第10話:日輪の双蕾・サラ ゾラ(四)
「ああああああああああああああああ……」
本来ならば選りすぐられた食材を美しい和食へと変貌させる、神器とも呼ぶべき道具たち。
そんな崇高な使命をもって生まれてきたはずの調理道具たちが、無残な姿に変わり果てていた。
己が使命を半ばにしてその輝ける道を閉ざされた道具たち。これ以上の悲劇があるだろうか。
「……あ、あんまりだぁ…………」
俺のまぶたからたまらず堪えきれない量の涙が爆ぜた。
酷い。なんて酷い。
無残にも朽ち果てた器具達の悲嘆が、俺の身体に染み込んでくるようだ。
さぞ無念だっただろう。さぞ悔しかっただろう。
しかし、しかし許してくれ、耐えてくれ。いとしき同胞たちよ。
お前たちを葬ったクソガ……子供達は、もはや俺の最後の仲間なのだ。
落ち着こう。気を鎮めて、いつもの明るく優しいヤマト兄さんに戻るんだ。
諸行無常。すべてのものはいつか失われる。壊れたものはまた作り直せばいい。
そうだ。壊れたものはまた作り直せる。壊れた絆もまた取り戻せるはずだ。
落ち着け。落ち着こう。
念仏を唱える俺の視界。そこにまるで天啓のように、ツボが割られ床にぶちまけられた味噌の塊が目に入った。
本当にもったいない。俺は無意識に味噌の一部を指ですくい取ると、おもむろに舐めた。
「はぁ〜、タマンねぇ」
口に含んだ途端、強烈な味噌の旨味が広がって、唾液に溶かされながら優しい風味に変化する。
この世のしがらみと多くの悲しみから解放され、心が緩やかに解されていくのが分かる。
やはり良い。素晴らしい。
だが幸せな時間は長くは続かない。止めどない唾液に押し流され、味噌は胃の腑へと流れ落ちていく。
気づけばタガが外れたように流れていた涙はピタリと止み、荒んでいた心が嘘のように落ち着いてきた。
「…………もう一口だけ」
ふたたび指ですくって舌先に乗せると、またあの素敵な感覚が全身を支配した。
そうやっているうちにもう一口、もう一口と、俺はもう止まらなかった。
まるで垣間みた幸せな情景に焦がれるマッチ売りの少女のように、俺は一心不乱で味噌を舐め続けた。
その時だった。
「……兄ちゃん、なにやってんの」
いつの間に現れたのか、背後からゾラがそれはそれは冷ややかな目で俺を見つめていた。
さらに俺が振り向くと、小さく青い瞳を大きく見開いて一歩退いた。
「な、なんで○ンコ食って……」
「違う! これは味噌だ!」
こいつはまた……。
すぐに尾籠な話題にくっつけたがるのが子供のサガとはいえ、度が過ぎている。
もうこんな話題はたくさんだ。せっかく味噌で晴れた気分がまた曇ってしまう。
「……ミソ?」
「和食に欠かせない調味料の一種だ。間違っても○ンコでも脳味噌でもないぞ」
俺は気をまわして、更なる誤解を封じるべく先手を打ったつもりだった。
しかし、そこでゾラが不思議そうに首を傾げ、思いがけぬ質問をした。
「……兄ちゃん、ノウミソって何?」
「あ?」
哲学的な質問、という訳ではないらしい。
言われてみれば、味噌の存在しないこの世界ではどう表現しているのだろう。
言うまでもなく、脳味噌という呼び方はその有り様がどうにも味噌に似ていた事に因んだものである。
味噌のない世界では、脳はそのまま脳、あるいは異なる呼び方で別のものに例えている可能性がある。
思いもよらない例え、あるいは想像もつかない下品なものと結びつけているやもしれない。
ならば是正すべきか?
