第16話:笑う魔王・リコピン(一)
まるでそのまま時が凍りついたかのようだった。
長い長い沈黙がその場を支配していた。
いくら考えをまとめようとしても、この珍事を前にしてはそれもうまく捗らない。
かつて世界を震撼させた魔王・ルシフェルサタン。
この世界を滅ぼしかけた悪の首魁とも呼ぶべき存在。
それが今、再びこの世に復活したにも関わらずである。
あろう事か、こう言い放ったのだ。
やだよ面倒臭い、と。
その言葉がどういう意味なのか、理解するのにしばらく時間がかかった。
いや、もしくは魔族特有の言い回しで「再びこの世界を闇で覆ってやろう」とかそんな意味なのかもしれない。
切実にそうであってほしい。
そんなこちらの葛藤をよそに、当人は呑気なものだった。
一応こちらを向いてはいるが、その場で寝転び、どこぞの寝大仏みたいな格好のまま、胡乱な目つきでこちらを見ている。
何度となく全力で斬りかかっても、決して大地に屈しはしなかったあの魔王が、だ。
この上なくリラックスしてやがる。
しかし、こちらに意識が向いているのなら、ある程度の応答も可能かもしれない。
そう思い至り、俺は恐る恐る声をかけた。
「……お、おい。ルシフェルサタン」
「…………」
「今のはどういう…………いや、それよりなんで俺を殺さ……」
しかし、次々と湧き上がる俺の疑問をルシフェルサタンは口から漏れる炎の息吹によって遮った。
一瞬、身構えてしまったが、それはかつて見た燃え盛る地獄の業火ではない。
せいぜいがライター程度の、哀れな灯火がひとたび燃えて儚く消えたようなものだった。
意図の見えない炎の明滅には困惑するばかりだ。
俺の当惑をよそに、ようやく魔王は重々しく口を開く。
だが、その言葉は俺を一層、混乱させた。
「…………なぜ解いた」
「は?」
「……なぜ封印を解いた、と聞いている」
それは全く筋の通らない話だった。
世界各地にその魔の手を伸ばし、混沌と破滅を作り上げてきた恐怖の魔王。
俺は、いや、俺たちはこの魔王と刃を交え、死力を尽くして戦い抜いた。
その果てに奴をなんとか封印し、この世界に平和を取り戻した。
それは決して夢物語ではなく、確かな実感として今もこの手に残っている。
封印を施す際、奴もまたギリギリまで抵抗していたはずだ。
その間際までも聞いたことのない呪文を唱え始めていた姿は今も恐怖の印象として脳裏に刻み込まれている。
この世に復活する事はこの魔王にとっても喜ばしい事態である。俺はそう思っていた。
今再び、魔王の顔を見る。
厳しい顔つきは元からだが、今はそこに別の色が重なっているように見える。
沈痛な面持ち。怒りをため込んだ表情。凶暴な野獣じみた相形。
しかしその実、それが心底から面倒臭い出来事に出くわした人間の表情にそっくりだと気付いた。
俺の頭の中でカチリと最後のピースがハマる音がした。そして、魔王は忌々しげに言葉を続けた。
「余計なことをしてくれた。ああ、余計なことをしてくれたな」
舌打ちを鳴らしてうなだれる魔王の姿に、一つの答えを得てしまった。
俺は震える手を抑えながら、その確認をする。
「…………つまり、お前はあのまま封印されていたかったのか?」
何も言わず、ゆっくりと頷く魔王。
出来れば否定してほしかったが、そうなると先ほどのセリフも意味が通ってくる。
「…………つまり、お前は面倒くさいから、あのまま封印されていたかったと?」
魔王は再び何も言わず、ゆっくりと頷いた。
頷いて欲しくなかった。
■ ■ ■
あれからしきりに面倒臭がる魔王を促して、一から十まで説明させた。
かろうじて聞き出せた情報を要約するとこんな感じだ。
まず、魔王は世界を滅ぼす気なぞ毛頭なかったらしい。
何を言っているんだこいつは、と笑い飛ばしかけたが、どうやら当人は大真面目らしい。
ある目的のために他国に侵攻した事はあっても、世界の崩壊だの人類種の滅亡だのは興味がないと言い切った。
