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心象スケッチ  作者: はる
第一章 ひまわり男をさがして

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第一話

 月織事務所の電話は、いつも死にかけた虫みたいな音で鳴る。

 じりり、ではない。りん、でもない。もっと湿っていて、細くて、夜の窓に張りついた蛾が、(はね)でガラスを叩くような音だった。神楽町の駅から歩いて十二分、雑居ビルの三階にあるその事務所では、電話機だけが昭和から迷い込んできたみたいに古かった。


 風花蓮は、積み上げられた報告書の隙間から顔を上げた。


 白い髪が、蛍光灯の光を吸って、少し青く見えた。染めたわけではない。生まれつきでもない。かつての災害のあと、蓮の髪は雪みたいに白くなった。人はそれを見ると、だいたい言葉を探す。かわいそう、と言うには露骨すぎて、きれい、と言うには残酷すぎるから。ただ、蓮自身は、その沈黙にはとうに慣れていた。


 彼は電話を取る前に、机の端で眠っていた小さな蜘蛛を紙でそっと追いやる。受話器のコードが触れたら潰れてしまうと思ったのだ。


「はい、月織事務所です」


 蓮の声は、いつも少しやわらかい。相手の耳にぶつからないように、角を削って渡すような声だった。気が弱いわけではない。ただ、誰かを驚かせることが苦手だった。


 電話の向こうでは、しばらく呼吸だけが聞こえていた。

 浅い呼吸。子どもの呼吸だ。


「……人を、捜してほしいんだけど」


 少女の声だった。


「うん。名前はわかる?」

「知らない」

「顔は?」

「ひまわり」


 蓮は、返事をするまでに一秒だけ遅れた。


「ひまわり?」

「頭が、ひまわりの男。スーツ着てる。背が高い。母さんを殺した」


 そこで電話は切れた。

 受話器の向こうに、ぷつりと空白が咲いた。


 蓮はしばらく受話器を耳に当てたまま、窓の外を見ていた。五月の神楽町は、まだ夏ではない。商店街の屋根には薄い雨雲がかかっていて、電柱の上で濡れたカラスが一羽、世界に用がないみたいな顔をしていた。


「なに、その顔」


 背後から声がした。


 月織咲は、ソファに横になったまま、分厚いファイルを顔の上に乗せていた。二十一歳にして心象術師のなかでもっとも偉大な六人に数えられるうちのひとり、という肩書きだけ聞けば人は勝手にもっと荘厳な人物を想像する。


 だが実際の咲は、片足だけスリッパを脱いで、コンビニの冷めたコーヒーを事務所の床に置き、世界のすべてが自分に対して少しずつ面倒を押しつけてくることに不満を持っている女性だった。


「依頼かも」

「かも、ってなに。依頼かどうかもわからない電話を受けたの、あなた」

「頭がひまわりの男を捜してほしいって」


 咲はファイルを顔からずらした。


「今なんて?」

「頭がひまわりの男」

「春って怖いわね。変なものが芽吹く」

「母親を殺したって言ってた」


 咲の目が、そこで少しだけ細くなった。


 部屋の空気が変わる。さっきまで床に散らばっていた午後の怠惰が、どこかへ隠れる。咲はふざけた口調を崩さないまま、その奥に刃物のようなものをしまっている。蓮はそれを知っていた。咲が笑っている時ほど、たいてい何かを数えている。死者の数か、嘘の数か、あるいは自分がまだ殺していないものの数か。


「番号は?」

「非通知」

「場所は?」

「言ってない」

「名前は?」

「聞く前に切れた」

「あなた、心象術師じゃなくて電話番としても微妙なのね」

「ごめん」

「謝るのが早い。そこがあなたのよくないところ。殴られる前に頬を差し出す人間は、殴る側を教育しない」


 蓮は困ったように笑った。


「でも、怒ってる人に怒り返すの、苦手で」

「怒ってる人間を全員かわいそうな動物だと思ってるでしょ」

「思ってないよ」

「思ってる顔」


 咲は起き上がり、机の上のタブレットを引き寄せた。神楽町内の未処理案件、心象反応の微細なログ、警察から回ってきた変死体と失踪者の照会。それらを雑に指で弾いていく。


「ひまわり、ひまわり、ひまわり。嫌な単語ね。明るすぎるものは信用ならない。太陽のほうを向いているふりをして、根っこでは土の中を握り潰してる」

「ひまわりに恨みあるの?」

「ないけど、黄色が強い花はだいたい態度がでかい」

「花にまで」

「花にもよ」


 蓮は受話器を置いた。黒い電話機は、仕事を終えた小動物みたいに沈黙した。

 その時、事務所の外で何かが倒れる音がした。

 かたん、と軽い音。

 咲が蓮を見る。

 蓮は椅子から立ち上がった。廊下に出ると、階段の踊り場に置かれていた古い傘立てが横倒しになっていた。そのそばに、ひとりの少女が立っていた。

 小学生と中学生のあいだくらいに見えた。髪は肩のあたりで乱暴に切られていて、雨に濡れた制服の襟が首に張りついていた。足元には泥がついている。手には、黄色い花びらを一枚だけ握っていた。