もはやこの世界への信頼はない。どれだけ歪んだ常識が形成されていてもおかしくはないのだ。
これは新たな国の指針に言語改革も盛り込むべきだろうか。
「ねぇ、兄ちゃん」
「ん、ああ……」
ゾラの呼びかけにひとまず思考を切り上げる。
これはこんな場所で軽はずみに決断を下していい案件ではない。
だが素晴らしい閃きをもたらしてくれたゾラにはお礼をせねば。
俺は恩返しのつもりで質問に答えた。
「脳味噌ってのは、人間の頭の中に入ってるもんだな。人間はここでものを考えたりするんだよ。これがないと生きていけないくらい大事なもんなんだよ」
子供にも分かるように、出来るだけ噛み砕いた説明をしたつもりだった。
ところがゾラはまた一歩後ずさり、またしてもトンチンカンな答えを導き出した。
「え……兄ちゃん、そんなもん食ってたの……!?」
俺の全身を凄まじい脱力感が襲った。
だから違うと言ってるだろうに。そこまで言いかけて、訂正する気も失せた。
「そんな話はどうでもいい。何か用があって来たんじゃないのか」
「あ、うん。姉ちゃんが泣き止んで、兄ちゃんに謝りたいって…………いやちょっと待って。どうでもよくないよね……?」
味噌を舐めている間に思いがけず時が流れていたらしい。
料理が作れない今の状況下、サラが自力で立ち直ったのは不幸中の幸いというやつだ。
後ろで何かブツブツ言っているアホゾラは放って、俺はサラのいる客間へ戻った。
■ ■ ■
荒れ果てた部屋に一人。
小さな体をさらに縮ませるようにして、サラが立っていた。
「あ……」
こちらを見て何かを言いかけるが、それが次の言葉に繋がらない。
ゾラの話を合わせて斟酌するなら、さっきの狼藉について謝罪したいんだろう。
「――――兄様。先ほどは、なんと言いますか、その……」
俺の顔を見てようやく踏ん切りがついたのか、サラは勢いよく頭を下げた。
それは以前、俺が教えていた見事なお辞儀だった。
「あの! ごっ、ごめんなさい!」
サラはあれこれ考えあぐねた末に適切な謝罪が思い浮かばなかったようだ。
最後になって懸命に己の素直な気持ちだけを述べる。
必死に背伸びをしようとするが素顔は子供のまま。
それは見ようによっては実にサラらしいとも言える謝罪だった。
「ゴメンなさい」
後から遅れて現れたゾラが、サラに並んで同じように頭を下げた。
やはり双子は一心同体なのか。その咎を共に背負うように瓜二つのお辞儀だった。
あとは俺がこれに「許す」と一言返せば元通り。
そうなれば万々歳。万事何事も丸く収まって、未来に向かって話が進むというものだ。
実際、俺は怒っていない。
確かに命を狙われた訳だし、必死の呼びかけも無視された。
だが、その程度の事で意固地になるほど、俺は器の小さな男ではない。
俺は怒ってなどいない。
丹精込めて一から手作りし、せっかく作ってやった大福を台無しにされた。
最初はムカつきもしたが、まぁ今となってみれば予想の範疇と言えなくもない。
だから、俺は怒ってなどいない。
このアホガキが考えもなしにぶっ放した攻撃魔法によって、多くの食材や調理器具が台無しにされた事も。
魔術工房に足を運んで身振り手振りを交えて一から作ってもらったスリ鉢が割られた事も。
鍛冶屋ににわか弟子入りまでして創り上げた浅鍋を鉄くずにされた事も。
当然、俺は微塵も怒ってなどいない。
「…………はぁ」
俺は再び大きなため息をついて、自分の顔を両手で張った。
そうじゃない。そうじゃないだろう。
人と人が信じ合わねば、何も生まれない。
ついさっき思い出したばかりの初心を、俺はもう忘れかけている。
そんな自分の愚かさに気付いたからこそ、怒りの発奮はあえなくため息へと変わってしまった。
俺はサラの悲しみを汲み取り、この耐えがたい怒りを飲み下さなければならない。
俺は再びサラを見つめた。
サラは涙で濡れた顔をまたもや曇らせ、ローブの裾を握りしめるようにして拳を握っていた。
次の言葉を待つその姿は、まるで形の宣告を待つ犯罪者のようでもあった。
サラは過失とはいえ、取り返しのつかない罪を犯してしまった。
俺を殺したかけた事などは物の数ではない。
サラが犯した愚行とは、この世界における和食の普及を最低でも数年、遅らせてしまった事である。
これはどう償っても償いきれる罪ではない。――――俺は、そう勘違いしていた。
真実は違う。違うのだ。
期せずして俺は先ほど、真実をつぶやいていた。
壊れたものは直せばいい。失ったものは作り直せばいいだけなのだ。
数年遅れたと言うなら、この俺がさらなる努力で取り戻してみせよう。
人を信じずに美食を追求したところで、その先に待つのは心通わぬ虚しい食卓だけ。
それを思い出させてくれたこの双子は、やはり天が遣わした天使なのかもしれない。
ならば、サラに返すべき言葉は「許す」ではないはずだ。
――――初心を思い出させてくれて、ありがとう。
この場の締めくくりには感謝の言葉こそが相応しい。
先ほどは謝罪のために繰り出したお辞儀を、今度は異なる謝意を載せて繰り出すのだ。
俺の視界がゆっくりとスローモーションのように下がっていく。
もはや怒りなどあろうはずもない。
これからこの双子と共に、真に美味しい和食を追い求めていこう。
この時、この瞬間までは、確かに俺はそう思っていた。
その光景に、我が目を疑った。
申し訳なさそうにたたずむサラの足元。
おそらく当人は自分が何をしているのかすら気づいていないのだろう。
しかし、それは確かにそこにあった。
あの騒動の中で忘れ去られていた大福。
俺が彼女たちに提供した大福は何も一つだけではない。皿の上には複数の大福が載っていたはずだった。
その中の一つ。その答えがここにある。
サラは大福を、踏んづけていた。
「……あ、ああ……」
折しも室内は荒れ果て、木屑や石片が散乱しているために何かを踏みつけていても気に留めない状況である事は理解できる。
だがしかし。それでもこんな非道な行いが、果たして許されていいのだろうか。
柔らかなモチ肌は無残にも破られ、中に詰まった福々しいアンコが内臓のようにはみ出ている。
その痛ましい姿に絶句していると、どこからか救いを求める叫び声が聞こえてきた。
――――ヤマトさん、助けて。
大福ちゃん!
