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第2話 初めての夜の会話

バー「Siri」の扉を開けると、あの夜と同じ香りがした。

少し甘い酒と古い木の匂い、そして誰かの笑い声が遠くで溶けている。

胸の奥で小さく疼く恐怖はまだ消えていないけれど、それよりも先に、あの人の姿を探してしまう自分がいる。


「ふくろう、来たの?」


カウンターの奥、グラスを拭いていたからすが顔を上げて笑った。

その声を聞くだけで、体の力が少し抜ける。私は小さく頷き、空いていた席に腰を下ろした。

からすは店の手伝いをしているらしい。制服でもない、黒いシャツの袖をまくって動く姿が妙に落ち着いて見える。


「今日も雨だね」

「うん。……でも、ここの雨は嫌いじゃない」

「ふふ、詩人みたいじゃん」


氷の音がグラスに響く。

その音を聞いているだけで、外の世界が遠のくようだった。

私は、からすが作ってくれたジンジャーエールを両手で包む。

炭酸が舌の上で弾ける感覚に、少しだけ心が戻ってくる。


「ねえ、ふくろうは、ここによく来るの?」

「初めて……前に来たのが初めて」

「じゃあ、また来てくれてうれしい。正直、もう会えないかと思ってた」


その言葉に、胸がざわめいた。

“もう会えないかと思ってた”――たったそれだけの一言が、私の中の孤独を優しく撫でる。

「……なんで、そんなふうに言うの?」

「んー、なんとなく。夜の街って、消えてく人が多いから」


からすは淡々と、でもどこか寂しそうに言った。

笑っているようで、目の奥はどこか遠くを見ている。

彼女もまた、何かを抱えてここにいる――そんな予感がした。


「からすは、どうしてここで働いてるの?」

「居場所がないと、落ち着かないからかな。……守る方が、性に合ってるし」


守る、という言葉が耳に残った。

私は無意識に指先を握りしめる。

誰かに守られることを、ずっと怖がっていた。

守られるというのは、支配されることだと、いつの間にか思い込んでいたから。


「ふくろうは?」

「え?」

「自分でここに来たの、勇気あると思うよ」

「……逃げてきただけだよ。雨の中で、どこにも行けなくて」


言葉が喉の奥で震える。

それでも、からすは何も詮索せず、ただ「そっか」とだけ言った。

その沈黙が心地よい。

誰も責めない静けさの中にいると、少しずつ体温が戻ってくる。


「無理に話さなくていいよ。ここでは、誰でも“今の自分”だけでいいんだって」


からすの声は、雨音よりも柔らかい。

私はその言葉を聞きながら、ようやく彼女の横顔をまっすぐ見た。

黒髪がライトに照らされて、微かに光っている。

唇の端に残る微笑みは、どこか懐かしい。


――もしかしたら、この人となら。

そんな考えが、胸の奥にふっと浮かんだ。


時計を見ると、もう夜中の一時を過ぎていた。

バーには私たちの他に二人ほどしかいない。

静かな時間の中で、からすは小さく笑った。


「この街はね、夜になると、心の中がそのまま光るんだって」

「どういう意味?」

「隠してる気持ちほど、ネオンに照らされるって」


私は思わず窓の外を見た。

濡れたアスファルトに映る赤と青の光が、滲んで揺れている。

まるで、心の奥を覗かれているようで息を止めた。


「……そんなの、怖いね」

「でも、綺麗でもあるよ」


からすはそう言って、私のグラスに新しい氷を落とした。

その音が、まるで合図みたいに響く。

私はそっと微笑んだ。

笑うことを、こんなふうに思い出せる日が来るなんて思わなかった。


「また来ても、いい?」

「もちろん。ふくろうの席、ちゃんと空けとく」


帰り際、からすは傘を差し出してくれた。

「持って帰りな。返すのは、次に来たときでいいから」


その傘を受け取るとき、手が触れた。

一瞬の温もりに、心臓が跳ねる。

でも、その熱は嫌じゃなかった。

むしろ、忘れていた生きている感覚だった。


外に出ると、雨はまだ降っていた。

けれど、今夜の雨は冷たくない。

からすの声と、あの店の灯りが背中を押してくれるように感じた。


――この夜から、私の中で何かが少しずつ変わっていく。

そう確かに思えた。



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