【221】冒険者試験編㉓ 〜理想と現実〜
「……学生が、アビス・ハウンドを倒すとはな」
ネプチューンは椅子に腰掛けたまま、低く呟いた。
「よっ」
魔獣の背から軽やかに飛び降り、アーシスは笑いながら剣を肩に担ぐ。
「ウォーミングアップにはちょうどよかったよ。この“弱い方”のやつ」
──ギロリ。
一瞬だけ向けられた冷たい視線。
だが次の瞬間、ネプチューンはふっと口元を緩めた。
「貴様は……なぜ冒険者になる?」
タバコを咥え、煙を吐きながら問う。
アーシスは剣を構え直し、迷いのない目で答えた。
「決まってるだろ。“この世界を守るため”だ!」
「…………なるほどな」
その声に、怒りはなかった。
ネプチューンは、ゆっくりと立ち上がる。
「第三層は越えたか。──だが」
グッ──杖を、今度は確かに握り締める。
「そんなに焦ってどうする?……絶望を味わうだけだぞ」
空気が、沈んだ。
魔導照明が一斉に明滅し、観客席から悲鳴が上がる。
ネプチューンの声が、低く響く。
「《契約位階・第五層》」
その言葉を聞いた瞬間、ギルド席の魔術師たちの顔色が変わる。
「ま、待て……第五層だと!?」
「ここは試験だぞ……!」
だが、ネプチューンは構わない。
「安心しろ。殺しはしねぇ」
杖を、地面ではなく──己の胸へ向ける。
「……ただ、現実を教えるだけだ」
次の瞬間。
アーシスの足元から、世界が崩れ落ちた。
空間が歪み、色が剥がれ、音が遠ざかる。
そして、そこに“立っていた”。
人の形をした、何か。
顔は定まらず、見る角度によって変わる。
背には無数の半透明の腕。
胸には、ぽっかりと空いた虚ろな穴。
祈るような布を纏い、地面に触れず、静かに浮かぶ存在。
──深淵守護獣。
それが現れた瞬間、アーシスの心臓が、嫌な音を立てた。
「アーシス!」
声がした。
振り向いた瞬間、息が止まる。
アップルが、黒い影に拘束され、宙に吊るされていた。
背後では──
「はぁっ……くっ……!」
シルティが、血を流しながら剣を振るっている。
別の方向では、マルミィが魔力切れ寸前で膝をついていた。
「アーシス……助けて……」
「お願い……来て……くださ、い」
胸が、締め付けられる。
足が、動かない。
アビス・レクイエムの気配が、空間そのものを縫い止めていた。
ネプチューンの声が、静かに落ちる。
「──いいか、坊主」
杖の先が、三人を指す。
「全部は無理だ」
次に、アーシスを指す。
「どんなに強くたって、どんなに願ったって」
低く、突き刺すように。
「──いきがっても、すべては救えねぇ」
「アーシス!こっち……!」
アップルが叫ぶ。
「……早く……もう、限界……」
シルティが、苦しげに笑う。
「一緒に……戦うって……約束……」
マルミィが、震える声で呟く。
呼吸が乱れる。
行かなきゃいけない。
でも──行けない。
この場を離れれば、アビス・レクイエムがすべてを呑み込む。
剣を握る手が、震えた。
ネプチューンは、その様子を黙って見ている。
(……選べ)
そう言っている。
助けるか。
捨てるか。
その瞬間。
アーシスは、歯を食いしばった。
ゆっくりと、剣を握り直す。
仲間の声を、振り払うようにではない──受け止めたまま。
「……俺は」
小さく、しかし揺るがない声。
アーシスは、顔を上げ、前を向く。
「俺は、助けに行かない。……でも、捨てもしない!」
ネプチューンの目が、わずかに見開かれる。
「……なにを言ってるんだお前は?状況をわかってるのか?」
「わかってるよ。……でも、俺の答えはひとつだ」
アーシスの瞳に、強い炎が宿る。
「俺は──仲間を信じてる!」
「シルティは、立ち上がる」
「マルミィは、魔法を諦めない」
「アップルは……負けない」
一歩。
「だから俺は──」
二歩。
「俺にしかできないことを、やる」
アーシスは、剣をアビス・レクイエムへ向ける。
──その瞬間。
幻影の悲鳴が、ひび割れるように歪んだ。
アップルの拘束が、霧散する。
シルティとマルミィの敵が、掻き消える。
アビス・レクイエムの背後の腕が、次々と崩れ落ちた。
「……な」
ネプチューンが、低く息を漏らす。
「幻影が……消えた?」
アーシスの心が、折れなかったからじゃない。
現実を否定せず、それでも進んだからだ。
「貴様の答えは──理想だ。……現実はそんなに甘くない」
ネプチューンはアーシスを睨みつけた。
「……そうかもしれない」
少し俯いた後、アーシスはまっすぐにネプチューンを見据える。
「……それでも……それでも俺は、すべてを救いたい」
沈黙。
ネプチューンは、杖を強く握りしめた。
──その目が、過去の記憶を甦らせる。
そのまっすぐな瞳が、ネプチューンの愛した"弟"の瞳と重なる。
(つづく)




