第7章 新しい扉 20
数分後、七都たちは、魔王の神殿の庭に立っていた。
ゼフィーアが、魔法で全員をそこに瞬間移動させたのだ。
ただ、セージはその前に、自分の家に帰された。
遺跡までついて行くと言い張り、さんざんセレウスを手こずらせたので、やはりゼフィーアが強制的に家に送り届けたのだった。
石畳の庭に黒い招き猫が、ぽつんと置かれている。
招き猫はじっと虚空を見つめて、片手を上げていた。
「あ、ちゃんとあった。果林さんの招き猫」
七都は、嬉しくなる。
リビングでは大きすぎる招き猫は、遺跡のその庭では、とても小さく、寂しげな存在に思えた。
「ごめんね。ずっとひとりぼっちにしておいて。一緒におうちに帰ろう」
七都は、物言わぬ招き猫の置物に声をかけた。
「これは、ぼくが持つから、七都さんは扉を開けて」
ナチグロ=ロビンが、招き猫の頭の上に手を置いた。
「この間とは、かなり態度が違うんだけど?」
七都が言うとナチグロ=ロビンは肩をすくめ、それから心持ち胸を張る。
「次期魔王さまに、そんなことさせられないだろ。それにぼくは、七都さんの侍従長なんだぜ」
七都は、くすっと笑った。
「ありがとう。じゃ、お願いね」
「まあ、向こうに行けば、途端にぼくは猫に戻るから、あとはよろしく、なんだけどね」
ナチグロ=ロビンが、付け足した。
その時、ストーフィが、それまでしがみついていたシャルディンの肩から滑り降りた。
そして、招き猫のところまでちょこちょこと走り、招き猫の頭の上に駆け上がる。
「あれ」
「おいっ!」
ストーフィはすまし顔で、招き猫の耳にしがみついた。
「連れて行けってことですね。ナナトさまの世界に、一緒に」
シャルディンが代弁する。
「ついて来たいの?」
七都は屈みこんで、ストーフィに訊ねた。
ストーフィは、オパール色の目で七都を見上げる。
肯定の返事の代わりに、目の中に青い光がふわりと瞬いた。
「わかった。一緒に行こう」
「えーっ。連れてくの?」
ナチグロ=ロビンが、顔をしかめる。
「魔王さまが作ったロボットだぜ?」
「猫ロボットの人形ってことで通るよ。どこかの雑貨屋さんで買ったって言えば、全然おかしくないし。複雑な動きをしなければ、ばれない。出来るよね、ストーフィ?」
ストーフィの目に、再び薄青の光が走った。
七都は頷いて、ストーフィの頭を撫でた。
緑の扉があるあたりに七都が近づくと、扉は七都を待っていたかのように、その姿を現す。
七都は、側近たちのほうを振り返った。
「じゃあ、私、行くね」
セレウス、シャルディン、カーラジルトの三人は、きちんと姿勢を正して、七都を見つめた。
セレウスの若草色の目、シャルディンの薔薇色の目、カーラジルトの翡翠色の目。
そして、セレウスの赤い髪、シャルディンの銀の髪、カーラジルトのミルクティー色の髪。
そのどれもが美しく、いとおしかった。
「やっぱり漫才トリオだよね。超美形男子たちなんだけど」
七都は三人を順番に眺めて、しみじみと呟く。
「は? 何ですか、それは?」
セレウスが、いつも通りの調子で訊ねる。
シャルディンは呆れたようにクスリと微笑み、カーラジルトは相変わらずの無表情だった。
「シャルディン、ちゃんとおうちに帰らなきゃだめだよ。カーラジルトは、また旅を続けるの?」
「帰りますよ、もちろん。ご心配はいりません。寄り道もしませんから」
シャルディンが答えた。
「私は、もう少し風の都に滞在します。公爵の話では、近々ナナトさまは、また風の城に戻って来られるということなので、出来ればそのときまで」
カーラジルトが言う。
「うん。シイディアも、そのほうが喜ぶよ。あなたのお屋敷も荒れ放題なんでしょう? ルーアンが最新式の掃除機を持っているから、貸してもらって掃除するといいと思うよ」
「では、そうさせていただきましょう」
