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心象スケッチ  作者: はる
第一章 ひまわり男をさがして

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第七話

神楽町の夜は、夏になっていた。


 月織事務所を出た時、蓮はまず匂いに気づいた。雨上がりのアスファルトの匂いではない。川の泥でも、古いビルの湿ったコンクリートでもない。熱を含んだ土の匂い、葉の裏に溜まった埃の匂い、花粉が喉の奥へ貼りつくような匂いだった。五月の夜の空気の中に、八月の午後が混ざっている。いや、混ざっているというより、上から塗られている。誰かがこの街の上に、別の季節を乱暴に重ねたのだ。


 商店街のアーケードは黄色い蔓に覆われていた。閉店した薬局のシャッターの隙間から、ひまわりが顔を出している。クリーニング屋の看板には太い茎が巻きつき、電光掲示板の文字は花弁に隠れて読めなくなっていた。駅前へ続く道の向こうでは、信号機の上に巨大なひまわりが咲き、赤と青と黄色の光が濡れた路面に滲んでいた。人々はその光の中で叫び、走り、立ち止まり、スマートフォンを構え、そして画面に映った異常を見て、ようやく現実のほうを信じられなくなる。


 大人たちは、ひまわり畑に引きずり込まれていた。


 最初、それは比喩のように見えた。商店街の真ん中に、畑などあるはずがない。だがアーケードの奥には、確かに畦道が伸びていた。舗装された道が途中で途切れ、黒い土へ変わり、そこから人の背丈を超えるひまわりが密集している。スーツ姿の男がそこへ足を踏み入れた瞬間、足首に茎が絡みついた。女が悲鳴を上げて子どもの手を引こうとすると、その子どもだけが畑の外へ弾き出され、女の身体は花の群れの中へ沈んでいった。消えたわけではない。花の隙間から、彼らの腕や顔が見えた。だがどれだけもがいても、ひまわりの茎は大人の身体を離さなかった。


 子どもたちは外側に残された。


 犬も、猫も、鳥も、蝶も、外側にいた。商店街の入り口では、幼い男の子が泣きながら母親を呼んでいた。その母親はひまわり畑の中に膝まで呑まれ、こちらへ手を伸ばしている。蓮は走り寄ろうとしたが、咲が腕を掴んだ。


「全員は無理」

「でも」

「核を止めなければ増えるだけよ」


 咲の声は冷たかった。冷たくしなければ崩れる声だった。蓮は咲の横顔を見た。彼女の目は商店街ではなく、もっと奥を見ている。ひまわり畑の中心。神楽町の現実と、どこか別の夏が重なり合っている場所。そこに、ひまわり男がいる。


 日向は、何も言わずに歩き出した。


 ポチは咲が抱いていた。日向は最初、渡すのを嫌がった。けれど、畑の入り口に立った時、犬の身体が震えていることに気づき、乱暴に咲へ押しつけた。「落としたら殺す」と言った。咲は「落とさないわよ」とだけ答えた。日向はその返事を聞いたのか聞かなかったのか、もう前を向いていた。


 ひまわり畑の中は、昼だった。


 夜の神楽町から一歩入っただけで、空の色が変わる。頭上には青すぎる空があり、白い雲が異様に近い場所を流れていた。蝉が鳴いている。遠くで水路の音がする。風がひまわりの葉を揺らすたび、ざわ、ざわ、と何百もの小さな手が擦れ合うような音がした。足元は土だった。さっきまでアスファルトだったはずなのに、日向の靴底は乾いた畦道を踏んでいる。神楽町の商店街の看板はひまわりの向こうに薄く透け、電柱は田舎道の標識のように傾き、アーケードの屋根は青空の中で骨だけになっていた。


 日向は立ち止まった。


「ここ」


 その声は、聞いたことのない声だった。


 怒っていない。刺してこない。誰かを遠ざけるための声ではなかった。もっと幼く、もっと遠い。記憶の底から引き上げられた声だった。


「ここ、知ってる」


 蓮は日向を見た。

 日向の顔は、ひまわりの黄色に照らされていた。彼女は周囲を見回している。自分の記憶に似すぎた景色に、足元を奪われている。どこまでも続くひまわり畑。背の高い花。逃げ場のない空。美しすぎて怖い場所。母親と来た夏。


