第二話
月織咲は、日向に麦茶を出した。
紙コップだった。来客用ではない。誰かが薬を飲むために買ってきて、そのまま棚の奥に置き去りにされていたような、薄くて白い紙コップだ。側面には小さな折れ目があり、指でつまめばすぐに潰れてしまいそうだった。
日向はそれを見て、露骨に眉を寄せた。
「毒とか入ってない?」
「入れるなら、もっと高いコップを使うわ」
「そういう問題?」
「そういう問題」
咲は自分の分だけ、氷の入ったグラスを用意した。グラスの内側で氷が鳴る。からん、という音は、事務所の淀んだ空気の中で妙にきれいに響いた。
月織事務所は、いつも少しだけ湿っていた。神楽町駅から歩いて十二分、雑居ビルの三階。古い窓枠は雨を吸って膨らみ、壁紙の端はところどころ剥がれている。
書類棚からは紙の匂いがした。冷めたコーヒー、除菌スプレー、古い畳、誰かが持ち込んだコンビニ弁当の揚げ油の残り香。それらが混じり合って、事務所全体が巨大な胃袋の内側みたいだった。
その中で日向だけが、外から迷い込んできた小さな獣のように濡れていた。
肩で切られた髪は雨を含み、毛先から一滴ずつ水を落としている。制服の襟は首に張りつき、膝のあたりには泥が跳ねていた。痩せた手には、黄色い花びらが一枚だけ握られている。握りしめすぎて、花びらの端は潰れ、皮膚に貼りついていた。
風花蓮はタオルを探して、棚を開けたり閉めたりしていた。
白い髪が、蛍光灯の光を吸って淡く光っている。雪のように白い、というには、その色は少し痛々しかった。冬の朝に誰も踏んでいない雪ではなく、災害のあと、瓦礫の上に積もった灰の白さだった。けれど蓮の声は、外見の冷たさと反対に、やわらかい。相手の耳を傷つけないように、言葉の角を指で削ってから渡すような声だった。
「タオル、ここに置いてなかったっけ」
「あなたが先週、猫を拭いたやつなら洗濯機の中」
「洗った?」
「洗う気持ちはあった」
「じゃあ洗ってないね」
「気持ちは尊重して」
蓮は少し困った顔をしてから、自分の鞄を開けた。中から薄いハンカチを取り出す。白い布だった。ところどころ糸がほつれ、端には小さな猫の毛が一本だけついていた。蓮はそれを指でつまんで取り、日向の前に差し出した。
「使って。濡れてるから」
「いらない」
「風邪ひくよ」
「ひいたらなに。世界が終わる?」
「終わらないけど、君がつらい」
日向は黙った。
沈黙は短かった。けれど、その短い間に、彼女の顔から怒りが一枚剥がれた。剥がれた下には、もっと薄くて、もっと青いものがあった。泣きそう、というには幼すぎる。壊れそう、というには本人がそれを許していない。
日向はその沈黙を自分で嫌がるように、蓮の手からハンカチを奪った。受け取る、というには乱暴で、奪う、というには弱い動きだった。濡れた前髪を雑に拭き、ハンカチを膝の上に置く。
「白いものばっかりだね、あんた」
「そうかな」
「髪も。ハンカチも。声も」
「声、白い?」
「うん。気持ち悪いくらい」
「そっか」
蓮は少し笑った。
その笑い方にも、日向は苛立った。相手を責めるために投げた言葉が、蓮にぶつかる前に柔らかい綿に吸われてしまう。そういう感触があった。
咲はその会話を聞きながら、タブレットの画面を日向へ向けた。
神楽町の地図だった。
駅前の商店街、古い住宅地、児童公園、小学校、川沿いの遊歩道、閉店したスーパー、団地、狭い路地。細い道路が血管のように枝分かれし、町全体が何か大きな生き物の内臓みたいに見えた。赤い点がいくつか打たれている。その点は、傷口に塗った薬のようでもあり、これから膿みはじめる予告のようでもあった。
「で、ひまわり男。最後に見たのはどこ」
「見てない」
「見てないのに捜してるの」
「見つけるために捜してるんだけど。ばかなの?」
「口のきき方」
「大人用の口なんて持ってない」
咲は笑った。怒ってはいなかった。むしろ少し面白がっているように見えた。
「母親が亡くなったのは」
日向の手が止まった。
ハンカチを握る指に力が入る。白い布が小さく潰れた。
「一年前」
「病院?」
「関係ない」
「関係あるかどうかは、こっちが決める」
「じゃあ勝手に決めれば」
日向は紙コップの麦茶を見つめたまま言った。
「母さんは殺された。あいつに。だから、あいつを捜す。それだけ」
蓮は口を開きかけて、やめた。
言葉には、触れる順番がある。早く触れればいいわけではない。腫れた皮膚を乱暴に押せば、治るものも治らなくなる。蓮はそれを、たぶん普通の人より少しだけ知っていた。自分の中にも、誰にも触れさせないまま白く固まった場所があるからだ。