「あ、でも、あの掃除機、カーラジルトだったら、じゃれまくっちゃって、掃除になんない……かも……」
七都がもごもごと言葉を飲み込むと、カーラジルトは訝しげな表情をして、猫っぽく首を傾げた。
「何か?」
「う、ううん。見てからのお楽しみってことで」
七都は、笑ってごまかす。
もちろん掃除機とは、光の都からジエルフォートが送ってくれた、猫には魅力的だが七都は苦手な、ある虫によく似た外観の、銀色の掃除機のことだ。
虫型の掃除機を追いかけ回している大きな銀の猫を想像しかけた七都は、慌ててその図を頭の中から消し去った。
「こちらに戻られましたら、私を呼んでくださいね。すぐに風の都に駆けつけますので。扉が出来たので、短時間で魔の領域に入れます」
シャルディンが言った。
「わかった。また会おうね、シャルディン」
「私も、ナナトさまのお帰りを楽しみにしております。この遺跡も、私の屋敷のナナトさまのお部屋も、きれいにしておきますよ」
セレウスが、ためらいがちに言った。
「お手数かけるけど、お願いします。勝手に扉作っちゃって、本当にごめんね」
「い、いえ、そのような……」
セレウスが、戸惑ったような微笑を浮かべた。
「アヌヴィムにお礼やお詫びを言うなって、またゼフィーアに怒られちゃうかな。でも、これが私のやり方なんだから、仕方ないよね」
七都は笑って、三人を再び眺める。
地の都の人々と別れるときのような、切なさも不安も、全くなかった。
また会えるのだ。近いうちに。
扉は、いつでもこの世界、風の都、風の城、そして彼らへと繋がっている。
開けると、そこには必ず彼らがいる。自分を待っていてくれる。
「じゃ、みんな、今度会うときまで元気でね。侍従長、行くよ」
「了解」
招き猫を軽々と抱えたナチグロ=ロビンが、アニメの登場人物っぽく答える。
七都はストーフィを抱き上げ、扉のレバーに手を置いた。
ぐいと下に引くと、扉はカチャリという音をたてる。
この世界のものではない音。七都の世界のものの音だ。
扉の向こうは、もうリビング。
果林さんがいつもきれい磨いているフローリング。大きなガラスの窓。元気なパキラ。七都が描いた静物画。父の会社のカレンダー。
見慣れた懐かしいものが並ぶ、あのリビングだ。
何てシュールなんだろ。夢よりもシュールだ。
七都は、扉を手前に引いた。
向こう側の空間が、七都の前に次第に広がって行く。
それと同時に、眠気がとてつもない勢いで襲ってきた。この前のように。
扉の向こうに、目を大きく見開き、驚いた顔をした人物が突っ立っている。
央人だった。
たまたまリビングを歩いていて扉の前を通ったら、突然それが開いた――。
そんな感じだった。
完璧に固まっている。
「お父さん!」
七都は嬉しくなって、父に飛びつこうとしたが、はっとする。
そうだ。まだ変身していなかった。
今の自分は、黒味がかった緑の長い髪とワインレッドの目の、魔神族の美少女のままだ。この世界の自分の姿ではない。
だから、父は固まってしまったのだろう。いきなり開いた扉から、そんな人物が現れたのだから。
けれども、扉を越えると元に戻る。
変身するところを父に見られてしまうが、仕方がない。
自分自身でも見たことがないから、少し悔しいが。
「お父さん、びっくりさせてごめん。七都だよ。すぐに戻るから、ちょっと待っ……」
七都が言いかけたとき、央人が叫んだ。
「美羽……?」
「え?」
ミウ。
もちろん、それは、七都の母の名前だった。
ミウゼリル。
七都の世界では『美羽』と名乗っている、元リュシフィン、風の魔王。
あ、そうか。
お母さん、私とそっくりなんだった。
お父さんが間違えても、無理ないよね。
「お父さん、七都だってば。お母さんじゃ……」
「美羽……! 美羽!!」
父が、七都に手を伸ばした。
扉の境界を越えて異世界に伸びてきた手は、七都をしっかりと抱きしめた。
「お父さ……」
(ヒロト……!)
