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第1話 差し出された少女

※本作は全30話、完結済みです。

初日は第1話から第3話まで公開し、以降は毎日20時に1話ずつ投稿します。

朝になると、納屋の屋根から冷たい雫が落ちてきた。


湿った藁の上に、新しい黒い染みが広がっていく。


ミオは薄い毛布を肩に巻いたまま、身体を横へずらした。


眠っていたというより、寒さに耐えながら夜が明けるのを待っていた。


この世界へ来てから、よく眠れた日は一度もない。


「起きてるなら出てきな」


納屋の扉が開き、村の女が顔をのぞかせた。


手にしているのは、縁の欠けた木椀だった。


ミオが立ち上がるより先に、女はそれを床へ置く。


中身は冷えた粥だった。


穀物より水の方が多く、表面には薄い膜が張っている。


「ありがとうございます」


女は返事をしなかった。


ミオの服を一度だけ見て、鼻を鳴らす。


この村へ来た日に渡された、灰色の粗末な服だった。


布は固く、袖口は擦り切れている。


肩には、誰のものとも分からない染みが残っていた。


その下に着ているのは薄い肌着が一枚だけで、足には靴もない。


「食べたら椀を返しな。勝手に井戸へ近づくんじゃないよ」


「水を少しだけ、もらえませんか」


「粥に入ってるだろ」


扉が閉じられた。


差し込んでいた朝の光が途切れ、納屋の中は再び薄暗くなる。


ミオは床に置かれた椀を見つめた。


冷たくても、食べなければ身体が動かなくなる。


一度だけ意地を張って、粥を残したことがあった。


その翌日は、食事が一度も運ばれてこなかった。


だから今は、黙って食べる。


木匙ですくった粥には、ほとんど味がなかった。


それでも胃に入るものがあれば、身体は次を求めてくる。


恥ずかしいと思う余裕は、もう残っていなかった。


最後の一口まで食べ終えると、ミオは木椀を抱えて納屋を出た。


外には、低い木造の家々が並んでいる。


土の道を男たちが歩き、女たちは井戸や竈の周りで働いていた。


老人が家の前で縄をまとめ、その隣では別の男が壊れた農具を直している。


誰もミオへ声をかけない。


視線だけが一度こちらへ向けられ、すぐに逸らされた。


道端に置かれた、邪魔な荷物を見るような目だった。


ミオがこの村へ現れたのは、ひと月ほど前のことだった。


学校から帰る途中、横断歩道を渡り、コンビニの前を通り過ぎた。


そこまでは覚えている。


次に目を開けた時には、見知らぬ森の中に倒れていた。


制服姿のまま森をさまよい、ようやくたどり着いたのがエルク村だった。


言葉は通じた。


助けてください。


ここがどこか分かりません。


家に帰りたいんです。


何度も説明した。


村人たちはミオの言葉を理解していた。


理解した上で、信じなかった。


森から突然現れた。


身元を証明するものがない。


見たことのない服を着ている。


厄介事を持ち込むかもしれない。


最初に囲炉裏のそばへ座らせてくれた家からも、日が暮れる前には追い出された。


代わりに与えられたのが、村の端にある納屋だった。


外へ出ようとすれば止められた。


手伝えることはないかと尋ねても、勝手なことをするなと言われた。


それでも何もしなければ、役立たずと呼ばれた。


逃げることも考えた。


だが、街道の場所も、次の村までの距離も知らない。


一人で森へ戻れば、今より悪いことになる。


そう思うたびに、納屋へ戻るしかなかった。


生かされてはいる。


ただ、それだけだった。


木椀を返すために歩いていると、村の入口から荒い足音が聞こえた。


一人の男が、息を切らしながら柵の内側へ駆け込んでくる。


服も靴も泥に汚れていた。


「村長はいるか!」


その声に、村人たちが一斉に手を止めた。


