第7話:日輪の双蕾・サラ ゾラ(一)
それからほどなく、俺は厨房に立っていた。
サラが俺の容態を心配して遠慮する一幕もあったが、そこは俺からの強い希望もあって会食再開へとこぎつけた。
愚か者が暴れた痕跡には応急処置を施し、荒れた室内もサラ、ゾラの協力もあって清掃が速やかに行われた。
おかげでさほど時間もかからず、当初の予定通り、二人に和食を振る舞う場を整えることが出来た。
「どんな料理が出てくるんでしょう。楽しみです」
「兄ちゃん、マダー?」
大人しい姉とは裏腹に、ゾラの王族らしからぬ行儀の悪さで机を叩く音が厨房にまで響いてくる。
しかし、今日ばかりはその無作法を咎める気が起きない。
なぜなら、こちらも必死だった。
もはや俺の精神は限界に近い。
あの心優しい双子のおかげで、人としてのギリギリの理性を保つことには成功した。
しかし、今日この身に降りかかった、悪夢としか言いようのない事件の数々が俺を臆病にしていた。
俺はなぜ、こんな事をしているんだろう?
あの後、二人と楽しく簡素な会話を交わし、そのまま別れる事だって出来たはずだ。
それなのに、今も未練がましく厨房に立っている。
元よりあの二人に出す料理は決まっていた。
あらかじめ下ごしらえを済ませておいたので、さほどの手間もかからず調理は完了する。
なのに、この先に起こるかもしれない悲劇の予感に、俺の指先は固まっていた。
それでもこのまま固まっている訳にはいかない。
勇気を振り絞り、俺は恐る恐る、目の前にある鍋の蓋を持ち上げた。
鍋の底には宇宙を思わせる漆黒に、きらめく星々のような粒がちりばめられている。
息を吸い込んだ途端、かぐわしい花の蜜に似た香りが鼻をくすぐった。
この世界にも甘味は存在する。
しかし、それらとはまた趣の異なる柔らかな風味が鼻から全身に駆け巡っていく。
「……ふっ、ふふ」
たちまち、腹の底から笑い声が湧いて出た。
――――俺は何を恐れていたのだろう。
これほどまでに素晴らしい料理を携えておきながら、ためらう事は既にして愚かだ。
「は、ははは」
香りが鼻先から全身を駆け巡ると、恐れはどこかへ吹き飛んでいた。
腹の底からは割れんばかりの大笑がこみ上げてくる。
馬鹿馬鹿しい。なんて馬鹿馬鹿しい。
最初から。最初からこれを出しておけば。
「だっはははっははは!」
これが笑わずに居られようか。
今日一日、俺が体験してきた出来事は、すべてが喜劇だったのだ。
黒い輝きを匙ですくい上げ、一口で頰張る。
本能に訴えかけてくる、乱暴なまでの甘味。
「は、はははっ! はーーっはっはっはっは!」
舌先茸状乳頭から駆け上がる甘味物質が時空観測を妨げ、視覚領域に多大な変化が起きていた。
花だ。花が舞っている。鼓索神経を貫く多幸感が俺をパライソへと導くのだ。
輝く天頂の星々が周囲を踊る。ああ、巡る、巡る。明滅する輝きは何処から来るの。
大脳新皮質味覚野を巡る第三意思が俺の心に囁くのだ。
「これ、いけるんじゃね?」と。
「いける! いけるぞ!」
俺は天の声に力強く返事した。
「美味い」の語源は「甘い」という説もある。
その魅惑は国籍、異世界問わず、味覚持つ全ての者への必殺の一撃。
「ひ、ひひ! ひひっ! ひゃはっ!」
これならば、いかにお子様と言えども和食の素晴らしさを理解できる。
否。お子様だからこそ。
味覚が未発達で取り分けて甘味に反応する舌を持つ彼女たちだからこそ、この味はその心を貫くだろう。
「ひゃはははははははははははははははははははははははははははははははッ…………!」
笑いすぎて、最後はむせた。
■ ■ ■
「待たせたな、二人とも!」
天高く掲げるように二つの皿を持ち、食卓へと舞い戻る。