誰かが、七都のすぐ近くで叫んだ。
聞き覚えのある声。
この声は……。
「お母さん……?」
ストーフィが七都の胸から滑り落ち、フローリングの床にカシャンと軽い音をたてて、転がる。
転がったストーフィは、そのまま動かなかった。
「ヒロト……! ヒロト、ヒロト、ヒロト!!!」
七都は、自分の口が、父の名前を呼んでいることに気づいた。
自分の意思ではなく、他の誰かの意思で。
何だろう、これは。
どうなっているのだ?
何かが、体の中に……。
七都は、前にカーラジルトが自分の中に入ったときと同じような、居心地の悪さを感じた。
自分がそこにいない感覚。
別のどこかから、自分を遠く眺めているような、妙な感覚。
「ヒロト……」
七都は手を伸ばし、父を抱きしめた。
もちろんそれも、七都の意思ではなかった。
(お母さん? お母さんなの!?)
七都は、突然自分の中に入り込んできた何者かに問いかける。
「美羽? 何できみが……。ぼくが死ぬときに会いに来るんじゃなかったのか? ぼくは、もう死ぬのか?」
央人が、七都をきつく抱きしめて言った。
(お父さん、やめて。私、お母さんじゃない。美羽じゃないっ!)
七都はそう言おうとしたが、唇は動かなかった。声も出なかった。
七都の体は、完全に母に支配されていた。
「そうするつもりだった。そうしなきゃいけなかった。でも、だめだった。ヒロト……。あなたに会いたかったの。あなたに、とても会いたかったの……」
七都の目から、涙が溢れた。
いや、七都ではない。これは、母の涙。
美羽――ミウゼリルが流す涙……。
わたしじゃない。
わたしが言ってるんじゃない。わたしが泣いてるんじゃない……。
(やめて、お母さん。わたしの中に入って来ないで。だめだよ、そんなことしちゃ。だめだよ……)
央人の背中の向こうに、果林さんが呆然として立っているのが見えた。
そして、料理の最中だった彼女の手から、包丁が滑り落ちるのも、はっきりと見えた。
包丁が、床ではなく果林さんの足の指を切り裂き、床に転がるのも、七都にはわかった。
傷から漂う甘い血の匂いを、七都は感じ取る。
果林さんの足から、血が流れる。
鮮やかな赤い血が流れて、床を這って行く――。
けれども、彼女は、ただ見ていた。
央人と七都がしっかりと抱き合っているのを。
央人が、七都の姿をした美羽を抱きしめているのを。
包丁が自分の足を傷つけたことも、その鋭い痛みにも気づくことなく――。
(お母さん……。出て行って。わたしの体を勝手に使わないで。お母さん……)
けれども母は、七都を無視して叫び続けた。
七都の手を使い、背中に爪が食い込むくらいに、しっかりと父を抱きしめて。
「ヒロト……。ずっと、ずっとあなたのことを思っていた。ずっと……」
「美羽……美羽っ!!」
七都のぼんやりした視界の中で、父は別の姿に見えた。
二十代半ばくらいの、七都が知らない青年。
今の父の面影を持ち、七都にもどこか似たところのある人物――。
おそらく父と母が出会い、一緒に暮らしていた頃の若い姿。
(お父さん……。果林さんが……)
意識が遠くなる。
黒い招き猫が、どすんという音をたてて、床に置かれた。
猫に戻ったナチグロ=ロビンが、招き猫の隣にうずくまる。
彼は振り返り、七都に向かって警告するように、「にゃーっ」と鳴いた。
(閉めなきゃ。扉を……閉めなきゃ)
七都は父に抱きすくめられたまま、気を失った。
<ダーク七都Ⅴ・風の城の番人 【完】>
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