 少女は蓮を見上げた。

 その目は、泣いたあとみたいに赤かった。けれど、泣いたことを世界に知られたら負けだと思っている目だった。


「電話、出たの、あんた?」


 少女は言った。


「うん。君がかけてくれた?」

「くれた、じゃない。依頼してやったの」

「そっか。来てくれてありがとう」

「ありがとうとか言うな。気持ち悪い」

「ごめん」


「すぐ謝るな。むかつく」


 蓮は、どうしたらいいかわからなくなって、少しだけ眉を下げた。その顔を見て、少女はさらに不機嫌そうに唇を曲げる。


「なにその髪。雪女?」

「違うよ」

「じゃあ幽霊?」

「生きてる」

「ふうん。弱そう」

「よく言われる」

「言われてんのかよ」


 少女の声は尖っていた。折れたガラス片を口の中に隠しているみたいだった。けれど、蓮は気づいた。彼女の視線は、廊下の隅に落ちている小さな蛾を避けている。踏まないように、足の位置を少しずつ変えている。


 咲が事務所の中から顔を出した。


「依頼人?」

「たぶん」

「たぶんじゃない。依頼人ですけど」


 少女は咲を睨んだ。大人を睨むことに慣れた目だった。大人という生き物は、だいたい自分を上から見下ろす。その高さを憎むために、少女はいつも顎を少しだけ上げているのだろう。


 咲はその視線を受けても、特に怯まなかった。


「名前は?」

「言いたくない」

「じゃあ依頼は受けられない」

「ケチ」

「ケチで結構。命が関わる仕事は、領収書より先に名前がいるの」


 少女は舌打ちした。


「……日向」

「名字」

「必要?」

「必要」

「大人ってなんでも必要って言うよね。必要って言えば人のポケットに手を突っ込んでいいと思ってる」


 蓮は少しだけ膝を折って、少女と目の高さを近づけた。


「言いたくないなら、今は日向でいいよ」


 少女は蓮を見た。


「そういうのが一番うざい」

「うん」

「優しいふりして、こっちが話すの待ってる」

「ふりじゃないといいな、とは思ってる」


 少女は一瞬、言葉に詰まった。


 その沈黙の底で、何かが揺れた。怒りではない。もっと古くて、もっと柔らかくて、触れたらすぐに壊れてしまうもの。蓮はそれを見ないふりをした。見つめられること自体が傷になるものもある。

 かわりに、彼は少女の手の中の花びらを見た。


「それ、ひまわり?」


 日向は手を閉じた。


「関係ない」

「ひまわり男のもの?」

「そうだよ」


 声が低くなった。

 廊下の蛍光灯が一度だけ瞬いた。壁紙の剥がれた隙間から、黄色い何かが覗いたように蓮には見えた。花びらかもしれない。見間違いかもしれない。けれど事務所の窓の外で、まだ夏ではないはずの風が、ぬるく吹いた。


 日向は言った。


「あいつを捜して」


 小さな手が震えていた。だが彼女はそれを、怒りの形に握り潰していた。


「頭がひまわりの男。スーツ着てて、背が高くて、母さんを殺したやつ」


 咲は何も言わなかった。

 蓮も、すぐには返事をしなかった。


 少女の背後で、倒れた傘立てから一本の黒い傘が転がっていた。その先端に、小さな蛾が止まっている。日向はそれを見下ろし、苛立った顔のまま、そっと傘を持ち上げた。


 蛾が飛ぶ。

 羽音はほとんどなかった。

 日向はそれを見送ってから、また蓮を睨んだ。


「なに見てんの」

「ううん」


 蓮は微笑んだ。


「捜そう。ひまわり男」


 その言葉を聞いた瞬間、日向の握りしめた手の隙間から、黄色い花びらが一枚、廊下に落ちた。

 それは濡れていた。

 雨ではなく、血でもなく、まだ名前のついていない夏の匂いがした。



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