第六話
月織事務所に戻るころには、神楽町は夜になっていた。
夜の神楽町は、昼よりも少しだけ正直になる。商店街の看板は灯りを落とし、シャッターの落書きだけが街灯に照らされる。昼間には見えなかった壁の亀裂や、側溝に溜まった吸い殻や、閉店した店の貼り紙の古さが浮かび上がる。人間も同じだ。明るい場所では隠せたものが、夜になると呼吸の隙間から漏れる。
日向はほとんど喋らなかった。
ポチを抱いたまま、事務所のソファの端に座っていた。咲が何か言っても返事をしない。蓮が温かい麦茶を出しても、受け取らない。けれど、蓮が紙コップを机の上に置いて離れると、しばらくしてから片手で取った。
ポチは日向の膝の上で眠っている。
犬は、人間が思っているよりもずっと早く諦める。殴られることにも、空腹にも、捨てられることにも、名前を呼ばれないことにも、犬は驚くほど早く身体を合わせてしまう。だからこそ、ほんの少し撫でられただけで、世界をもう一度信じてしまう。
蓮はそのことが、少し怖かった。
日向の指は、眠る犬の背中をゆっくり撫でていた。
下手な撫で方だった。力が強かったり、急に弱くなったりする。けれど犬は逃げなかった。日向も、それに救われているようだった。誰かを傷つけないで触れることができる、という事実だけで、人は夜を越えられることがある。
咲は机の向こうで、ノートパソコンを叩いていた。
画面の光が彼女の顔を下から照らしている。目の下に薄い影があった。普段の咲なら、疲れていてもそれを笑いで隠す。だが今夜は、笑うための力を別の場所に回しているように見えた。
「死体の男、名前は黒沢誠。四十二歳。配送会社勤務。妻とは三年前に離婚。親権は父親側。近隣トラブル複数。児相への通報は二件」
咲が言った。
「二件?」
蓮が聞く。
「二件。どちらも様子見で終了」
「様子見」
「便利な言葉よね。何もしていないことを、何かしているように見せられる」
咲の声は平らだった。
日向が顔を上げた。
「大人って、ほんとに役に立たないね」
「そうね」
咲は否定しなかった。
日向は少し拍子抜けしたような顔をした。殴ろうと構えた拳が、空を切ったみたいだった。
「否定しないんだ」
「する理由がないもの」
「自分も大人なのに」
「だから言ってる」
咲は画面から目を離さずに言った。
「大人は役に立たない。だから、たまに役に立つ大人が必要になる。面倒だけどね」
「自分で言うな」
「他人が言ってくれないから」
日向は鼻を鳴らした。
ほんの少しだけ、空気が緩んだ。
だが、それは長く続かなかった。
咲が別のファイルを開いた瞬間、蓮は彼女の指が止まるのを見た。
咲は画面を見つめたまま、目だけで蓮を呼んだ。日向に気づかれないように。蓮は立ち上がり、机のそばに行く。
画面には、花びらの解析結果が表示されていた。
公園で拾った花びら。路地に残った花粉。現場のひまわり。三つのデータが重なっている。その中心に、赤い警告が出ていた。
同一心象波形。
蓮は画面を見た。
息を吸うのを忘れた。
咲は小さな声で言った。
「外部侵食じゃない」
「じゃあ」
「誰かの心象が、継続的に漏れてる。ひまわり男はその出口。核は別にある」
咲の視線が、ソファのほうへ動いた。
日向はポチを撫でていた。自分が見られていることに気づいていない。あるいは気づいていても、気づいていないふりをしている。彼女の横顔は硬かった。夜の窓に映る横顔は、子どもというより、子どもの形をした傷だった。
蓮は低い声で言った。
「日向なの?」
「可能性は高い」
「でも、本人はひまわり男を捜してる」
「だからよ」
咲は画面を閉じた。
「人は自分の心象から逃げる時、自分の外に怪物を作る。珍しいことじゃない。ただ、この規模は珍しい。あの子だけの力じゃないかもしれない」
「ひまわり男が、独立してる?」
「ある程度はね。最初は防衛反応だったものが、守る対象を広げすぎて、自律しはじめている。犬、猫、子ども、弱いもの。あの子の中のルールを、街全体に適用しようとしてる」
蓮は日向を見た。
日向はポチの耳を触っていた。指先で、破れた耳の形を確かめている。その手つきには怒りがなかった。怒りがない分だけ、あまりにも危うかった。
「止めないと」
「ええ」
