも、リュシフィンがここにいない理由を訊かなければならないのだ。
「リュシフィンさまはどこ? 冠だけがなぜここにあるの?」
「今、この風の城には、風の魔王リュシフィンさまはおられません」
ルーアンが言う。
「なぜ? リュシフィンさまはどこかに行っちゃったの? お留守ってこと?」
「そうではなく……リュシフィンと名乗る魔王さまが、今現在存在しないということです」
「存在しない……?」
ルーアンは、透明なワインレッドの目で、自分の手の中に納まっている冠を眺めた。
「先代のリュシフィンさまは、この冠をここに置いて、去ってしまわれたのです」
「どこへ?」
「時の魔王、アストゥールさまの王宮です」
「時の魔王……。時の都?」
それは、セレウスが説明してくれた七つ目の都。
七つ目の都は『時の都』と呼ばれ、はるか天空にあるとも、地の底にあるとも言われている。そこには、魔神族でさえも行くことは出来ず、魔王たちだけが入れる……。
セレウスは、そう言った。
そして、その都を支配しているのが、時の魔王アストゥール……。
その名前は、初めて聞いたような気がする。
「リュシフィンさまは、何のために冠を残して、時の魔王さまのところに……?」
「存じません。私には知らされておりませんから」
ルーアンが言った。
彼の瞳の奥に、押さえ込んだような悲しみが、一瞬ふわっと垣間見えたような気がした。
「じゃあ、じゃあ、ジエルフォートさまがリュシフィンの気配を感じないって言ってたのは、このせいなんだ。風の魔王が今、存在しないせい……。水の魔王のシルヴェリスさまが即位したから、魔王さまは七人全員揃ったって聞いたのに……」
「揃っていませんよ。リュシフィンさまがおられないのですから。もちろん、そのことは公にはなっておりません」
ルーアンが言う。
「リュシフィンさまは、帰ってくるの?」
七都が訊ねると、冠を捧げたルーアンの手が、突然動いた。
それはすっと上昇し、七都の頭の真上にかざされる。
「ルーアン?」
七都は、無表情な彼の顔と、彼が捧げ持つ金の冠を交互に眺めた。
明らかに彼は、冠を七都にかぶせようとしていた。
「ルーアンっ!!」
七都はその金色の物体を半ば呆然として、ただ見上げた。
それは真下から見ると、神々しい天使の輪のようだった。
きらめく金の輪が降りてくる。七都の頭を着地点に定めて。
近づいてくる冠の底に、何かふうわりとした生あたたかいものを七都は感じた。
それは、懐かしいあたたかさだった。
遠い遠い昔、そのあたたかさと一緒に、ある期間確かに過ごした。そんな曖昧な記憶が、七都のどこかで鼓動し始めるような。懐かしく心地よい、穏やかな記憶……。
けれども七都は、その記憶と、記憶の底からよみがえりそうになる感覚を払いのけた。
「待って! ちょっと待った!!」
七都は両手を頭上で交差させ、冠から頭を防御する。
間一髪だった。
もう少し遅れていたら、冠を強制的に乗せられていたところだ。
七都の指に触れた冠は、たちまち形を変え、それまでとは違う形のものに変化した。
「ほう。これは、ウォータークラウン……いえ、ミルククラウンですかね。発想が斬新です」
ルーアンが、変化した冠を見下ろして、感心するように呟いた。
冠は、粘度のある液体に垂らした雫が一瞬だけ見せる、あの形状になっていた。
丸い雫がその縁を飾る、放射状の形だ。
この間のアーデリーズの冠からすると、七都の『作品』としては、ずっと進歩したのかもしれない。けれども、そんなことに感動している場合ではない。
七都は、玉座の後ろに飛びのいた。
この魔貴族、いったい今、何をしようとしたのだ?
「ルーアン。どういうつもり? あなたね、わたしに何を……」
「この冠は、ナナト。あなたのものです」
ルーアンが言った。
「は?」
「去ってしまわれたその先代のリュシフィンさまは、あなたの母君です。ナナト、あなたは風の魔王のお子様なのですよ。そして、あなたこそが、次の……いえ、現在の風の魔王リュシフィンなのです」