……じゃあ俺は何の為にこの世界に呼ばれたんだ。責任者出てこい。
さておき、その本来の目的とやらについても尋ねてみたが、そちらははぐらかされてしまった。
魔王曰く、些細な望みらしく、俺もさほど興味もなかったので深く追求はしなかった。
それより問題なのは、封印された後のことだ。
魔王は当初、どうにかその封印から抜け出そうと足掻いていたらしい。
しかし厳重な封印を前にしてはいかな魔王と言えど、手も足も出なかった。
そうして幾度となく足掻き続けた結果、魔王はこう思った。
「封印の中、最高。早く戻してくれ」
そう。
事もあろうにこの魔王は、時が凍結された封印の世界が気に入ってしまったと言うのだ。
「……まさに夢の世界だったぞ。飯も食わなくていい。風呂に入らなくてもいい。誰の目も気にしなくていい」
先ほどからどうにも喋り方に違和感があると思ったら、どうやらそれも部下の手前、格好つけていただけらしい。
俺と戦っていた頃は一人称も「我輩」で、妙に持って回った言い回しが実に魔王らしかったと言うのに。
「あんな場所があるならこの世界にもはや用などない。早く早く。早く封印を」
今や猫どころか被っていた虎を脱ぎ捨てて、恥も外聞も気にしなくなった無敵の魔王様である。
寝転んだまま手拍子で封印を急かす姿に、昔日の魔王の姿はない。
「待て待て。まだ聞くことがあるぞ、リコピン」
「…………ハァ、面倒臭い」
付け加えると、ルシフェルサタンも偽名であったらしい。
当人曰く、芸名のようなものだと言い張っていたが、それが部下に対する見栄に過ぎないことは言うまでもない。
本名はリコピンといい、何ともコメントしにくい響きをしている。
「……あー、そもそも貴様、少し礼儀知らずじゃないか?」
「ああ?」
そんなふざけた魔王が尻を掻きながら、これまたふざけたことを言い出した。
礼儀という概念を封印の中に置き忘れてきたようなこの輩に、まさか説教されるとは夢にも思わなかった。
「何言ってんだリコピン。頭おかしくなったのかリコピン。元からおかしいのかリコピン」
「…………それだ」
「は?」
「さっきから人の名前を気安く連呼する割に、未だに貴様は己の名前さえ名乗っていないではないか」
「……………………」
俺は静かに天を仰ぎ、顔を手のひらで覆った。
そうして大きなため息をつき、確認したくもない事実をまた一つ確認した。
「…………ひょっとしてお前、俺が誰かも分かってないの?」
「うむ。誰だ、貴様は」
無性に泣きたくなった。
俺は、俺たちはあれほど命の火花を散らして戦ったというのに。
こいつの為に俺はこの世界に呼ばれたも同然で。なのに、こいつは。
「――――なんで忘れてんだよッ! ヤマトだよ、ヤマト!」
「お? おう……?」
「お前を封印した! あの勇者様だよ! お前と戦っただろ! みんな率いてさぁ!!」
「……おっ、おお? あっ、あ、ああ〜〜〜!」
やっと思い出してくれたらしい。
魔王はその顔に驚きと困惑の色を乗せながらも、納得したとばかりに手拍子を叩いてくれた。
「思い出したか!?」
「いや待て。確かあの時の勇者はこんなみすぼらしい顔は…………」
「色々あったんだよぉッッ!!」
最後は思わずむせてしまったが、俺があの時、刃を交えた勇者である事は理解したらしい。
魔王はようやく居住まいを正して、俺の方へ向き合った。
「うむ。考えてみれば封印を解ける者は封印を施した勇者当人しかおらんしな。それにしてもその変わりよう…………」
「…………んだよ。なんか文句あんのか」
「いや、興が乗った。人に話をさせるばかりではつまらんだろう。貴様のこれまでの経緯も物語ってもらおうじゃないか」
魔王はそう言って悪戯っぽく笑う。
その堂々たる魔王の有様に何か嫌な予感がよぎった。
しかし、それでは話が進まない。
俺は渋々、これまで俺が辿ってきた道筋を物語った。