「母さんと来た」


 日向が言った。


「暑くて、喉が乾いて、ひまわりが全部こっち見てるみたいで、わたし、怖かった。でも母さんが笑ってたから、怖いって言えなかった。母さん、きれいだねって言った。わたしも、きれいだねって言った」


 蓮は黙っていた。


 日向は歩き出した。


「でも本当は、怖かったんだよ」


 ひまわり畑の奥へ進むにつれて、周囲の花は少しずつ背を伸ばしていった。花弁は大きくなり、黒い中心は深くなる。花のひとつひとつが、顔のない観客のように蓮たちを見下ろしている。畑の中には、ところどころ大人たちが閉じ込められていた。茎に腕を取られ、膝を土に埋められ、身体のどこかから小さなひまわりを咲かせている者もいた。誰かを殴った手から。誰かを罵った口の端から。見て見ぬふりをした目の下から。花は彼らの罪を責めるように咲いていたが、その美しさはあまりにも無邪気だった。


「気持ち悪い」


 日向が呟いた。


「きれいなのに、気持ち悪い」

「うん」

「あいつ、何がしたいの」

「守ろうとしてるんだと思う」

「こんなのが?」

「うん」

「ばかじゃん」

「うん」


 日向は蓮を睨もうとして、できなかった。怒りの形を作るには、景色が彼女の中に入り込みすぎていた。


 畑の中心に、ひまわり男は立っていた。


 黒いスーツ。白いシャツ。ネクタイはない。磨かれた革靴。背の高い身体。頭だけが大きなひまわり。夜の神楽町から隔絶された真昼の畑の中で、彼は一本の巨大な花のように立っていた。周囲には、子どもたちの影がいくつもあった。助けた子どもたちなのか、日向の記憶の中の誰かなのかはわからない。犬や猫や蝶の影も見えた。弱いものたちの輪の中心に、ひまわり男はいた。


「守らなければ」


 声がした。

 電話の向こうで聞いた声と同じだった。けれど、今はもっと大きい。畑全体が喋っているようだった。ひまわりの葉が擦れ、茎が軋み、花弁が震え、そのすべてがひとつの声になる。


「弱いものを。傷つけるものから。泣くものを。殴るものから。小さなものを。大きなものから」


 蓮は一歩前へ出た。


「もう十分だよ」


 ひまわり男の花が、蓮のほうを向いた。


「十分じゃない」


 声は言った。


「まだ泣いている。まだ殴られる。まだ見捨てられる。まだ誰も見ない。だから、守らなければ」

「守るために、全部閉じ込めるの?」

「傷つけるものは、畑に」

「傷つけたことのある人間は、みんな?」

「畑に」

「じゃあ、僕もだね」


 日向が蓮を見た。

 ひまわり男は沈黙した。


 蓮は静かに言った。


「僕だって、誰かを傷つけたことがある。助けられなかったこともある。見ないふりをしたことも、きっとある。日向だってそうだよ。朝陽くんだって、君が助けた子どもたちだって、いつか誰かを傷つけるかもしれない。傷つけるものを全部畑に閉じ込めたら、最後には誰も残らない」


 ひまわり男の足元から、太い茎が伸びた。

 蓮の腕に絡みつく。


 咲が動こうとした。だが蓮は手で制した。茎は蓮の手首を締め上げた。骨が軋む。白い髪が熱風に揺れる。蓮は痛みに顔を歪めたが、声を荒げなかった。


「蓮」


 日向が言った。

 蓮は彼女を見ずに言った。


「大丈夫」

「大丈夫じゃないだろ」

「うん。痛い」

「じゃあ大丈夫って言うな」

「ごめん」

「謝るな」


 日向の声が震えた。


 ひまわり男はさらに茎を伸ばす。蓮の足元に、白い気配が集まった。風花家の術式。風のようで、雪のようで、繭の糸のような白い力。蓮がそれを放てば、茎を切ることはできる。ひまわり男に届くかもしれない。けれど、それをすれば、日向の悲しみごと切ってしまう気がした。


