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狐夜話  作者: 行待文哉
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望月夜

 春の朔の日――それは、子浚いの件で大人たちがばたばたと忙しくしている間にすぐにやってきた。シロガネも、しばらくは小さな怪我を癒したり事情を聞かれたりしてカガルの屋敷にいたのだが、タガネより一足先に金の里へ戻っていた。フウエンは、他の風狐と共に子の捜索に加わっている。その時点で、もう朔の日まで残り一月もない。

 屋敷の女房狐たちは、帰ってきたシロガネを優しく労わってくれた。中でも年長の女房は目に涙すら浮かべて

「心配してたんですよ」

とシロガネの水干の袖を握る。なんだか、その瞬間にほっと力が抜けて、何日かはしばらくぐっすり眠りこけていた。起きてからは、屋敷の庭で一人きりの修行が始まった。木刀を振ってみたり霊力を少しだけ使ってみたり、体を慣らしていく。

 結局、タガネが帰ってきたのは朔の日の五日前。見るからに疲れていたタガネは、それでも金の里に着くとシロガネの元へ真っ直ぐに向かってきた。

「シロガネ、朔の日の準備は、いいか?」

「うん」

「……気負わず、やれよ」

「うん。なんだか、大丈夫な気がしてる」

 春の朔の日、里の子狐は大人と認められる試験を受ける。基本的な霊力と武術の鍛錬を備わっているかを、長を初めとする里の大人五人に判断してもらうのだ。毎回三十人ほどの子がこの試験を受け、大人と認められていく。シロガネがフウエンに預けられたのも、元はこの試験のためだった。


 今年の試験は、梅の香りがする春の新月の夜、里のはずれの小高い丘で行なわれていた。先に行なわれた武術の手合わせでは、シロガネが一分足らずで五人の子に勝ったところで静止が入り、何の文句もなく合格が告げられた。この試験で落ちたものはいない。皆、やはりきちんと鍛錬してきているのだ。

 次に、霊力の試験。大人の言う内容のことを、正しく行なえれば合格、というものだ。シロガネの前には十二人が受けて全員が難なく通過している。日頃、シロガネにできそこないと言葉を投げかけた子らも、誇らしげにそこに立っていた。今はもうその子らはシロガネのことなど見てもいない。だが、その顔を見るとシロガネの頭にはどうしても辛かった日のことが思い出された。

少しだけ不安を覚えたが、ふと、ここに来る前に食べた握り飯のことを思い出した。

 朔の日の昼下がり。試験前の最後の鍛錬から戻ってきたシロガネの部屋の文机の上に、ころりと握り飯が二つ置いてあった。握り飯で押さえられた紙切れには、言葉が一つ。

 ――これ食べていき

 誰の仕業か、シロガネには分かっている。一口食べると、程よく塩がきいたあの味だった。


「シロガネ、では、鉄を錬るほどの炎をこの木に宿してみよ」

 中年の大人から渡された丸太は、少し湿っていた。シロガネは、その木に手を当てて中に残った水分をぽたぽたと落とした。

 (水は、下へ落ちろ……)

乾いて軽くなった丸太に静かに橙色の炎を灯す。その火はすぐに大きくなったが、丁度シロガネの背と同じ高さで成長を止めた。

(鉄のための、火になれ)

その火に、別の大人が無言で小さな黒い石を差し入れる。石は炎の中でぐにゃりと変化し、ひとりでに伸びていった。その石は真っ赤に焼けて、やがて刀の姿になった。

「良し。合格だ」

 三人目の大人が低い声ではっきり宣告した。四人目の大人は、炎の中に手を突っ込んで刀を抜き取り、それにふうっと息を吹きかけた。じゅっ、という音の後、それは鞘に収まった小太刀の造りになっていた。

