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第11話:ただの村娘・フィオナ(前)

 己の腹の内をぶちまけたような、暗い黒い闇が広がっていた。


 目を閉じているのか開けているのか。自分でもよく分からない。

 だが、そんな事はもはや俺にはどうでもいい事だった。


 すっかり夜も更けたというのに、今夜は月の光さえも厚い雲に遮られてしまっていた。

 遠方の山からは野犬の遠吠えまでが聞こえてくる。しかしそれでも明かりを灯す気にはなれない。


 一度、光を灯せば、見たくもない現実を目にしてしまう。

 そうなればいよいよ正気を保っていられる自信がなかった。

 

 あるいは、すでに狂っているのか。

 それを確かめる勇気も持てず、俺はただ闇の中に埋没していた。


 アルレンサ。ソマリ。オデット。サラ。ゾラ。

 かつて仲間だった、俺を支えてくれた者たちの姿が闇夜に浮かぶ。

 皆にこやかに、こちらを見て微笑んでいる。


 だがこれは幻だ。

 過去への妄執が見せる幻にすぎない。そんな事は俺が一番よく分かっている。

 

 その誇り高さでいつも俺を励ましてくれたアルレンサ。

 困った時はいつもソマリの知識が頼みの綱だった。

 オデットはいかに危険な場所であっても大事な背中を預けさせてくれた。

 いつも優しく回復魔法をかけてくれたサラとゾラがいなければ、俺は何度、戦場で命を落としていた事だろうか。

 

 どうしようもない、しかし確かにあったはずの美しい過去。

 そんなまばゆい過去の情景に、一粒の光が浮かんだ。


 これもまた幻だろうか?

 光は闇夜に映し出された仲間の姿を切り裂くように揺れ動きながら、徐々にその輝きを増していく。

 ぼんやりとその光を見つめている内、光はいつの間にか俺の近くにまで迫ってきていた。

 そして光は、とうとう俺の手元までやって来るとこう言った。


「――――ちょっと……ヤマト? 何してるの?」


 古ぼけたランタンを掲げながら、村娘のフィオナが暗がりから驚きの声をあげた。





 ■  ■  ■





 俺がこの世界にやってきたばかりの頃の話は、あまり語りたくはない。

 食料に溢れた定食屋で生まれ育った俺にとって、あれほど惨めでひもじい思いをしたのは生まれて初めての事だった。


 親切丁寧な神のサポートでこの世界に何の準備もなく放り出された俺は、一切の補助を受ける事もなく異世界に放り出された。

 一銭の金も持たず、どころか一振りの剣すらも与えられない。これで神を呪うなという方が無理がある。

 

 なにせ言葉は通じるものの、一切の常識が通用しない異世界である。

 ましてや戦乱の最中。得体の知れないこの俺に構ってくれる奇特な人などいるはずもない。

 俺は当然のように路頭に迷い、そして当然のように行くあてのない道の半ばで行き倒れた。


 そんな八方塞がりだったこの俺を救ってくれた奇特な人。

 その人こそがフィオナだった。

 