 蓮は力を振るわなかった。


「君は、誰を守りたかったの?」


 蓮はひまわり男に聞いた。


「弱いものを」

「最初に、誰を守りたかったの?」


 ひまわり男は答えなかった。

 畑の奥で風が止まった。

 蝉の声だけが続いている。じじじじじ、と、世界の傷口を焼くように。


「日向を、守りたかったんじゃないの」


 その瞬間、ひまわり男の身体が揺れた。


 ほんの小さな揺れだった。けれど、畑全体がその揺れに反応した。花がざわめき、茎が軋み、閉じ込められていた大人たちが呻いた。日向は立ち尽くしていた。


「違う」


 日向が言った。


「違う。そんなわけない。こいつは、母さんを殺したんだ」


 蓮は日向を見た。


「日向」

「言うな」

「お母さんは」

「言うな」

「お母さんは、病気で亡くなった」


 日向の顔が壊れた。

 怒りが壊れた。強がりが壊れた。大人を睨むために作っていた顔が、一瞬で崩れた。その下から出てきたのは、あまりにも小さな子どもだった。


「知ってるよ」


 日向は言った。

 声は、ほとんど聞こえなかった。


「そんなの、知ってるよ」


 蓮の手首を締めていた茎が緩んだ。

 日向はひまわり男を見た。


「知ってるけど、わかんないんだよ」


 彼女は一歩、前へ出た。


「病気ってなに。死ぬってなに。母さんがいなくなるって、なに。朝起きてもいない。夜になっても帰ってこない。電話しても出ない。怒っても、泣いても、いい子にしても、もう会えない。それが病気だからって言われて、はいそうですかって、そんなの、できるわけないだろ」


 ひまわり男は動かなかった。

 黒い花の中心が、日向を見ている。


「だから、犯人がほしかった」


 日向の声が、畑の中に落ちた。


「殴れるやつがほしかった。捕まえられるやつがほしかった。あんたを見つけたら、母さんが帰ってくる気がした。あんたが母さんを隠してるんだと思いたかった。だって、そうじゃなきゃ、母さんはただ死んだだけになる」


 蓮は目を伏せた。

 ただ死んだだけ。


 それほど残酷な言葉は少ない。意味も物語も罰も報いもなく、ただ命が終わる。残された者だけが、終わらない時間の中に置き去りにされる。


 日向はひまわり男に近づいた。


 咲が止めようとした。蓮が首を横に振った。


 日向はひまわり男の前に立った。彼女の背丈では、花の顔を見上げるしかなかった。ひまわり男は大きかった。けれど、その姿はもう先ほどほど恐ろしくは見えなかった。黒いスーツの肩には、黄色い花粉が積もっている。革靴には土がついている。長い間、誰かを守るためだけに歩き続けて、帰る場所を忘れた人みたいだった。


「あんた、母さんじゃなかったんだね」


 日向は言った。

 ひまわり男は答えなかった。


「犯人でも、なかったんだね」


 花弁が少しだけ揺れた。


「じゃあ、なんだったの」


 風が吹いた。


 その風は、ひまわり畑の奥からではなく、日向の足元から吹いたように見えた。小さなひまわりが一本、そこに咲いていた。路地で見たものと同じ、弱くて、細くて、泣いているような花だった。その花が、日向の足元で光っている。


 ひまわり男が、ゆっくりと膝をついた。

 それは人間の動きだった。


 初めて、彼が怪物ではなく、誰かの形をしていたことがわかった。ひまわり男は日向の前に跪いた。顔は花のままだ。目も、口も、鼻もない。けれど、彼が泣いていることだけはわかった。花は涙を流さない。だから、代わりに花粉が落ちた。黄色い花粉が、日向の制服の袖に、靴に、土の上に静かに落ちていく。