「どうした」


家から出てきた村長が、険しい顔で尋ねる。


「南の街道で荷車が襲われた。商人が二人やられた」


ざわめきが広がった。


ミオは足を止め、木椀を胸元へ抱き寄せる。


「山賊か」


「ああ。逃げてきた荷運びが言っていた。十数人いるらしい。北へ向かった」


村人たちの視線が、一斉に村の外へ向けられた。


エルク村は街道から少し外れた、森と畑に挟まれた小さな集落だ。


街道沿いではないからといって、襲われない理由にはならない。


「柵を確かめろ」


村長が声を張った。


「農具を集めろ。槍になるものも全部だ。戦える者は門へ集まれ」


男たちが動き出す。


倉庫から古い槍や斧が運び出され、女たちは干し肉や穀物袋を家の中へ移し始めた。


先ほどまでミオへ向けられていた無関心は消えている。


誰もが、自分の家と食料を守るために動いていた。


ミオは木椀を返した。


近くにいた者が納屋を指さした。


そこへ戻れという意味だった。


人手が足りない状況でも、ミオを倉庫や家へ近づけるつもりはないらしい。


ミオは何も言わず、納屋へ戻った。


背後では、男たちが柵を補強している。


木槌の音が、何度も村に響いていた。


◇ ◇ ◇


夕方になっても、山賊は現れなかった。


日が沈む頃、見張りに出ていた男が戻ってきた。


「煙を見た」


門の近くで、低い声が交わされる。


「南の林だ。野営しているのかもしれん」


「明日には来るか」


「分からん。だが、街道から外れた跡があった」


ミオは納屋の中で膝を抱えていた。


夕食は運ばれてこなかった。


空腹で腹が痛んだが、外へ出て確かめることもできない。


いつの間にか、扉には外から横木が掛けられていた。


壁の向こうから、村長たちの話し声が聞こえる。


「戦える男が足りん」


「領都へ知らせても、兵が来るまで何日かかる」


「食料を渡して帰るような連中じゃないぞ」


「抵抗すれば皆殺しだ」


それきり、しばらく誰も話さなかった。


やがて、一人の男が声を落として言った。


「何か差し出せば、村までは焼かれずに済むかもしれん」


「何をだ」


「穀物と酒。それから――」


言葉が途切れた。


ミオは息を止めた。


納屋の外で、土を踏む音がする。


複数の足音が、ゆっくりと近づいてきた。


扉の前で止まる。


板壁の隙間が、人影で塞がれた。


誰かが中をのぞいている。


「……よそ者か」


小さな声がした。


「村の者じゃない」


人影は、しばらく扉の前から動かなかった。


やがて、足音が遠ざかっていく。


何を差し出すつもりなのか。


答えは、考えないようにするほど鮮明になった。


村人たちは、自分を守らない。


その夜、ミオはほとんど眠れなかった。


◇ ◇ ◇


翌朝になっても、納屋の扉は開かなかった。


いつもなら、冷えた粥を持った女が一度は顔を見せる。


今日は足音さえ聞こえない。


ミオは乾いた唇を舐め、扉を押した。


横木は外されていなかった。


何度押しても、扉はわずかにも動かない。


隙間へ指を差し込み、引こうとしても、外側の横木に止められる。


外には人の気配があった。


けれど、ミオが扉を動かしても、誰も近づいてこなかった。


昨夜の言葉が、頭から離れない。


穀物と酒。


それから。


違う。


そんなはずはない。


村人たちは冷たい。


助けてくれないことも、自分を村の人間として扱っていないことも分かっている。


それでも、人を山賊へ差し出すようなことまではしない。


そう思おうとした。


「来たぞ!」


外から叫び声が上がった。


直後、村全体が騒がしくなる。


男たちが門へ走り、女たちは家の中へ駆け込んだ。


木の戸が次々と閉められていく。


ミオは板壁の隙間へ顔を寄せた。


南へ続く道に、人影が見える。


一人ではない。