 魔物の襲来によって食料の備蓄も乏しい。

 そんな状況下にあっても見ず知らずの俺に虎の子の食料を分け与えてくれた。

 お陰で生き長らえ、今日この日を生きていると思えば頭が上がらない。


 それから俺はしばらくフィオナの家に寄宿させてもらい、この世界の常識を覚えた。

 火のおこし方。竃の使い方。現代人である俺には馴染みのなかった生活技術も教えてもらえた。

 思えば、貧しいながらも楽しい日々だった。


 そんな穏やかな生活は、古の賢者が残した予言に従ってやってきた兵隊が俺を勇者へと祀り上げるその日まで続いた。

 課せられた使命に重責を感じていたこの俺が無事に魔王を打ち果たせたのは、あの時、フィオナが俺に食料を分け与えてくれたからに違いない。

 俺はこの世界を救いたい、と心から思えるようになった。


 その後、俺はたしかに勇者として世界を救った。

 だがあの時、俺を救ってくれたのは他の誰でもない。


 ただの村娘のフィオナだったのだ。




 ■  ■  ■




 さすがに彼女には事情を説明しない訳にはいかない。

 俺は残った気力を振り絞って、これまでの顛末を明かした。


「……信じらんない! そんなのって、あんまりだよ!」


 経緯を説明し始めると、フィオナは最初こそ黙って聞いていたが、とうとう堪えきれない様子で机を叩いた。

 俺は傾きかけたボロ机をとっさに支える。


「あ、ごめん。……でも、ヤマトがせっかく用意してくれた料理を口に合わないっていうだけで台無しにするなんて、ひどい。ひどいよ!」


 太く結われた茶色の髪が大きく揺れている。

 それは何事に置いても争いを嫌うフィオナにしては稀な怒りようだった。

 村育ち相応に野暮ったくはあるが、どこか人を和ませる不思議な魅力のあるフィオナにしては珍しい剣幕である。


「食べ物は神様からの贈り物なのに……王族の人だからかな。なんでそんなひどいこと出来るんだろ」


 その口ぶりは食事会で狼藉を働いた事よりも、食事を台無しにした事に対する非難の色が強いように見えた。

 …………珍しい、といったが実はこの剣幕には見覚えがある、


 それは俺がこの世界にやってきたばかりの頃。

 食材を粗末に扱った際、こんな感じのフィオナに叱られた事があった。

 

 一粒の米にも七の神が宿る。

 そんな言葉がもはや風化しつつある国で育った我が身の愚かしさを、俺はこの時、教えられた気がした。


 それに、と付け加えて、フィオナは空を仰いだ。

 もともと粗末な掘建小屋ではあったが、一連の騒動を経た今では屋根にいくつか穴が開いて開放感溢れる趣となってしまった。


「ひどい。死んだおじいちゃんが作ってくれた小屋だったのに……」

「…………すまん」


 この小屋はそもそもフィオナから借りたものだった。

 和食追求を思い立ったこの俺が、真っ先に知己であり農業のスペシャリストであるフィオナを頼ったのは当然の流れだろう。


 再会を大いに喜び、二つ返事で快諾してくれたフィオナは、住む人間のいなくなった小屋を拠点として提供してくれた。

 それだけではない。一部、食材の栽培も請け負ってくれた上にツテの職人まで紹介してくれた。

 彼女こそ、まさに和食完成の影の立役者とも呼ぶべき、かけがえのない恩人だった。

 

「ヤマトは悪くないよ! 悪いのはあの人たちじゃない!」


 一体、誰が悪いのだろう。

 俺にはそれが分からなかったし、返事する気力さえ湧かなかった。


「ヤマトはこれからどうするの?」

「……分からない」


 一体、どうすればいいのだろう。

 俺にはそれが分からなかったし、返すべき答えすら見当たらなかった。


 かつての仲間と決別してしまった今となっては、身の置き所にも悩まねばならない。

 それというのも、あの連中だけが特別、とはどうしても思えなくなってしまった。


 どこの、誰の世話になろうとも、決して和食が受け入れられる事はない。

 そんな予感が俺の先行きを見通しのつかない闇へと貶めていた。


「じゃあさ、じゃあさ……」


 フィオナがためらいがちにこちらをちらりと横目見る。

 いつも大らかなフィオナにしては妙に似つかわしくない。

 ひりつくような緊張感のある挙動が彼女にはとても不釣り合いに思えてならない。

 それから少し間を見計らうようにして、フィオナはようやく話を切り出した。


「このまま、この村で暮らさない?」


 それは思いがけない提案だった。

 こうして山奥深くでフィオナと共に余生を過ごす。

 誰にも理解されることのない和食をひっそり楽しみながら隠者のように暮らすのだ。

 それもまた、悪くない気がしてきた。


「……それもいいかもな」

「それがいいよ! ね? そうしよ!」


 迫るようにしてフィオナは笑ったが、笑い返す余裕はない。

 しかしフィオナは俺の反応から別の意図を読み取ったようだった。


「……ひょっとして、まだあの人たちのこと、考えてる?」


 あの人たち。

 フィオナは俺と共に世界を救った仲間たちのことを、そんな風に呼んでいる。


「もういいじゃない。あんな勝手な人たち……」


 フィオナは唇をとがらせ、あからさまな苦手意識を示した。

 一介の農民であるフィオナからすれば王族に親しみを感じろという方が無理な話かもしれない。

 しかし、それにも増してフィオナは俺の仲間を嫌っていた。

 