 日向は手を伸ばした。

 途中で止めた。

 また伸ばした。

 そして、ひまわり男の花弁に触れた。


「わたしを、守ってたの?」


 ひまわり男は答えなかった。


 けれど、畑全体が静かになった。蝉の声が遠のく。閉じ込められていた大人たちを絡めていた茎が、少しずつ緩んでいく。黄色い花の群れが、風に吹かれるでもなく、ゆっくりと頭を垂れた。


 日向の手が震えた。


「でも、もういいよ」


 その声は、優しかった。

 蓮は、その声を初めて聞いた気がした。


「もう、わたしの代わりに怒らなくていい。わたしの代わりに、誰かを傷つけなくていい。母さんは、帰ってこない。そんなの、知ってる。知ってるけど、まだわかんない。たぶん、ずっとわかんない。でも、あんたが誰かを閉じ込めても、母さんは帰ってこない」


 ひまわり男の身体が、薄くなり始めた。

 最初は、光の加減かと思った。けれど違った。黒いスーツの輪郭が、夏の陽炎のように揺らいでいる。黄色い花弁の向こうが透けて、青い空と白い雲が見えた。


 日向は花弁を掴もうとした。

 けれど、その手は空を掴んだ。


「待って」


 日向は言った。


「待って。まだ、聞いてない」


 ひまわり男は薄れていく。


「母さん、最後になんて言ってたの。わたし、聞けなかった。病室で、眠ってて、起きたら、もう、だから」


 言葉が崩れた。

 日向は初めて泣いた。


 声を上げて泣いたわけではない。涙が一粒、頬を伝っただけだった。けれどそれは、彼女がずっと押し殺してきた一年分の水みたいだった。ひまわり男は消えながら、日向の頭の上に手を置くような仕草をした。触れたかどうかはわからない。だが日向は、確かに何かを感じたように目を閉じた。


 畑のどこかで、女の人の笑い声がした。


 それは母親の声だったのかもしれないし、日向の記憶が最後に作った幻だったのかもしれない。蓮にはわからなかった。ただ、その声はとても遠く、とても近かった。ひまわり畑の中で、誰かが言う。


 暑いね。

 背、高いね。

 きれいだね。

 それだけだった。

 それだけで、日向の身体から力が抜けた。

 ひまわり男は完全に消えた。


 花びらになって散ったわけではなかった。光にほどけて、夏の中へ戻っていくように消えた。最初からそこにいなかったみたいに。けれど日向の袖には、黄色い花粉が残っていた。


 畑が崩れ始めた。


 青い空に亀裂が入り、夜の神楽町が覗く。ひまわりは一本ずつ頭を垂れ、茎は土へ沈み、大人たちを捕らえていた蔓はほどけていった。商店街の看板が戻り、アーケードの屋根が戻り、電柱の根元に咲いていた花が萎れていく。夏は、来た時と同じように理不尽に消えていった。残されたのは、雨上がりの夜と、花粉の匂いと、何が起きたのか理解できずに立ち尽くす人々だけだった。


 日向はその場に座り込んだ。

 蓮は近づいた。


「日向」

「……見るな」


 声は震えていた。


「うん」

「泣いてない」

「うん」

「うんじゃない」

「ごめん」

「謝るな」


 蓮は少しだけ笑った。


 日向はその笑い方を見て、怒ろうとした。けれど、怒る力が残っていないみたいだった。ただ、袖についた花粉を見ていた。黄色い粉は、指で払えば落ちる。けれど完全には落ちなかった。布の繊維の奥へ、ほんの少しだけ残った。


 咲がポチを連れて戻ってきた。

 ポチは日向のところへ走り、膝に鼻を押しつけた。日向はその頭を抱いた。今度の撫で方は、少しだけ上手だった。


 蓮は夜空を見上げた。

 夏は消えた。だが、どこかでまだ、蝉の声が一度だけ鳴った気がした。



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