男たちが道いっぱいに広がり、ばらばらに歩いてくる。


肩に剣を担いだ者。


手斧を下げた者。


革鎧を身につけ、槍を持った者。


装備は揃っていなかった。


それでも、古い農具を構える村人たちより、はるかに戦い慣れていることは分かった。


先頭を歩く大柄な男は、腰に長い剣を下げていた。


その後ろには、十数人の山賊が続いている。


山賊たちは、門の前で足を止めた。


門の前には、古い槍や農具を手にした村の男たちが並んでいた。


先頭の男が、その姿を見て笑う。


「ずいぶん物々しい出迎えじゃねえか」


村長が男たちの間を抜け、前へ進み出る。


「この村には、大したものはない」


「それを決めるのは俺たちだ」


「穀物と干し肉を出す。酒もある。それで引いてくれ」


大柄な山賊は答えなかった。


代わりに、その後ろから笑い声が上がる。


「勝手に値段を決めるなよ、爺さん」


「家も倉庫も見せてもらう」


「隠してたら、腕の一本じゃ済まねえぞ」


村の男たちが武器を握り直す。


だが、誰も前には出なかった。


山賊たちには余裕がある。


村人たちにはない。


納屋の中から見ているミオにも、それははっきりと分かった。


村長が一度だけ振り返った。


その視線が、村の端にある納屋へ向けられる。


ミオの背中に、冷たいものが走った。


「待ってくれ」


村長は山賊へ向き直った。


「穀物と酒は渡す。それに、女を一人つける」


ミオの呼吸が止まった。


大柄な山賊が眉を上げる。


「女?」


「村の者ではない。ひと月ほど前に、森から迷い込んできたよそ者だ」


村長の声は震えていた。


それでも、言葉を止めなかった。


「好きにして構わん。だから、村には手を出さないでくれ」


ミオは扉から後ずさった。


足がもつれ、藁の上へ尻もちをつく。


聞き間違いではなかった。


村人たちは本当に、自分を差し出そうとしている。


村の者ではないから。


どこから来たか分からないから。


いなくなっても、誰も困らないから。


逃げなければならない。


ミオは立ち上がり、扉へ身体をぶつけるようにして押した。


開かない。


壁板を両手で探る。


板と板の間へ指を入れ、爪が痛むほど引いた。


だが、厚い板は動かなかった。


窓はない。


床も土のままだ。


掘り抜く時間などない。


逃げ道は、どこにもなかった。


扉を叩けば、村人が来る。


だが、これから来るのは助けるためではない。


ミオの腕から力が抜けた。


壁へ背中をつけ、そのまま座り込む。


外から、複数の足音が近づいてきた。


扉の前で止まる。


横木が外される音がした。


扉が開く。


そこに立っていたのは、村長と二人の男だった。


三人とも、ミオの顔を見ようとしない。


「外へ出ろ」


村長が言った。


ミオは動かなかった。


「嫌です」


「騒ぐな」


「私を渡しても、山賊が帰るとは限らないでしょう」


村長の頬が引きつった。


「他に方法がない」


「だから、私を渡すんですか」


村長は答えなかった。


男の一人が納屋へ入ってくる。


ミオは壁際へ身体を寄せた。


それ以上、下がる場所はない。


男がミオの腕をつかむ。


「離してください!」


振り払おうとしたが、空腹で腕に力が入らない。


農作業で鍛えられた男の手は、びくともしなかった。


もう一人が反対側の腕を押さえる。


「暴れるな」


「助けてください!」


「山賊を怒らせるな」


男たちはミオを納屋から引きずり出した。


裸足の裏に、冷たく硬い土が当たる。


村人たちが遠巻きにこちらを見ていた。


助けを求めるように顔を向けても、誰も動かない。


女たちは戸口の陰に立ち、老人たちは視線を落としている。


昨日、粥を持ってきた女もいた。


目が合った。


