プロローグ
「はあっ…はあっ…」
荒い息遣いだけが静寂を支配した。規則的な呼吸ではあったが、普通の生活を送る上ではまず聴こえるはずの無い呼吸音だった。
ドッ!!
突如響く轟音。閃光。引き摺られるような音。土煙。
暫しの静寂の後に思い出したかの様にまた聴こえる呼吸音。
「…がっ…!!」
怒気を孕んだその声は
「このクソがあぁぁぁっ!!!!!!」
やがて静寂を切り裂く叫びとなった。
「ようこそ、適合者様」
「はぁ…」
本日何度目の溜め息になるだろうか。入社したての学生気分が抜けない僕なら恐らく数えていただろう。
正直うんざりしていた。変わらぬ毎日、ほぼ変わらぬ仕事、飼い殺される社畜という存在に。
仕事が終わり、電車に揺られて家に帰る。今日は座先に座れなかった。だが、目の前の同業者を見て眠気にやられて乗り過ごさずに済んだと自分に言い聞かせて吊革を握る。
(そう言えばビール切らしてたっけ?帰りにスーパー寄らないと…)
毎日を帰ってからの風呂の後の酒で誤魔化し、忘れた後に泥のように眠る。そんな日々の繰返しだった。
だが、そんな中でもたった一つ。たった一つだけ忘れられない物が僕にもあった。
『これをこうすると…ほら!!』
『えっ!?嘘!!どうやったのそれ!?』
『簡単だよ。これは僕の世界では蝶結びって言ってね?』
「…!!」
とある好きなアニメ。言わば異世界物だ。主人公が自分が居た世界とは違う世界で自分の国の文化を伝えて称賛される。
純粋に憧れだった。可愛い女の子や気の合う新しい友人。都合の良いほどの展開。
大人になった僕でも言わば忘れられない存在だった。そして今でもまだ心の奥にその夢は輝き続けていた。
「…クスッ」
少し口元が緩くなる。仕事帰りの疲れた時は思いだし笑いが出やすい。
唇の裏を噛み、にやけた顔を気付かれない様にする。大人になってから我流で編み出した処世術の一つだ、
(何時からだろうな…人目をやたらと気にし出したのは)
物思いに耽っていると幾度ときいた車内アナウンスが流れ、目的地に着いたことを知らせた。
何となく。
そう、本当に何となくだった。
家に帰りたく無い、帰ったらまた同じ毎日の繰返しになる。寝て起きて朝食を食べて身仕度を整えて仕事に行く。何年も繰り返した毎日をまた辿る事になる。
結果論として見ればただの逃げの口実と行動に過ぎなかったが、僕はスーパーの帰りにいつもと違う道を辿った。
知らない道では無い。休日に散歩でよく通る道だったし、遠出する時にもたまに使うありふれた道だ。
その数十分が非現実という事象として残る、そんな些細な変化が僕には充分だった。
【だった】はずであった。
僕は何故か夢に見た【地獄】の広間に居たんだ。




