第3話 弱者の常識
ノアが歩き、言葉を覚え、
アリスの手を自然に握るようになった頃。
人類の子どもたちは、生き延びるための教育を受ける時期を迎える。
学校、と呼ばれていた。
だが、それは学問を教える施設ではない。
生き方を教えられる場でもない。
――死なないための教育をする場所だ。
「いいかい、みんな」
教壇に立つ男は、四十ほど。
とはいえ、年齢より老けて見える。
苦労が顔に刻まれた、人類の村では当たり前の風貌。
彼は、優しい目をしていた。
だが、その優しさが何も救っていないことを、彼自身が一番よく知っていた。
「弱い者が逆らったら、どうなる?」
子どもたちは、一拍おいて答える。
「殺される」
「連れていかれる」
「二度と戻ってこない」
先生は頷いた。
「そうだ。
だから逆らわないこと。
従うこと。
賢く振る舞うことが大事だ」
黒板には文字すら書かれていない。
字を学ぶ暇も必要も、この村にはなかった。
子どもたちに必要なのは、
・怒らせない
・目立たない
・空気になる
その術だけ。
「誰も、君たちを助けてはくれない。
私だって同じだ」
その言葉は絶望だった。
しかし、嘘ではない。
「いいかい。これは、
君たちを生かすための授業だ」
先生は、そう言って笑おうとした。
引きつった、悲しい笑顔だった。
***
アリスは、手を挙げた。
「先生……」
「なんだい、アリス」
「どうして、助けてくれないの?」
「……」
教室の空気が、一瞬止まった。
「助けてくれる人が、いたら、いいのに」
アリスは、小さく呟く。
「たとえば……とても強い人がいて。
その人が、悪いことする人を、止めてくれたら……」
先生は、ゆっくり首を振った。
「そんな人はいない」
その声は、穏やかだった。
だが、それは“優しさを殺す声”でもあった。
「この世界には、強い者しかいないんだ。
弱者の味方をする強者はいない」
「……どうして?」
「強者にとって、弱者は……
どうでもいいからだ」
その瞬間、
ノアはアリスを見た。
アリスは、唇を噛んでいる。
納得できていない。
でも、理由を言語化できない。
ノアは考える。
どうでもいい。
それは、きっと正しい。
「……そうだ」
ノアの声が、ぽつりと漏れた。
アリスが振り向く。
ノアは、淡々としている。
「弱いから、どうでもいい。
死んでも、どうでもいい」
「ノア……」
「俺もそう教わった」
それは、
この世界において“正しい答え”だった。
先生は悲しげに目を伏せる。
アリスは、強く首を横に振った。
「でも……!」
言葉が詰まる。
代わりに涙がこぼれそうになる。
ノアは思う。
どうして泣くんだろう。
泣いたところで、
世界は何も変わらない。
ノアは理解した。
(アリスは弱い)
それでも――
(弱いのに、まだ死んでいない)
世界の常識に照らし合わせれば、
それは奇跡だった。
ノアにとって、アリスが特別である理由は、
ただそれだけだった。
まだ、隣にいる。
その単純な事実だけが、
ノアをアリスの隣に留め続けていた。
***
「ノア」
授業の帰り道、
アリスは袖を掴んだ。
「ノアは、どうでもよくないよ」
「……?」
ノアは瞬きする。
「ノア、生きてるんだよ。
だから、どうでもよくない」
「どうでもよくない、ってなに」
「――いっしょに、生きたい」
ノアは、アリスの顔を見た。
灰青の瞳は、涙で濡れていた。
「せかいが、どうでもよくても……
わたしは、ノアのこと、どうでもよくない」
その言葉は、
ノアの中に小さなひびを入れた。
胸の奥。
どこかに存在するはずの何かが、かすかに揺れた。
揺れただけだ。
動きはしない。
「……ああ」
それだけ答える。
でも、アリスは笑った。
泣きながら笑った。
「よかった」
「……なにが」
「ノアが、わたしのこと……
“どうでもいい”って言わなかったから」
ノアは、少しだけ考えてから言った。
「アリスは。
どうでもよくない」
「ふふっ……それ、なんか変」
「変か?」
「変だよ。でも……ありがと」
ノアは理解できない。
だが、アリスは救われていた。
それで、いいのだろうか。




