第6話 小さな衝突
その夜の「Siri」は、いつもより静かだった。
雨は止んでいたけれど、窓ガラスにはまだ湿った夜気がまとわりついている。カウンターの奥で、Siriさんがグラスを拭いていた。
低い音楽と、氷の溶ける音だけが店内を満たしていた。
からすは隣に座って、薄く笑った。
「なんか、今日は元気ないね」
彼女の声は、いつもみたいに柔らかかった。だけどその優しさが、なぜか胸の奥をざらつかせた。
「別に……」
短く返した言葉が、思っていたよりも冷たく響いた。からすは目を細めたけど、すぐに何もなかったようにカクテルを口にした。
――別に、怒ってるわけじゃない。
ただ、少し疲れていた。
最近、からすが他の客と笑って話す姿をよく見かける。それが気になって仕方なかった。
彼女は誰にでも優しい。誰にでも同じ調子で話す。
それが、私には少しだけ、残酷に感じる時がある。
「……楽しそうだったね、昨日」
「え?」
「ほら、昨日。店の奥の席で、あのサラリーマンたちと話してたでしょ」
「うん。あの人たち、前からの常連だよ」
「そうなんだ」
それ以上、言葉が出なかった。
笑い声、肩に置かれた手、からすの笑顔――全部が頭の中で繰り返された。自分でも、どうしてそんなに気になるのか分からなかった。
からすは、少し黙って私の方を見た。
「……ふくろう、嫉妬してる?」
その一言が、心臓を強く叩いた。
「そ、そんなわけないでしょ」
「うん。別に責めてるわけじゃない。そう見えただけ」
「……勝手に決めつけないでよ」
思わず声が大きくなった。
Siriさんがちらりとこちらを見たけれど、すぐにまたグラスを拭く方に視線を戻した。
沈黙。
からすは、何も言わなかった。
私は、視界の端で彼女の横顔を見ていた。
からすの手が、グラスの水滴を指先で拭っている。その仕草がやけに丁寧で、静かだった。
――どうして、こんなことで苛立つんだろう。
自分でも分からない。
ただ、彼女が他の誰かと笑い合うだけで、胸の奥がぎゅっと痛くなる。
そんな感情、今まで知らなかった。
怖いと思うのと、寂しいと思うのと、恋しいと思うのが全部混ざって、わけが分からなくなっていた。
「……ごめん」
先に声を出したのは私だった。
「なんか、変なこと言った」
「ううん。気にしてないよ」
からすは少し笑った。その笑顔は、どこまでも優しかった。
「ふくろうは、ちゃんと自分の気持ちを言えるんだね」
「……言えてないよ。むしろ、わけ分かんなくなってる」
「それでもさ、怒ったり、嫉妬したりって、誰かを大事にしてる証拠だよ」
からすはそう言って、グラスを軽く持ち上げた。
琥珀色の液体が、ライトに透けて光る。
彼女の瞳の奥にも、その光が反射していた。
私は視線を落とした。
胸の奥が少し痛かったけれど、同時に少しだけ温かかった。
その夜の私たちは、それ以上何も言わなかった。
ただ、隣に座っているだけで、不思議と落ち着いた。
深夜二時を過ぎたころ、Siriさんが閉店の準備を始めた。
私はコートを羽織りながら、そっとからすに言った。
「……ごめんね。私、いつも子どもみたいで」
「子どもじゃないよ」
「じゃあ、何?」
「……ふくろうでしょ」
からすは、笑ってそう言った。
その一言が、なんでもないのに涙が出そうなくらい優しかった。
外に出ると、空気が冷たかった。
街の明かりが遠くで瞬いている。
からすと並んで歩くその時間が、少しだけ愛おしかった。
言い合いをしたのに、なぜか前よりも近く感じた。
そんな夜だった。




