第10話 おひさまは二人のために
王宮の議場を支配していた重苦しい沈黙が、一瞬にして塗り替えられた。私が焼き上げた『おひさまパン』から溢れ出す、力強く、どこか懐かしい香り。それは冷たい石造りの壁を溶かし、厳格な大臣たちの険しい表情を、魔法のように和らげていく。
「……これが、あの街の『価値』だとおっしゃるのか」
最年長の老臣が、震える手でパンを口に運んだ。ひと口、ふた口。やがて彼は、持っていたペンを置き、深く、深く溜息をついた。
「……忘れておりました。かつて、私の母が焼いてくれたパンも、このような匂いがした。……数字では測れぬ、人の営みの温かさ。これこそが、国を支える真の豊かさであったはずだ」
一人、また一人と、パンを口にした大臣たちが顔を上げる。その瞳には、さっきまでの冷徹な光ではなく、一人の人間としての温かな光が灯っていた。
「殿下……我々の負けです。水源の徴用計画は、直ちに白紙といたしましょう。このパンを焼く手、そしてこの光を守ることこそが、我ら議会の真の責務であった」
その言葉が響いた瞬間、アルベルトさんの肩から、ずっと背負い続けてきた重荷が滑り落ちた。彼はよろりと膝をつき、それから私を見て、ふっと崩れるように笑った。あの日、泥だらけでトマトを食べた時よりも、ずっと無防備で、子供のような笑顔だった。
一週間後。街には、あの日以上の眩い太陽が戻っていた。
徴用令の完全撤回という知らせは、風よりも速く街を駆け抜け、広場ではモリスさんたちが樽を開けてお祝いの真っ最中だ。ナナは「お姉ちゃんが王子様を倒したんだよ!」なんて、でたらめな武勇伝を吹聴して回っている。
そして私は、いつものように厨房でパンを捏ねていた。でも、今日は少しだけ違う。オーブンの隣には、お忍びの地味な服に着替えた王妃様が座り、「あら、その生地の丸め方、素敵ね」なんて言いながら、楽しそうに試食を待っている。
「……リナ」
カラン、とドアのベルが鳴った。そこには、三日間の公務を終え、馬を飛ばしてきたアルベルトさんが立っていた。亜麻色の髪を風になびかせ、肩で息を切らしながら、彼は真っ直ぐに私の元へ歩み寄ってくる。
「アルベルトさん! 忙しいんじゃなかったんですか?」
「……査察官は、現場の事後調査も職務のうちだと言っただろう。それはそうと……」
横で楽しげに座っている母である王妃に目をやった。
「なんで母上がここに来ているのですか?」
「気にせずに続けなさい。私はただの『客』ゆえ」
息子の生き生きとした顔に満足げで微笑んでいる。
彼は私の前に立つと、少しだけ照れ臭そうに、けれど真剣な眼差しで私を見つめた。
「リナ。私は、これからも何度もここへ来る。王宮の食事よりも、君の焼くパンが……いや。君のいるこの場所が、私の帰るべき場所だと気づいたからだ」
「……はい。いつでも待っています。焼きたてのパンを、一番いい席で」
私はカウンターを回り込み、彼の前に立った。窓から差し込む光が、二人の足元に重なり合う。アルベルトさんは私の手を取り、その手のひらに、そっと自分の額を預けた。
「……ありがとう、リナ。君が、私に本当の光を教えてくれた」
「アルベルトさんこそ。……私を見つけてくれて、ありがとうございました」
その時、ふと見上げると、お店の入り口の看板が、風で少しだけ傾いているのが見えた。
「あ……またネジが」
私が声を上げるより先に、アルベルトさんは笑って外へ飛び出した。あの日と同じ。高い背中。すらりと伸びた腕。キラキラと輝く亜麻色の髪をなびかせて、彼は軽々と看板を定位置に戻した。
――カチッ
心地よい音が街に響く。彼は振り返り、私に向かって、あの時と同じように右手をひらりと上げた。でも、あの日と違うのは、その後に彼が最高の笑顔で私の元へ駆け寄り、その大きな手で私の手をぎゅっと握りしめてくれたことだ。
見上げれば、空はどこまでも高く、青い。私たちの頭上には、祝福するように、まばゆい『おひさま』がキラキラと輝き続けていた。
きっとパンの焼ける幸せな香りと共に、これからもこの街で紡がれていく。亜麻色の王子様と、おひさまパンを焼く私だけの、特別な、キラキラした毎日。