俺は思わず声を荒げて叫びかけた。
「痛いよぉ……痛いよぉ……え〜ん、痛いよぉ」
それは紛れもなく、大福ちゃんの声だった。
大福ちゃん。可哀想な大福ちゃん。
誰に食される事もなく、無残にも踏みにじられる大福ちゃん。
なぜだ。なぜこんな酷い事ができる。
俺の目に、大福ちゃんを踏みつける悪鬼の姿が映った。
睨みつけると、相手も睨み返してくる。
「……兄様?」
何が天使なものか。
簡単に人の信頼を裏切り、平然と人の命、どころか哀れな大福の命を奪う事にさえ何の躊躇もない。
可愛らしいのは見た目だけで、一皮むけばその奥には漆黒の悪魔とも呼ぶべき本性が潜んでいる。
まるで大福ちゃんのようでいて真実は似て非なる。
こいつらこそ、地獄から和食を滅ぼすべく遣わされた悪魔に違いない。
守らなければ。この悪魔から。
大福ちゃんを――――。
「姉ちゃん! 危ない!」
小さな叫び声がそのまま一陣の風になったかの如く、俺の体は突然の風にあおられて壁に叩きつけられる。
強烈な風に逆らってなんとか視界を開くと、そこにはサラをかばうようにしてゾラが得意の風魔法を発動させていた。
戸惑いながら、サラが悲鳴を上げる。
「ゾラ! 何を……!」
「こいつ今、姉ちゃんを殺そうとしてた!」
…………何を言っている?
俺がサラを殺そうとする訳が――。
「…………!!!」
ところがサラは、その一笑に付すべきゾラの言葉を真に受けたようだった。
ちょっと待て、と言いたい。
確かに、ゾラはその取り巻く魔力から人の感情を感知する能力があるのは俺もよく知っている。
だからこそ唐突におかしな事を言い出したゾラには面食らった。
というか痛い。全力で吹き付ける風によって俺の体はまだ壁にハリツケ状態だった。
「……でも、この人は兄様なんでしょ?」
それは先程、ゾラ本人が太鼓判を押したはずの真実である。
しかし、ゾラは大きく首を振った。
「分かんない! でもこいつ、兄ちゃんじゃないかも!」
本当に何を言い出すんだ、こいつは……。
というかマジ痛い。そんなやり取りを見つめている間に、いっそう風が強まって俺の体が壁にめり込んでいく。
ゾラは魔法を発動させ続けながら、壁に叩きつけられてカエルのようになっている俺を指差した。
「だって、こいつ、さっき隣の部屋で隠れてノウミソ食べてた!」
脳味噌じゃねえ。味噌だ、味噌。さっき説明してやっただろ。
そこまで考えて、面倒臭くなって途中で説明を切り上げてしまった自身の失態を思い出す。
「ね、ねえ、ゾラ。…………ノウミソって何?」
「人間の頭の中に入ってる大事なものだって! それを美味しそうに食べてた! ゾンバッカーみたいに!」
「…………ッ!!!」
ッ!!!じゃなくてな。こいつらは本当にもう。
というかゾンバッカーって脳味噌が好物だったのか。初めて知った。いや、そんな事はどうでもいい。
しかし、なんとか釈明しようと口を開こうにも、ゾラの風が顔ごと圧し潰すように吹き付けてうまく言葉にならない。
こうなったら仕方あるまい。
「えっ!」
普通の人間ならば、ゾラの風魔法をモロに浴びれば身動きひとつ取れなくなる。
よほど上級の魔物であっても、この拘束を解くことは不可能に近いだろう。
だが、これでも一度は世界を救った身である。
俺は壁に貼りつけられていた腕を力任せに動かした。
「なんで!? 全力でやってるのに!」
高い魔力を誇るものの、その性格に反して戦闘より補助に特化したゾラの攻撃魔法なら力づくで引き剥がせない事もない。
骨がきしむような音もこの際は無視する。一刻も早く誤解を解かねば。
風魔法に対する手順は確か…………ええい、面倒くさい。
「――――ふんッ!」
俺の気合に弾き飛ばされ、吹きつけていた風魔法が霧散する。
突風は消え去り、自由になった俺は軽やかに着地した。
その様子を見ながら、ゾラは絶句したまま固まってしまっていた。