咲は違った。彼女は必要なら腫れた場所を切る。膿があるなら、痛くても出す。そういう人間だった。
「ひまわり男の噂なら、ここ数週間で増えてる」
咲は地図に赤い点を増やした。
「商店街の裏。西神楽児童公園。四丁目の駐輪場。川沿い。全部、目撃情報は夕方から夜。被害者は大人。証言者は子どもが多い。面白いくらい証言が割れてる」
「割れてる?」
蓮が聞く。
「大人は怪物と言う。子どもはヒーローと言う」
日向が顔を上げた。
「ヒーロー?」
「そう。ひまわりマン、だって」
「ふざけんな」
紙コップが潰れた。
麦茶が机にこぼれた。透明な茶色い水が地図の端に広がり、赤い点を滲ませる。咲は顔をしかめたが、怒鳴りはしなかった。蓮はすぐにティッシュを取った。日向の手にかかった麦茶を拭こうとして、睨まれる。
「触んな」
「熱くなかった?」
「麦茶だし」
「冷たくなかった?」
「それ心配するところ?」
「うん」
日向はまた言葉に詰まった。
日向は、たぶん怒り方を知っている。睨み方も、突き放し方も、相手の善意を先に噛み砕く方法も知っている。けれど、心配されることへの返し方だけを知らない。その欠落が、彼女の身体のどこかに小さな空洞を作っているように見えた。
蓮は机を拭いた。
咲は濡れたタブレットを見下ろして、深くため息をついた。
「蓮。あなたが行きなさい」
「うん」
「この子を連れて」
「うん」
「危なかったら逃げる」
「うん」
「うん、じゃなくて、はい」
「はい」
「日向」
咲が少女の名前を呼ぶ。
日向は返事をしなかった。
「あなたが依頼人なら、現場では蓮の言うことを聞くこと。勝手に走らない。勝手に触らない。勝手に死にそうな顔をしない」
「最後のなに」
「顔に出てる」
「出てない」
「出てるわよ。世界中を嫌っている顔と、世界に置いていかれた顔は違う」
日向は椅子を蹴るように立ち上がった。
「うるさい。大人はすぐ、わかったみたいなこと言う」
「わからないから聞いてる」
「聞くな」
「じゃあ黙って見てる」
「見るな」
「面倒な子」
「面倒な大人」
咲は少し笑った。
「相性悪いわね、私たち」
「最悪」
「蓮とはもっと悪いわよ。その子、怒鳴られても蹴られても、あなたが泣くまで帰らないから」
「泣かない」
「そう。じゃあ蓮、泣かせてきなさい」
「そういう仕事じゃないよ」
「そういう仕事よ」
蓮は困った顔をした。
日向はそれを見て、小さく鼻で笑った。
「ほんとに弱そう」
「でも、歩くのは得意だよ」
「なにそれ」
「捜しものには向いてるかも」
日向は返事をしなかった。
ただ、蓮のハンカチを返さずに、濡れた手で握ったまま事務所を出た。
外に出ると、雨はもう止んでいた。
神楽町の空は低かった。雲の腹が、ビルの屋上に触れそうなほど垂れ込めている。商店街のアーケードには水滴がぶら下がり、風が吹くたびにぱらぱらと落ちた。看板の色は雨に濡れて濃くなっていた。赤い薬局の看板、青いクリーニング屋の幟、シャッターに描かれた古い落書き。世界は洗われたような顔をしているのに、側溝の中だけが黒く濁っていた。
日向は先に歩いた。
歩幅は小さいのに、足取りだけが速い。誰かに追いつかれることを拒むような歩き方だった。蓮はその後ろをついていく。白い髪が目立つせいで、すれ違う人が何人か振り返った。蓮は気づいていないふりをした。日向は気づいて、舌打ちした。
「見世物じゃないんだけど」
「僕?」
「あんた以外に誰が白いの」
「雲とか」
「そういうのいらない」
「ごめん」
「すぐ謝るなって言った」
「ごめん」
「わざと?」
「ちがうよ」
日向は前を向いたまま、少しだけ笑ったように見えた。
すぐにその表情を捨てたので、蓮は気づかなかったことにした。
最初に向かったのは、西神楽児童公園だった。
公園は、雨上がりの匂いで満ちていた。濡れた砂、錆びた鉄棒、古い木の根、誰かが踏み潰した雑草。滑り台の塗装は剥げ、青かった部分は灰色に近くなっている。ブランコの鎖は雨粒をまとい、黒く光っていた。砂場には青いバケツがひっくり返っている。水たまりの表面には、小さな油膜が虹色に浮かんでいた。
公園の隅では、三人の小学生がカードゲームのルールをめぐって戦争の準備をしていた。
蓮が声をかけると、子どもたちは一斉に黙った。
「こんにちは」
「不審者?」
ひとりが言った。
「違うよ」
「不審者はみんなそう言う」
「たしかに」
「認めた」
日向が横から言った。
