第四話 嫉妬心
週末の夜。バー「Siri」は、いつもより少しだけざわついていた。
雨上がりの湿った空気が、扉の隙間から入り込んでくる。カウンターに並ぶグラスが、ぼんやりと照明を反射して光っていた。
私はいつものように隅の席に座って、炭酸水を指で転がしていた。
「ふくろうちゃん、今日は一段と可愛いじゃないの」
カウンターの向こうから、オーナーのSiriが軽く笑って言う。
「ほんとに? たぶん寝不足で顔むくんでるだけ」
「そのむくみがいいのよ。ねぇ、からすちゃん」
その声に振り向くと、からすが別の客と話していた。
彼女は笑っていた。
低めの声で、時々いたずらっぽく肩をすくめながら。
あの笑顔を見た瞬間、胸の奥がずきっと痛んだ。
彼女が誰かと笑い合っているだけで、息が詰まる。
男の人に笑いかけられているだけで、何かが自分の中で壊れそうになる。
(どうしてだろう。からすは、ただの友達なのに。)
「ふくろう」
気づくと、からすが私の隣に座っていた。
「……びっくりした。いつの間に」
「見てた。ずっと目で呼ばれてた」
「呼んでない」
「嘘。視線がうるさかったよ」
冗談めかして笑う彼女の声に、胸が締めつけられる。
「ごめん」
気づけば、そう言っていた。理由なんてわからないのに。
「何に?」
「わかんない。ただ……」
「嫉妬?」
グラスの音が、からんと鳴った。
「ちが……」と言いかけて、言葉が消えた。
否定しても、自分の心はもう隠せなかった。
からすは少しだけ私の方を向いて、目を細めた。
「いいよ。嫉妬しても。人を好きになる途中って、そんなもん」
「好き……?」
「ううん、別に恋とかそういうんじゃなくてもね」
彼女の声はいつもより低くて、静かだった。
夜の喧騒の中で、そこだけが別の世界みたいに穏やかで。
「私ね、守られるより、守る方が落ち着くんだ」
「へぇ……」
「でもさ、人を守るのって、意外と怖い。傷つけるかもしれないから」
その言葉が、どこか痛かった。
私が誰かに守られたいと思うたび、きっと誰かを縛ってしまう。
だから、からすが他の人と笑うと、胸が苦しくなるんだ。
「ふくろう、外行く?」
「え?」
「ここ、暑い。風、浴びよう」
店の外は、雨の名残りで少し冷たかった。
ネオンの色が濡れたアスファルトに滲んで、歩道が虹みたいに光っている。
からすがタバコに火をつけた。紫煙が細く揺れて、夜の匂いに混ざる。
「ねぇ、私、変かな」
「どこが?」
「誰かが他の人と話してるの見ると、苦しくなる」
「それ、普通だよ」
「ほんとに?」
「人を信じようとしてる証拠」
信じる──それは、私にとって一番遠い言葉だった。
「信じるのって、怖くない?」
「怖いよ。でも、怖いからこそ、信じる価値がある」
彼女の言葉が、夜風のように優しく頬を撫でた。
私はそっと彼女の袖を掴んだ。
「……もう少しだけ、このままでいてもいい?」
「うん」
二人の影が、街灯の下で少し重なった。
ネオンが揺れて、遠くでタクシーの音が消えていく。
心の中の嫉妬も、不安も、まだ消えない。
けれどその夜、初めて私は「この人の隣にいたい」と思った。