第5話 風みたいな子
「よし、走り止めっ!!」
ヴァスケスの声が訓練場に響く。
受験生たちが次々とその場へ崩れ落ちた。
芝生の上に座り込む者。
膝をつく者。
完全に大の字になっている者までいる。
一体、何周この訓練場を走ったのか。
途中から数える余裕すら無かった。
ニコも肩で息をしながら、その場へへたり込む。
肺が熱い。
足が鉛みたいに重い。
荒くなった呼吸を整えようと、大きく肩と胸を使って深呼吸する。
「(そう言えば、こんなになるまで走ったの何て……いつくらい前だっけ)」
学生時代の体育祭?
いや、違う。
前世では、そもそも全力で走ることなんてほとんど無かった。
会社と家の往復。
休日は動画を見ながら寝転ぶだけ。
そんな生活だった。
「(そりゃ体力無いわけだ……)」
自嘲気味に考えていると、不意に目の前へ人影が差した。
ニコが顔を上げる。
そこには、先ほど先頭集団で走っていた長身の金髪の女性が立っていた。
陽光を受けて輝く金髪。
すらりとした手足。
走った直後だというのに、呼吸はほとんど乱れていない。
「……昨日倒れた子だよね。今日、こんなに頑張って大丈夫?」
声音は柔らかい。
皮肉ではなく、本気で心配しているのが分かる。
「だ、大丈夫……」
そう答えようとした瞬間。
脳裏に、先ほどの光景が蘇る。
風みたいに走っていた姿。
軽やかで。
真っ直ぐで。
同時に、自分だけ置いていかれるような、あの悔しさも蘇った。
だから、つい、天邪鬼な返事が口から出る。
「随分と余裕ね。さすが先頭集団を走るだけはあるのね」
少し棘のある言い方だった。
言ってから、自分でも嫌な感じだと思う。
だが彼女は怒らなかった。
一瞬だけきょとんとした顔をして。
それから、ふっと穏やかに笑った。
「失礼。話しかける前に自己紹介しなきゃだね」
そう言って、彼女は軽く胸へ手を当てる。
「ボクはアグネス。アグネス・ダークウッド。辺境の男爵家の次女なんだ」
妙に気負いのない口調だった。
しかも、“辺境”という言葉に変な誇張がない。
事実をそのまま述べている感じ。
「……ニコレット・フォン・アスターハイムよ。伯爵家だけど領地は無いわ」
するとアグネスが目を丸くした。
「へえ、王都貴族なんだ」
「まあね」
「じゃあ、ニコって呼んでいいかな?」
「えっ」
予想外の言葉だった。
「ニコレット嬢とか、なんだか他人行儀じゃない? 同じ受験生なんだし」
アグネスは人懐っこく笑う。
どうやら距離を詰めるのが妙に早いタイプらしい。
しかも、ニコの嫌味を全く気にした様子がない。
「……勝手にすれば。どうせあたしは合格なんて出来ないし」
投げやり気味に言う。
すると、アグネスは少しだけ目を細めた。
「まだ試験は終わってないよ?」
「でも現実見えてるし。走るだけで周回遅れとか、笑えるでしょ」
「うーん」
アグネスは困ったように頭を掻く。
「確かに今は体力無いかもだけど」
そこで一拍置く。
「最後まで走り切ったじゃないか」
「……え?」
予想していなかった言葉に、ニコは間抜けな声を漏らした。
「途中で止まる子、毎年いるんだよ?」
アグネスは訓練場の隅を見る。
実際、途中棄権した受験生が何人か座り込んでいた。
「だから、ニコはちゃんと頑張ってると思う」
屈託なく言われる。
お世辞ではない。
本気でそう思っている顔だった。
その真っ直ぐさが、何だかむず痒い。
「……変なの」
ニコは顔を逸らす。
褒められ慣れていなかった。
そんな会話をしていると、再び訓練場にバスケスの大声が響いた。
「次は乗馬の試験をする!!」
ビクリと受験生たちの肩が跳ねる。
「馬は既に割り振りが決めてある!! 各自馬房に行って、自分の馬を連れて集合せよっ!!」
受験生たちは重い体を引きずるように立ち上がる。
ニコもふらつきながら歩き出した。
すると隣へアグネスが並ぶ。
「ボク、馬は好きなんだ」
「……へえ」
「ニコは?」
ニコは少し考える。
そして正直に答えた。
「正直、怖い」
アグネスは笑わなかった。
ただ、優しく頷いた。
「そっか」
その返事が妙に自然で。
ニコはまた少しだけ、調子が狂うのだった。