「あの時だってそうだよ。ヤマトを無理やり連れて行って……」


 あの時、フィオナは俺が勇者として見出された事を、決して了承してはくれなかった。

 俺の旅立ちにも終始反対の姿勢を崩さず、最後こそ笑って送り出してくれたものの、やはりその奥に隠された感情は悲しみに違いなかった。

 おかげでフィオナはあの時、調査隊を派遣したオデットたち王族に対する嫌悪感を隠そうともしなくなったようだった。


「あたし、あの人たち嫌い。いつも勝手なことばかり言って、こっちの都合なんて考えもしないんだもの」

 

 フィオナにとって、俺との生活はそれほどまでに大切なものだったのだろう。

 そして、それは俺も同じだった。

 フィオナと暮らす日々は、本当に楽しかった。


 フィオナから教わったものは、何も日々の暮らしの知恵ばかりではない。

 俺は何より、フィオナに「料理」を教わった。


 この世界の、何だか辛いような苦いような変わった味付けの料理の数々。

 俺の口には合わなかったが、しかしそれでも見慣れぬ食材を相手に未知の料理に取り組む日々はそれは新鮮なものだった。

 ボタンを押せば火がつき、簡単に火加減を調節できるコンロに慣れてしまった現代人に、この時代の調理法は難しい。


 しかし、だからこそ燃えた。

 フィオナの指導の元、日増しに料理が上手くなる実感。

 その充実感たるや、並々ならぬものがあった。

 

 俺は母から料理を習い始めた頃のように、暇を見つけては料理の修業に没頭した。

 だが何事も最初からうまくいくはずはない。

 火加減を誤って鍋を焦がす事はなんて日常茶飯事だった。 

 しかし、そんな出来損ないの料理を、いつも決まってフィオナは笑いながら食べてくれた。


 そう、いつも笑いながら――――。


「……どうしたの、ヤマト?」


 空気の変化に気付いたフィオナが不思議そうな顔でこちらを見つめてくる。

 しかし、俺の意識はそんなフィオナより、過去に見たフィオナの記憶に没頭した。

 

 フィオナは過酷な世界の貧しい農村で生まれ育ち、真の飢えを知る人物だった。

 いつの日だったかぽつりぽつり、この村がひどい飢饉に襲われた時の話を聞かせてくれたことがあった。

 

 天候不順によって満足な実りを得られなかった年に、不運が折り重なるようにして魔族の一軍が近辺地域を襲った。

 働き手は兵士として駆り出され、わずかに残された食料の多くも国軍の糧として接収されてしまった。

 村に残されたのはか弱い女子供に老人。そしてそのわずかな村人が生きていくにも厳しい量の食糧。


 フィオナはそこから先を語ろうとはしなかったが、その時の体験が今の彼女の価値観を形作っている事は明らかだった。

 焦げていようが味がおかしかろうが、フィオナは俺の作った失敗料理を残らずたいらげてくれた。


 どんな料理でも。

 美味しかろうが不味かろうが。

 

 ……今更な話ではあるが、実はフィオナには一度も和食を振る舞ったことがなかった。


 それは別に彼女を軽んじているだとか、そういったひねた理由ではなく。

 単に和食をこの世界に再現しようと思い立ったのがこの村を旅立った後だったからに過ぎない。


 それは再会後も同じだ。

 フィオナに田畑の一部を提供してもらい、世界中から集めた一部の食材の栽培をお願いしたが、あくまで彼女が知っているのは和食の前段階としての食材に過ぎず、その和食の真髄の何たるかを彼女が知っているはずもなかった。

 途上で出来上がった試作品をいくつか食べてもらう手もあったろうが、中途半端な形で和食を人前に出したくはなかった。


 俺は、この世界に、完璧な形で、華々しく和食をデビューさせてやりたかったのだ。


 そうなると前言を覆すが、やはり、俺はフィオナをただの村娘と軽んじていたのだろう。

 俺は共に死線を乗り越えた仲間たちに、あるいは舌の肥えた王族である彼女たちに真っ先に和食を提供しようとした。

 相手がただの村娘では和食の格に相応しくない。

 そう、無意識に決めつけていたのだ。


 しかし、今更ながら勝手な思いが溢れ出ようとしている。

 またしても腹の底から熱いものがこみ上げてこようとしていた。


 ――――彼女なら、ひょっとしたら、和食を食べてくれるんじゃなかろうか?


