〇〇八 黒蟻
後半は視点が変わります
――カサカサッ、カサッ
耳障りな音で目を覚ます。
目の前にあるのは、巨大な黒い複眼と大きな顎――
「に゛ゃーーっ!!」
驚きのあまり変な体勢で飛び跳ねてしまう。
しかし、身体は悲鳴を上げる。
受け身も取れず、そのまま床に落ちる。
(い、痛い……)
蟻が、心配そうにこちらを覗き込んでくる。
どうやら僕は、意識を失ったあと、ここに運ばれてきたらしい。
土壁に、草を敷いただけの簡素な寝床。
それ以外は何もない、小さな部屋だ。
蟻は器用に前脚を使い、僕をそっと寝床に戻してくれた。
お礼を言いたい。
でも、身体が動かないし、言葉も通じない。
蟻は大顎をギシギシと擦り合わせ、何か言いたげにこちらを見ている。
だが、その意味は全く分からなかった。
だけども、嫌な感じはしない。
……言葉にはならない何かが、伝わってくる気がした。
別の蟻が飲み物を持ってきてくれた。
甘い蜜の香りがする。
蟻は前脚を蜜に浸し、それを掬って動けない僕の口元へ運ぶ。
衛生的にどうとか、行儀がどうとか、そんなことはどうでもよかった。
僕はただ、嬉しかった。
胸の奥に、じんわりと熱が広がっていく。
見た目も種族も全く違う存在が、こんなにも優しくなれるのだと――
異なる種が助け合うなんて、普通はありえない。
本能も、生存戦略も、そんな風にはできていないはずなのに。
それなのに、目の前のこいつらは違う。
当たり前みたいに、僕を助けている。
(……なんでだよ)
思わず、そんな言葉が浮かぶ。
元の世界で、こんな風に何かをしてもらった記憶なんて、ほとんどない。
誰かに頼ることも、頼られることも、ほとんどなかった。
だから――
余計に、分からない。
(どうして、こんなにも……)
気づけば、視界が滲んでいた。
……駄目だ。
泣いたら、きっとまた心配をかけてしまう。
僕は慌てて目を擦り、こぼれそうになった涙を押し戻した。
前脚についた蜜を、ぺろりと舐める。
甘酸っぱくて、とても美味しい。
蜜をほとんど飲み干すと、蟻さん達は静かに部屋を出ていった。
休ませてくれるつもりらしい。
その優しさに、少しだけ肩の力が抜ける。
眠る前に、さっきの"あれ"を思い出す。
……夢、ではない。
黒猫はそう言っていた。
確か名前は……『ネロ』。
僕が意識をなくすと現れるとも言っていた。
化け犬の亡骸。
あれをやったのは、おそらくネロだ。
……強いなら、ずっと出てきてくれればいいのに。
そう思うが、きっと何か制約があるのだろう。
あと、もう一つ。
ネロは『この身体の持ち主』と言っていた。
一瞬、思考が止まる。
僕の身体は、元の世界に残っているのか。
それとも――。
良くて植物状態。
最悪、もう……。
そこまで考えて、思考を止めた。
怖いし、悲しい。
けれど、今の自分にはどうすることもできない。
……それに。
蟻さん達のことを思い出す。
この世界も、そこまで悪くないのかもしれない。
そう思ってしまう自分がいる。
心残りがあるとすれば、りん先輩のこと――。
とりあえず今は回復する事が大事だ。
少し眠る事にする。
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――とある城の広間。
数万の兵士と民衆がひしめき合い、その熱気が空間を歪めている。
壇上には、白銀の鎧を纏った白髪の青年。
その隣に、赤髪の少女が静かに立っていた。
「これより、決起集会を行う!」
大柄の兵士の号令が響く。
ざわめきが、嘘のように止まる。
青年が一歩、前に出た。
「我々は長きに渡り、“女神”と“原初の獣”に苦しめられてきた。だが――ついにそれを打ち破り、権利と栄光を手にした!」
歓声が上がりかける。だが、青年は続ける。
「しかし、見よ。森は枯れ、湖は濁り、大地は死にかけている。勝利したはずの我々が、なぜこのような地に縛られているのか――」
空気が変わる。
期待から、不満へ。
「理由は明白だ。世界の三分の一は異種族が独占し、
残る三分の一は魔境と化し、魔王率いる魔族に支配されている!」
ざわめきが広がる。
「そして我々に残されたのは――この不毛な大地のみだ!」
「不公平だ!」
「そうだ!」
「ふざけるな!」
民衆から怒号が、波のように押し寄せる。
「鎮まれッ!」
大柄な兵士の一喝。
だが、火はすでに点いていた。
青年は、それを見て、わずかに口元を歪める。
「……我々は奪われたのだ……。本来あるべきものを、理不尽に奪われた!」
静かに、しかし確実に言葉を落とす。
「ならば――取り戻すしかない!」
間を置き、声を張り上げる。
「これは侵略ではない! 強奪でもない! 我々の“解放”だ!」
「おおおおっ!!」
「セフィロトは失われた! ならば、新たな女神のもと――我々の力で世界を作り直すっ!」
狂気が伝播していく。
「正義は、我らにあるッ!」
「うおおおおおッ!!」
怒号は歓声へと変わり、理性を塗り潰していく。
誰もが、疑わない。
誰もが、疑えない。
その熱狂の中で――ただ一人。
赤髪の少女だけが、何も言わず、ただ静かに立っていた。
――そして、この日を境に。
世界は、大戦乱の時代へと沈んでいく。
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いつもご愛読ありがとうございます。
良いものを読んでいただきたいので、少し掲載ペースが落ちます。挿絵なども掲載していく予定です。お楽しみに!