「でも、無理に切ったら」
「壊れるかもね」
咲はあっさり言った。
あっさり言うしかないことだった。
「ひまわり男を倒せばいい、という話じゃない。あれはたぶん、あの子が母親の死を受け入れられなかった場所から出てきてる。犯人がいない喪失に、犯人の形を与えたもの」
蓮の胸の奥が、静かに重くなった。
犯人がいない。
その言葉は、日向にとっていちばん残酷な真実になるだろう。誰も悪くない死。殴る相手のいない怒り。奪った誰かがいないから、取り返すこともできない喪失。
人は時々、悪意よりも偶然に殺される。
そして偶然は、謝らない。
「母親の死因は?」
蓮が聞いた。
咲は少しだけ迷った。
その迷いが、答えだった。
「病死」
蓮は目を閉じた。
日向の声が頭の中で鳴った。
母さんは殺された。
あいつに。
だから、あいつを捜す。
「日向は、知ってるのかな」
「知識としては知ってるでしょうね。診断書も葬式もあったはず。けれど、心が知っているかは別」
咲は椅子にもたれた。
「子どもは、死を理解するために物語を作る。物語がないと、死はただの穴だから。あの子はその穴に、ひまわり男を立たせた」
蓮は何も言わなかった。
部屋の向こうで、日向が突然言った。
「聞こえてるんだけど」
蓮と咲は同時に黙った。
日向はポチを抱いたまま、こちらを見ていた。
目が据わっている。
怒っている。いや、怒りよりも速いものが、彼女の中で走っていた。恐怖だ。傷つく前に噛みつくための、本能的な恐怖。
「なに。わたしが犯人って言いたいの」
「違う」
蓮はすぐに言った。
「じゃあなに。わたしがあいつを作ったって? わたしが、あの人を殺したって?」
「違うよ」
「違わないだろ」
日向の声が大きくなる。
ポチがびくりと震えた。そのことに気づいて、日向は一瞬だけ手を緩めた。けれど視線は蓮から外さない。
「大人はいつもそうだよ。勝手に調べて、勝手にわかった気になって、最後はこっちのせいにする。悲しかったからだとか、寂しかったからだとか、そんなの言えば許されると思ってる」
「許す話じゃない」
「じゃあ何の話だよ」
日向は立ち上がった。
ポチが床に降りる。
「母さんは死んだんじゃない。殺されたんだよ」
咲が口を開こうとした。
蓮は手で制した。
日向の目が濡れていた。
本人は気づいていないようだった。涙はまだ落ちていない。ただ、目の表面に薄い水の膜が張っている。その膜の向こうで、彼女は必死に世界を睨んでいた。
「だって、死ぬわけないじゃん」
日向は言った。
その声は、急に幼かった。
「母さん、笑ってたんだよ。ひまわり畑で。暑いねって。背、高いねって。わたしよりずっと高くて、怖いくらいで、でもきれいで。母さん、あの花の中で笑ってた。なのに、なんで死ぬの」
蓮は動けなかった。
日向の手が震えていた。
「そんなの、ずるいだろ」
事務所の空気が、熱を持ち始めた。
最初は気のせいかと思った。
けれど、違った。
窓の外で、蝉が鳴いた。
五月の夜に、蝉が鳴いていた。
じじ、じじじ、と壊れた電灯みたいな声が、ビルの壁の向こうから湧いてくる。蛍光灯が揺れた。机の上の書類が、ぬるい風でめくれた。咲が立ち上がる。
「蓮」
「うん」
日向は気づいていなかった。
いや、気づきたくなかったのかもしれない。自分の怒りが、部屋の温度を変えていることに。自分の悲しみが、壁の隙間から夏を呼んでいることに。
床の端から、ひまわりの芽が出た。
一本。
それは細く、弱く、震えながら伸びていく。だが次の瞬間、別の芽が出る。机の下から。書類棚の隙間から。電話機のコードの影から。黄色いものが、事務所のあちこちで目を覚まし始める。
日向はようやくそれを見た。
「なんで」
声が掠れた。
「なんで、ここに」
蓮は日向に近づこうとした。
だが、日向は後ずさった。
「来るな」
「日向」
「来るなって言ってるだろ」
彼女の足元から、一輪のひまわりが咲いた。
それは路地で見たものと同じだった。小さく、弱く、泣いているような花。日向はそれを見て、顔を歪めた。
「やめて」
誰に向けた言葉なのか、わからなかった。
蓮にか。咲にか。ひまわり男にか。自分自身にか。
「やめてよ」
その時、事務所の電話が鳴った。