女は何かを言いかけるように唇を動かし、すぐに顔を背けた。


言葉は通じている。


ミオが何を訴えているのかも、これから何をされるのかも、全員が理解している。


理解した上で、見ないことを選んでいた。


背中を押される。


ミオは門へ連れていかれた。


山賊たちが待っている。


何人かがミオの姿を見て、下卑た笑みを浮かべた。


大柄な男は、ミオを頭から足元まで眺めて鼻を鳴らす。


「痩せてるな」


村長は何も答えなかった。


「村の者じゃないんだな?」


「違う。素性も分からん」


「なら、いなくなっても問題ないか」


村長は一瞬だけミオを見た。


すぐに目を逸らす。


「ない」


胸の奥で、何かが切れた。


これまでミオは、村人たちにも事情があるのだと思っていた。


村が貧しいから、水や食料を分けられない。


外から来た人間だから、警戒されている。


役に立つ方法が見つからないから、邪魔にされる。


そう考えることで、耐えてきた。


違った。


村人たちは、ミオが自分たちと同じ人間だと分かっていた。


その上で、村を守るためなら差し出しても構わないものとして扱った。


山賊の一人が近づき、ミオの顎へ手を伸ばす。


ミオは顔を背けた。


「触らないでください」


「元気じゃねえか」


男が笑う。


「安心しろ。すぐには殺さねえよ」


周囲から笑い声が上がった。


ミオは、腕をつかんでいた村人へ目を向けた。


「お願いします」


男は唇を噛んだ。


それでも手を緩めず、ミオを山賊の方へ押し出す。


倒れそうになった腕を、山賊がつかんだ。


村人の手が離れる。


それで終わりだった。


ミオは門の外へ連れ出された。


背後には村がある。


ひと月を過ごした納屋も見える。


だが、戻る場所ではなかった。


「約束は守ってくれるんだろうな」


背後から村長の声が聞こえた。


大柄な男が振り返る。


「穀物と酒を見てから決める」


「話が違う!」


「何の話だ?」


山賊たちが笑いながら武器へ手をかけた。


村人たちは一斉に黙り込む。


最初から、取引などではなかった。


ミオを差し出しても、村が助かる保証などない。


村人たちも、それを分かっていたはずだ。


分かっていて、自分を渡した。


山賊の指が腕へ食い込む。


「歩け」


抵抗する力を失い、ミオは南の道へ一歩を踏み出した。


その時だった。


山賊たちの後方から、金属の触れ合う音が聞こえた。


硬く、重い音だった。


道の先から、一人の人間が歩いてくる。


全身を黒い鎧で覆っていた。


胸も、腕も、脚も、隙間なく黒い金属に包まれている。


兜の奥は暗く、顔は見えない。


肩には、長大な武器を担いでいた。


槍よりも太い柄。


先端には鋭い穂先と、幅のある斧刃が備わっている。


黒い鎧の人物は、山賊の一団を前にしても足を止めなかった。


歩調さえ変わらない。


「なんだ、こいつ」


「一人か?」


山賊たちが振り返る。


大柄な男が剣を抜いた。


「止まれ」


黒い鎧の人物は歩き続けた。


山賊たちの武器が届かない距離まで近づいたところで、ようやく足を止める。


兜が、山賊たちを順番に見渡した。


続いて村の門へ向く。


最後に、山賊に腕をつかまれているミオを見た。


表情は見えない。


何を考えているのかも分からない。


少なくとも、ミオを助けに来た者の反応には見えなかった。


山賊の一人が、苛立ったように叫ぶ。


「何者だ!」


黒い鎧の人物は答えなかった。


代わりに、山賊たちをもう一度見回す。


数と装備を確かめるような、短い動きだった。


黒い鎧の人物は、肩からハルバードを下ろした。


斧刃が朝の光を鈍く反射する。


「山賊……野良敵ユニットか」

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