色々と言いたいことはあるが、ともあれ説明が必要だ。
俺はできるだけ物音を立てないよう、静かにゾラに歩み寄った。
「……ゾラァ、ちょっとお話ししようか」
「ヒィッ!」
一歩歩くごとにゾラが短く悲鳴を上げるのが気になるが、そんな事はどうでもいい。
とにかくこの面倒な状況を解決せねば。
俺はゾラの近くまで歩み寄ると、逃げようとするゾラの肩をつかんだ。
「……いいか、ゾラ。まず、味噌は脳味噌ではない。いいか? 脳味噌ではないんだ」
「ひっ!」
つかんだゾラの肩がそれはもう激しく震えている。
俺はその震えをなだめるよう、努めて優しい声で語りかけた。
「味噌は脳味噌ではない。美味しい、美味しい、神が人類に与え給うた奇跡の調味料――――それが味噌だ」
「あ……あ……」
「ほら、言ってみろ。ミ・ソ、だ。ノウミソじゃない。ミ・ソ」
「た、たすけ……」
ああ、助けてやるとも。
そのふざけた思考回路を持った脳味噌に和食の真実を叩き込んでやる。
「ましてやッ!」
「ひいいいいいいいい!」
「味噌は◯ンコではない! ――――◯ンコな訳がねえだろ、この大バカ野郎が!」
「あ、ぐっ……ひ、ひぃいん……」
味噌の素晴らしさをようやく理解したゾラは感激のあまり、とうとう泣き出してしまった。
その姿に少し満足したが、俺はあの事を忘れてはいなかった。
決して忘れてはいけない、大事なことだ。
「……お前、さっきアンコまで◯ンコ呼ばわりしてなかったか?」
「えっ、ひっ、ひぐぅ……」
そう、俺は決して忘れてなどいなかった。
このクソガキが放った、美味しい大福ちゃんに対する暴言、その一言一句を。
「してたよなぁ!? ああ!? てめえの舌はどうなってんだ?」
「ひぃいいぃ……」
「アンコだって言ったよな? あん! あん! あん!? 分かるかァ!? ◯ンコじゃねえ! ◯ンコがあんなに甘いはずがねえだろ!」
「い、やぁ……」
「それともてめえの◯ンコはあんなに甘いのか!? ああん!? だったらここでして見せ――――」
叫びながら、ふいに背後に人の気配がした。
俺が振り返ると、そこにはいつの間にか姉のサラが立っていた。
人は、それを電光石火と呼ぶのだろう。
「――――妹から手を放せ! このキチ(ピー)!」
ゾラとそっくりな泣き顔を浮かべながら、サラはそれは見事な前蹴りを俺の股間に着弾させた。
普通の男性ならば、たとえ幼女であっても股間に全力の蹴りを食らえば身動きひとつ取れなくなる。
よほど上級の魔物であっても、その痛みを耐えきる事は不可能に近いだろう。
だが、これでも一度は世界を救った身である。
「ぎゃああああああああああああああああああああああああ!」
それでも無理でした。
俺はあまりの激痛にもんどりうって地面を転げ回った。
かろうじて破裂しないほどに変形した球体が悲鳴を上げている。
いくら体を鍛えてもどうしようもない、吐き気を催す痛覚が声にもならない声を放り出させた。
その頭上に吐き捨てるような双子の声が降ってくる。
「逃げるよ、ゾラ!」
「でも、姉ちゃん……」
「こんなのが兄様なわけないでしょ! 私たちだけじゃコイツには勝てない! 今は逃げましょう!」
足早に遠ざかる双子の靴音。
俺は双子にすがりつく事も出来ず、溢れ出る激痛に翻弄され続けた。
■ ■ ■
徐々に痛みが引いてくると俺は部屋に一人取り残されていた。
もはや立ち上がる気力さえ湧かない。
全てを失った。
全てを、失ってしまったのだ。
どうしようもない無力感に押しつぶされそうになる。
そんな俺をかろうじてこの世につなぎとめたものがあった。
俺は、確かに、守った。
せめて守り抜いた、ちっぽけな功績を確認するように俺は床を這った。
向かった先には、愛らしい大福が転がっていた。
俺は彼女をいたわるように語りかける。
「………………大福ちゃん、大丈夫?」
当然、返事はなかった。