死にかけた虫みたいな音だった。じりり、ではない。りん、でもない。夜の窓に張りついた蛾が、翅でガラスを叩くような、湿って、細くて、どこか必死な音。蓮は電話機を見た。咲も見た。非通知だった。日向だけが動かなかった。足元に咲いた小さなひまわりを見下ろしたまま、まるで自分の影が花の形に変わってしまったことを、まだ信じられずにいるようだった。
電話は鳴り続けている。その間にも、ひまわりは事務所の床を少しずつ侵していった。机の脚の影から、書類棚の隙間から、電話機の黒いコードの下から、細い芽が出て、葉を広げ、黄色い花をつけていく。蛍光灯の白い光と、ひまわりの黄色と、夜の窓に映る日向の青ざめた顔が重なって、事務所の中は現実ではない場所のように見えた。蝉の声はさっきよりも近くなっている。五月の夜に鳴るはずのない蝉が、ビルの壁の向こうで、神経を焼くように鳴いていた。
蓮は受話器を取った。
向こう側から、呼吸が聞こえた。浅い呼吸ではない。最初に電話をかけてきた日向のものとは違っていた。もっと深く、もっと乾いていて、土の中に埋められた誰かが、長い時間をかけて息をしているような音だった。蓮は受話器を耳に当てたまま、日向を見た。日向は顔を上げない。咲は何も言わず、ただ事務所の床に広がっていく花を見ている。
「守らなければ」
声がした。
それは人間の声ではなかった。男の声とも女の声とも、子どもの声とも老人の声とも言えなかった。ひまわり畑の中で、無数の花が同時に葉を擦り合わせたような声だった。乾いていて、ざらついていて、けれどその底に、どうしようもない痛みが混じっていた。蓮は受話器を握りしめる。指先が白くなる。
「弱いものを」
日向の顔から、ゆっくりと血の気が引いていった。怒りで赤くなっていた頬が、今度は紙みたいに白くなる。彼女はようやく顔を上げた。目は電話機を見ていた。まるで、そこにひまわり男の顔が咲いているかのように。
「君は、誰?」
蓮は聞いた。
電話の向こうには長い沈黙があった。けれど、その沈黙は空っぽではなかった。遠くで夏草が揺れる音、見えない虫が葉の裏を這う音、誰かがひまわり畑の奥で立ち尽くしている気配。そういうものが、受話器の奥に詰まっていた。やがて声は、壊れた機械のように同じ言葉を繰り返した。
「守らなければ」
そこで電話は切れた。
受話器の向こうに、ぷつりと空白が咲いた。蓮はしばらく動けなかった。日向も、咲も、ポチでさえも動かなかった。事務所の中で、ひまわりだけが成長を続けている。花は無言だった。けれど、その無言がいちばん大きな声に聞こえた。
その直後、窓の外で悲鳴が上がった。
蓮は窓へ駆け寄った。ガラスの向こうに、夜の神楽町が見えた。駅前のビル、商店街の屋根、川沿いの街灯、マンションの窓、細い路地、信号機の赤い光。いつもと同じ街のはずだった。けれど、そのいつもと同じ街のあちこちで、黄色い花が咲き始めていた。電柱の根元に、マンションのベランダに、信号機の上に、アスファルトのひび割れに、閉店した店のシャッターの隙間に。ひまわりは夜を知らないみたいに、まっすぐ顔を上げていた。太陽のない空へ向かって、咲いていた。
遠くで誰かが叫んでいる。別の場所でガラスの割れる音がした。商店街のアーケードの屋根から黄色い茎が垂れ下がり、川沿いの街灯に大きな花が絡みついていく。神楽町はまだ壊れていない。だが、壊れる直前のものだけが持つ、奇妙な静けさを帯びていた。夜の街の下から、別の季節がせり上がってくる。まだ来ていないはずの夏が、地面の下で根を張り、ゆっくりとこの街を自分のものにしようとしていた。
咲が低く言った。
「始まったわね」
日向は窓の外を見ていた。そこには怒りも、恐怖も、もうはっきりとは残っていなかった。ただ、どこへ帰ればいいのかわからない子どもの顔があった。母親を探して歩いていたはずなのに、歩けば歩くほど母親のいない場所へ連れていかれる。犯人を探していたはずなのに、犯人の形をしたものが自分の悲しみから咲いていた。その事実が、彼女の中でまだ言葉にならないまま、静かに膨らんでいるようだった。
蓮は思った。
日向は、ひまわり男を捜していたのではない。母親を捜していたのだ。そして今、母親のいない夏が、神楽町全体を迎えに来ている。