「この人、不審者じゃないけど、たぶん使えないから安心して」
「安心できない情報だね」
蓮は困ったように笑った。
子どもたちは日向を見ると、少し警戒を解いた。同じ子どもだと思ったのかもしれない。日向はその扱いを不服そうに受け取っていた。
「ひまわり男のこと、知ってる?」
蓮が聞くと、三人の顔が変わった。
怖がる顔ではなかった。秘密を共有する時の顔だった。子どもは怪談を怖がるが、同時に愛している。怖い話は、世界の裏側を自分たちだけが知っているという、薄暗い勲章になる。
「ひまわりマンでしょ」
「男じゃないよ。マンだよ」
「スーツ着てる。サラリーマンみたいなやつ」
「サラリーマンなの?」
「知らない。顔がひまわりだから」
「顔がひまわりだと仕事できないでしょ」
「でも強いよ」
子どもたちは、急に饒舌になった。
ひまわりマンは夕方に来る。弱いものをいじめている大人がいると、どこからか現れる。声は出さない。走らない。気づいたら後ろに立っている。スーツは黒く、靴はぴかぴかで、頭だけが大きなひまわり。顔はないのに、見られている感じがする。
「この前、猫を蹴ったおじさんがいたんだ」
一番小さな子が言った。
「そしたら、ひまわりマンが来た。おじさん、転んだ。泣いてた」
「殴ったの?」
日向が聞く。
「殴ってないと思う。でも、おじさんの影が変になった」
「影?」
「うん。影から花が生えてた」
蓮は少しだけ目を細めた。
侵食は、最初に影や隙間へ出ることがある。人の目が現実だと信じているものは硬い。けれど、影は柔らかい。鏡、夢、記憶、夕方の空気。そういう場所から、心の世界は現実へ指を入れる。
「その猫は?」
「いるよ」
子どもが指さした。
公園の倉庫の下に、痩せた三毛猫がいた。耳の先が少し欠けている。雨に濡れた毛がところどころ束になり、背中が小さく波打っている。片目だけでこちらを見ていた。もう片方の目は、古い傷のせいか少し濁っている。
日向はすぐにそちらを見た。
顔つきが変わる。さっきまで大人を噛むために剥き出しだった歯が、静かにしまわれる。
日向はしゃがんだ。
「おいで」
声が少しだけ小さくなった。
猫は出てこなかった。けれど逃げもしなかった。日向はポケットから何かを出そうとして、何も持っていないことに気づき、悔しそうに唇を噛んだ。
蓮は鞄から小さな煮干しの袋を出した。
「なんで持ってんの」
「たまに会うから」
「誰に」
「猫に」
「友達少なそう」
「猫は多いよ」
「それは友達なの?」
「たぶん」
日向は煮干しを受け取った。猫の前に置く。猫はしばらく動かなかった。濡れた鼻をひくつかせ、蓮を見て、日向を見て、それからようやく倉庫の下から出てきた。前足を一歩出すたび、泥の上に小さな足跡がついた。
日向はそれを見ていた。
まばたきが少なく、息をするのも忘れているみたいだった。猫が煮干しを咥えた瞬間、日向の肩からほんの少し力が抜けた。
蓮はその横顔を見た。
母親を殺した怪物を捜している少女の顔ではなかった。小さなものがまだ生きていることを、ひどく真剣に確認している顔だった。
その時、公園の隅で、黄色いものが揺れた。
蓮は振り返った。
砂場の端。雨に濡れた地面のひび割れから、小さな芽が出ていた。
芽は、蓮が見ている前で伸びた。
細い茎が、雨粒を押しのける。葉がひらく。緑が濃くなる。つぼみが膨らむ。時間がそこだけ乱れていた。何日も、何週間もかけるべき成長が、数秒の中に押し込められている。子どもの背骨が無理やり伸ばされるような、静かな暴力があった。
つぼみが割れた。
黄色い花弁が開く。
五月の公園に、ありえない速さで夏が咲いた。
子どもたちは歓声を上げた。
「ひまわりマンだ」
「近くにいるんだ」
日向は立ち上がった。
顔が強張っていた。怒りとも恐怖とも違う。もっと古いものが、彼女の内側からせり上がっている。ひまわりを見る目が、花ではなく刃物を見る目になっていた。
「どこ」
日向が言った。
「どこにいるの」
蓮は公園の出口を見た。
商店街へ続く細い道の向こうに、黒いスーツの背中が見えた気がした。
背が高い男だった。
雨上がりの光の中で、その頭だけが黄色く燃えていた。
蓮が一歩踏み出すより早く、日向が走り出した。
「日向」
蓮の声は、怒鳴り声になりきれなかった。やわらかいまま、空気の中でほどける。そのせいで日向は止まらなかった。
白い髪を揺らして、蓮はその後を追った。
神楽町の濡れた路地の奥で、まだ来ていないはずの夏が、誰かの喉元に指をかけていた。