この上なく意気は揚々。もはや敵なしとばかりにその場でクルリと一回りしたいような気分だ。
「…………」
「…………」
そんな俺の昂りに対し、二人の反応は白けたものだった。
どうしよう。なんだか唐突にいたたまれない気持ちになってしまった。
しかし、よく見てみれば、双子は互いに肩を寄せ合っていた。
顔色も悪い。まるで恐怖に震える小動物のように身を縮めている。
先ほどまで上機嫌に机を叩いて料理を催促していたゾラまでが、無言のうちに震え上がっていた。
「……どうした?」
俺が問いかけると、ようやく我に返ったサラが恐る恐る口を開いた。
「あ、あの、兄様。この付近にはフケイが出るんでしょうか?」
「フケイ?」
聞き覚えのある名だ。どこで耳にしたんだったか。
記憶を解くよりも先に、それまで黙っていたゾラが大きな声で叫ぶ。
「キチ(ピー)みたいな声で鳴く鳥だよっ!」
「ああ。あの……」
サラとゾラの怯える瞳が鍵となって、一匹の魔物が思い起こされた。
魔物の名は、〈千変万化〉のゾンバッカー。
かつてサラとゾラの国を襲い滅ぼした、仇敵とも呼ぶべき魔物。
〈千変万化〉の異名の通り、変幻自在に己の姿を変えながら、この姉妹が暮らしていた平和な国を陥落させたらしい。
その陰湿な手口は今もこの双子の心に深い傷跡を残していた。
だが、そのゾンバッカーも今はいない。
この双子と共にゾンバッカーを討ち倒した際のエピソードは、人が人を信じる美しさを称える美談として諸国に知れ渡っている。
そうそう。フケイとは、ゾンバッカーが肩に留まらせていた気味の悪い怪鳥の名だ。
ああ、うん。つらつらと思い出してきた。
けたたましく鳴く騒々しい鳥で、その鳴き声は確かにキチ(ピー)の笑い声によく似ていた。
しかし、妙な話だ。
「この付近にあんな鳥が住んでいるなんて、聞いた事もねえな」
「……そう、ですか」
俺が厨房で調理している時に、そんな奇妙な音は聞こえてこなかった。
おそらくは幻聴。
と言いたいところだが、双子の両方が耳にしているのだからおそらく気のせいではあるまい。
この双子は間違いなくキチ(ピー)の笑い声に似た鳴き声を聞いているのだ。
そうなれば答えはひとつ。
「あの時の生き残りがたまたま上空を通ったのかもな」
「…………」
ゾンバッカーにトドメを刺した憶えはあるが、あの肩に止まっていた鳥がどうなったかは記憶にない。
あの時に生き延びたフケイがたまたま近場を飛んでいたのだろう。
幸いにも気持ち悪い鳴き声以外は実害のない鳥だ。野放しにしても問題は起こらないだろう。
あれこれ思案を重ねている内、ふと潜めるような声が耳に届いてきた。
「……だよ」
「でも……」
見れば、双子がちんまり寄り添って内緒話を始めていた。
この双子は時折、こうしてヒソヒソと二人だけの密談を始める事がある。
それは国を焼け出された後、二人の少女がたくましく戦乱を生き延びていく為に出来上がった習慣らしかった。
狭量で胸がでかいしか取り柄のないオデットなどはいい顔をしなかったが、俺はそれも仕方がないと思う。
何にせよ、小さな二人が体を寄せている姿はどうにも愛くるしい。
見ているだけで心が和んで、その習慣を咎めることなど到底出来そうになかった。
それもたかだか1分にも満たない話し合いで、相談と言っても双子の協調性ゆえか揉める事もない。
どちらかといえば互いに同じ思いを再確認するための、儀式のようなものだった。
それに話している内容もいつも罪のないものばかり。
いつか魔が差して聞き耳を立てた際も、話していたのはどちらが先に見つけた野良犬の頭を撫でるかの相談といった、実に可愛らしいものだった。