 鼓動が早鐘を打ち、手に汗がにじむ。

 視線が合うと、フィオナは再び不思議そうに首をかしげた。


 もはや世間の評価なんてどうでもいい。

 ただ何も言わず、俺の作った和食を食べてくれればそれだけで――――。


「……なぁ、フィオナ」

「ん? なになに?」

「一つ、頼みがあるんだが……」


 他には何もいらない。

 ただただ、俺が作った和食を食べて欲しい。


「フィオナ、俺の和――――」


 いや、待て。

 そうか。そうだ。その手があったか。

 言葉を言い終える瞬間に閃きが舞い降りてくる。

 気がつけば、もつれた舌が次の言葉を発していた。


「――――小屋の中を片付けたい。手伝ってくれないか?」





 ■  ■  ■




 俺の悲願は和食の普及。

 このふざけたくそったれな世界の食卓に、麗しき和食をあまねく広める事こそが俺の願いだ。

 その夢は決して諦めきれるものではない。


 だが、この世界は決して容易に和食を認めようとしない。

 真正面から挑んだところで理解には程遠い反応が返ってくるだけだった。

 そこで、俺は迂遠ながらも冴えたアイデアを閃いた。


「ねえ、ヤマト〜! 言われた通り、大きめの木箱持ってきたよ〜!」


 フィオナは木で出来た大きな空の箱を二つ、裏の倉庫から担いで持ってきてくれた。

 両手で担ぐほどの大きさの箱であったが、中身は空なので重量はそれほどでもない。

 一見してただの箱。一見しなくてもただの箱。


 しかし、これが俺の秘策の要であった。


「悪いな。そこに置いてくれるか?」

「うん。これでよかった?」

「十分だ。悪いな、暗い夜道を歩かせて」

「ううん、全然! ……ヤマトは優しいよね!」


 村娘らしい結い髪を揺らしながら朗らかに笑うフィオナ。その笑顔はとても自然で、見ているだけでこちらまで和んでしまう。

 しかし、この温和そうなフィオナですら、食料を軽率に扱う人間を絶対に許さないという逆鱗が存在する。

 

 俺は今日の一連の事件を経て、人間の奥深さ、その闇の深さを知った。

 よく見知ったつもりの人物でも、その本性がいかなるものであるかを知らないのが世の常というものだ。


 今日積み重ねてきた俺の失態を鑑みるに、実際、本当の意味で和食が拒絶されたとはどうしても思えなかった。

 あるいは俺が的確にその人物を心の闇、つまりは「地雷」を踏み抜いてきた事こそが、本来の元凶なのではないか。

 そんな疑念が俺の頭に浮かんできた。

 

 そこで俺は一計を案じてみることにした。

 それがこの木箱を使った「小屋のお片づけ」である。


 現在、不幸にもこの小屋には和食の食材となる食品が散らばっている。

 それを「食べられるもの」「食べられないもの」としてフィオナに分別してもらい、その許容範囲を確かめてみようという試みだ。

 我ながら遠回りな作戦だとは思う。しかしこれ以上の悲劇はもう起こしたくはない。

 

