8話 信頼の芽生え
バー「Siri」は、いつもより静かだった。
時計の針の音が聞こえるくらい。
常連の笑い声も音楽も、今日はなかった。
深夜二時を過ぎて、客は私とからすだけ。
Siriが「鍵、閉めとくね」と言って奥に下がったあと、
カウンターの中に残った灯りが、ぼんやりとふたりを照らしていた。
「なんか、こういう時間、いいね」
からすが言った。
ワインを軽く揺らしながら、グラスの中の光を見ていた。
「静かすぎて、逆に落ち着かないけど」
私は笑ったつもりだったけど、声が少し震えていた。
「落ち着かない?」
「うん……。からすがいると、なんか、変な感じ」
「変って、どんな?」
彼女が少し首をかしげる。
光がその頬をなぞって、影がゆれる。
「安心する。けど、怖くもなる」
からすは何も言わなかった。
ただ、グラスを置いて、私の方を見た。
その瞳に、笑いも同情もなくて、
まっすぐに「私」を見ていた。
——ああ、逃げられない。
そう思ったのに、不思議と息苦しくはなかった。
「怖いっていうのは……また、傷つくのが?」
からすの声は、少し掠れていた。
「うん。多分。
でも、からすに何か言われたり、触れられたりしても、
嫌じゃないの。
それが、怖い」
言葉を出した瞬間、自分でも何を言っているのかわからなかった。
頬が熱くなって、手のひらまでじんじんした。
からすは笑わなかった。
ただ、少しだけ息を吐いて、
「……ありがとう」と言った。
「え?」
「信じてくれて、って意味」
その一言に、胸の奥が震えた。
信じるなんて、言葉にするほど軽くない。
でも、確かに今、私は——この人の前で、
“怖くない”自分を見つけていた。
からすは、私のカップに紅茶を注ぎ足しながら言った。
「人を信じるって、難しいよね。
私も、誰かをちゃんと信じたの、久しぶりかも」
「からすも?」
「うん。ずっと、裏切られるのが当たり前みたいに思ってた。
でも、ふくろう見てると……
なんか、まだ大丈夫かもって思える」
彼女の指先が、カウンターの上で私の手に触れた。
ほんの一瞬。
でも、その一瞬の中に、全部があった。
——大丈夫。
その感覚が、胸の中で何度もこだました。
怖いことも、寂しさも、何も言わなくても伝わるような気がした。
「ねぇ、ふくろう」
「なに?」
「今日くらいは、無理して笑わなくていいよ」
静かな声だった。
私はゆっくりと顔を上げる。
からすの目は、真っすぐで、優しくて。
その光を見ていると、涙が出そうになった。
「……泣いてもいい?」
「もちろん」
彼女の声に、私は頷いた。
涙は、思ったより簡単にこぼれた。
音もなく頬を伝って、指先に落ちた。
からすは、何も言わなかった。
ただ、黙ってハンカチを差し出した。
それを受け取ると、
彼女の指先がまた、そっと私の手に触れた。
そのぬくもりに、
やっと呼吸ができた気がした。
——ああ、これが「信頼」なんだ。
そう気づいた瞬間、
胸の中の何かが静かにほどけていった。
その夜、私は初めて、
誰かに甘えることを怖がらなかった。
そして、
その誰かが「からす」であることを、
心の奥で嬉しいと思ってしまった。