こうして目の前で堂々と内緒話をされても不快には思わない。
焚き火をぐるりと囲んで暖を取っていると、隣から小さな可愛らしい声が心地よく耳をくすぐる。
それは思いがけず脳裏をよぎった、過ぎ去りし冒険の日の思い出だった。
とはいえ、このままではせっかくの料理が冷めてしまう。
俺が声をかけようとしたその時だった。
「おい、二人と――」
「――――何を言ってるのッ!!」
俺の呼びかけに、サラの凄みのある声が覆いかぶさった。
サラはいつになく険しい表情で妹を見つめ、怒鳴られたゾラは瞳に涙を浮かべている。
一体、何が起きた? あの二人が言い争う姿なんて初めて目にした。
俺が戸惑っている間に、今度はゾラが口を開いた。
「でも……! だって!」
「信じるって、約束したじゃない! 二度とそんな事言わないで!」
ぐずるゾラを抱きしめてサラは叫ぶ。
鬼気迫るサラの様子に、俺は驚いた。
日頃、活発なゾラが大人しいサラを引っ張って行動している事が多いが、その実、この双子の主導権はサラにある。
いざ重要な判断を決める際にはいつもサラに判断を委ね、ゾラもその決定に異議なく従う様子を幾度となく目にしてきた。
俺が驚いているのは、何よりも今このタイミングでサラが豹変した事だ。
「……ごめんなさい」
「いいの……私の方こそごめんね」
サラが決断する時。それは双子が自分たちの身の振り方を決める時でもある。
ただこれから食事をする。それだけの場でしかない。
今この場において。なぜ二人は。
そこで不意に勘付いた。
確かにここは今後の人生を左右する重要な話し合いの場だった。
すっかり失念していたが、今日は俺が身を置く場所を決める為の席でもあったはずだ。
もしや、俺のことで言い争いを……?
だが、残念ながら彼女たちは最後の客である。
この二人が知る由もないだろうが、もはや俺が落ち着く場所はこの双子のそばしかありえない。
今更、双子の間でどのような取り決めが成されようと、俺の判断は決まりきっていた。
「申し訳ありません、兄様。おさわがせしました」
「いや、別にいいんだが……」
謝罪するサラのまっすぐとした眼差しを直視できず、俺は顔を背けてしまった。
半ば消去法のような選び方に幾分の罪悪感を覚えない訳ではない。
しかしそれよりも、何か、形容しがたい違和感が胸につっかえていた。
瞳を合わせるとそれを見抜かれる、いや、見抜いてしまうような気がして、咄嗟に視線をそらしてしまった。
「それより兄様。私、お腹がぺこぺこです」
先ほどの怒号が嘘のように、にこやかに笑うサラ。
いつも見慣れたはずの笑顔が、どことなくぎこちないように感じるのは気のせいだろうか。
だが、それでもその笑顔には数多の疑問を飲み込ませるだけの魅力がある。
なに、機嫌を損ねているというならばそれも好都合。
後ろを見れば、いつも元気一番だったゾラも表情が冴えない。
どころかいつになく挙動不審で落ち着きがない。
ますます好都合だ。
美食とは、人々を笑顔にさせる魔法なのだ。
ましてや、これから彼女たちに提供される和食は思わず顔をほころばせる、甘き優しき神の柔らかな抱擁。
「ねぇ、兄様。早く、早く」
辺りに漂いだした甘い香りに気づいたのだろう。
サラが上目遣いで俺を急かす。
俺はその視線に応えるように、無言で天高く掲げていた皿を降ろした。
それは双子の視界からは、突如として天から舞い降りた純白の天使のように見えたことだろう。
その姿を見た双子が息を合わせたように短く声を漏らす。
見るがいい。薄汚れたこの世界よ。
その名を冠するに値する、大いなる福音の和菓子。
清く柔らかな純白の天使・「大福」様の御降臨である。