「それじゃ、片付け始めるか」

「うん!」





  ■  ■  ■




 とりあえずフィオナには左の箱が食料用の箱。右の箱がゴミ箱だと説明しておいた。

 言うまでもなく、実に回りくどい作業である。

 フィオナは俺の説明には不思議そうな顔をして耳を傾けていたが、特に異論はないようで素直に頷いてくれた。


「これはどう思う?」


 俺は古ぼけたランタンで地面を照らしながら、そこに散乱した空豆を指差した。

 ……便宜上、空豆と呼んでいるが、この世界での本当の名前は知らない。

 しかし形状や味、その生態からして、これは紛れもなく空豆だ。


「これ、お豆だよね? 見たことないけど」

「西のカネル辺りに自生してたんだ。俺のいた世界では空豆と呼んでいた」

「へぇ〜、お空の豆なんだ。美味しそうだね」


 少々勘違いされたが、俺の心の中ににわかに光が差した。

 フィオナはこれは食べられるようだ。

 散らばった幾つかの空豆についた土を払ってから、空豆袋を「食べられる」用の左の箱へ移す。


「よし、では次」


 俺は宝探しのようにランタンを操って、次なる食材を探し求める。

 ぼやけた光源の中、次に飛び込んできたのは独特の芳香を発する細長いもの。

 これも和食ではお馴染みのお漬物・たくわんだ。


「変わった臭いだね」

「この匂い、嫌いか?」

「ううん。ちょっとクセがあるけど、これ保存食でしょ? うちにも似たようなのあるよ」

「ああ、そういやフィオナはこういうの好きだったな」


 フィオナに言われて、村で暮らすうちに目にした漬物の類いを思い出した。

 塩やらで菜の物を保存するのは万国共通ならぬ万界共通らしい。

 ひょっとしたら元の世界とこの世界の共通点を見出せば和食の普及も容易になるかもしれない。覚えておこう。

 たくわんもOK。無事審査に通ったので左の箱へ。


「……ねえ、ヤマト。なんか変な臭いしない?」


 丁重にたくわん様の御神体を木箱に移していると、フィオナが怪訝な顔つきで奇妙なことを言い出した。

 俺の視線が自然と手に持ったたくわん様に向かう。


「これの匂いじゃなくてか?」

「ううん、それじゃなくて。なんだろ……この臭い」


 指摘を受けて鼻を動かすと、確かに小屋の中は臭かった。

 おそらく一つ一つの匂いをより分ければ、麗しい芳香を放っているのだろう。

 しかし、食材やら調味料やら自在に氾濫する小屋の中は、すでにして異臭のるつぼだった。


 だが、俺はそれを不快には感じなかった。

 むしろをそれら全てを飲み込んで己の血肉に変えたいとさえ思ってしまうほどだ。

 しかしフィオナにとってはそうではないのだろう。

 

「確かにすごい匂いだが、いろんな食物が散らばってるんだ。我慢してくれ」


 フィオナには、あまり馴染みのない匂いなのだから仕方ない。

 ともあれ、俺はさして気にも止めず、さらなる食材を探してランタンを動かした。


 その手が、にわかに止まった。


「…………フィオナ。一つ確認しておくことがある」

「ん? 何?」

 

 俺は恐る恐る光をその食材へと差し向けた。

 無残にも割られたツボ。

 その中から、どろりとした物体が地面にぶちまけられていた。


「これは味噌という調味料だ」


 確かに、こうして暗がりの中で見る味噌は決して見目麗しいものではない。

 しかしそれでもこれだけは言っておかねばならない。


「これは調味料だ。人間の脳じゃない」

「う、うん」

「ましてや! これは○ンコなのではありえない! 分かるか!?」

「分かる、分かるよ。とりあえず落ち着こ? ヤマト、なんか怖いよ。ね? 落ち着こう」


 肩で息をしながら、俺はわずかに残った味噌がついたツボの欠片を震える手でそっと持ち上げる。

 それを荒れ牛をなだめる仕草で俺の背を叩くフィオナに向かって見せつけた。


「これは食物だ。いいか? これは食物なんだ」

「わかった。わかったって。ミソは食べ物。わかったから落ち着こう。ね?」


 しきりに首を縦に振りながらフィオナは理解したようだった。

 となれば、この味噌は当然、左の箱に収めるべきものになる。

 俺が満足して味噌を左の箱に収納していると、フィオナが後ろから俺の肩を叩いた。


「ねえ、ヤマト。この手順だと夜が明けるまでに終わりそうもないし、私もお片付けしていいかな?」


 確かにこの調子で逐一確認していては時が無駄に過ぎようというものだった。

 しかし、今この小屋には持ち運び可能な明かりとなるべきものがフィオナが持参したランタンくらいしかない。

 するとフィオナは思いがけない提案をしてきた。


「ていうか、ヤマトすごく疲れてるよね? 目の下のクマとかすごいし、ちょっと休んだらどうかな?」


 確かにフィオナの言う通りだった。

 言われてみれば全身がだるい。このまま逐一入れ込んでいては俺の体力が持ちそうにない。

 こうなれば好意に甘えて、少し休ませてもらうのが得策か。


「そうだな……じゃあ、少し休ませてもらうかな」

 

 幸いにもここまでの流れには何の問題もなかった。

 ならば任せても支障はない。何かあれば声をかければいい。

 俺はフィオナに小屋の片付けを一任し、しばらく椅子に座って休ませてもらう事にした。


 この時、俺は心のどこかで安堵していた。

 和食の材料はこの世界でも通用する。それならば和食自体もまた通用するはずなのだと。

 無邪気にも、愚かにも本気でそう思っていた。


 救いようのない悲劇が、今また新たに牙を剥こうとしている事にすら気づかずに。

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