「シロガネ、これを授ける。これで、今夜からお前も大人の鉄狐だ」

 五人目の大人――タガネが、厳粛な顔を崩さないまま、小太刀を掲げて言った。

 シロガネの心の中で、何かがすっきりと晴れたようだった。できそこない、という言葉がずっと心の奥でくすぶっていたが、気がつけばもうそれはどこにも残っていなかった。


「祝いって、なんだよ」

 木をするすると登って、シロガネは大人二人の間に腰掛けた。刀も衣もまだ体に馴染んでいないようで、動きが固い。フウエンは、懐から小さな布袋を取り出した。

「シロガネ、これが祝いや」

「なに、これ」

「中に、特別に呪を施した土が入っとる……土の里の入り口、これで簡単に行けるで」

 シロガネの手に渡されたそれは、いつかフウエンが使っていた黄色い袋だった。

「フウエンのは?これがないと、困るんじゃないのか?」

「うちはもう一個持っとるよ」

 フウエンが笑って、同じものを手の中に取り出しては消してみせる。相変わらずよく分からないが、どうやらこれはシロガネが貰ってよいものらしい。

「そしてシロガネ、これは俺からの祝いだ」

 反対側のタガネが、小ぶりの脇差をシロガネに渡す。随分古びているが、柄を握ると音もなくするりと鞘は抜けた。よく手入れのされた、短いがきれいな刃が光る。

「俺が十二の歳に、初めて自分で錬った刀だ」

 シロガネが、がばりとタガネを仰ぎ見る。大切なものではないのか、と少年の顔が語っていた。タガネはその黒い髪にぽんと手を置いて真面目な顔で言った。

「俺も苦労した。悔しい思いもした。お前にもこれからもっと辛いことがあるだろう……だが、乗り越えてほしい」

「うん」

「これは、俺が乗り越えた証だ。お前の、何かの足しになればよい」

 タガネは、顔こそ厳しかったが、優しい目でシロガネを見ている。シロガネは、感情が高まって涙が鼻につんと来るのを必死で堪えた。ぐっと握った柄は、心なしか温かい気がする。

 あの日、クヌギの龍を打ち破った刀は消えてしまっていたのだ。いつ手放したのか記憶になかったが、気がついたら消えていた。一応辺りを探しても見たが、ぼろぼろになった木刀しか見つからなかった。

「……昔クロガネとも、それでよく鍛錬をした」

 タガネが遠い目をして三日月を見ている。シロガネは、目を伏せた。あれから、クロガネがシロガネに見えたことはない。ただ、以前よりも霊力を扱うのは少し楽になっている。そのことが、父の存在を知らしめていた。

「それと、これをお前に」

 思い出したようにタガネがぽいっとシロガネに何かを投げてよこした。片手で受け取ったものは、一枚の札。薄い紙には、なにやら梵字が書きつけてある。

「それが、フウエンの家への鍵だ。俺と、それにジンサ様は持っている」

「おい、タガネ!」

 フウエンが慌てた様子でシロガネの手を覗き込む。そして、シロガネをまたいでタガネに掴みかかった。

「お前、いつの間に予備なんか作ってたんや!」

「作ったのはジンサ様で、シロガネに渡しておいたほうがいいと言ったのはミナトだ」

 がくがくと肩を揺らされながらも、タガネは平然と言う。シロガネは、フウエンが取り乱しているのを不思議な気持ちで見ていた。色んなフウエンの表情を見てきた気がするが、本気で焦っている様子を見るのは初めてだった。

「フウエン、俺が家に行くの、だめなのか?」

 そう聞いたシロガネを振り返って、フウエンはうっと言葉に詰まっていた。しばらくもごもご何か口の中で迷っていたようだが、やがてぼそりと呟いた。

「いや別にだめってわけやなくて……」

「これを持ってフウエンの名を言えば、あの家の玄関に着く」

 タガネはフウエンに首を揺らされるまま言った。

「こいつは意外に面倒見がいいことも分かったし、俺で解決できなければ頼ればいい」

「勝手なこと言うなや!」

「ミナトは、危なっかしいフウエンのお目付け役にシロガネを推していてな」

「これやからミナト様は!」

 ぎゃいぎゃいと騒ぐフウエンを無視して、タガネが大きく笑った。シロガネが見たことのないほど、快活な笑顔だった。

「お前も、もうフウエンの友だ」

 シロガネもフウエンも、目を大きく開いて互いの顔を見合わせた。友。その言葉を使うには、なんだか不思議な関係だ。しかし、それが一番しっくりくる気もする。

 ふと、シロガネが月を見上げた。まるでにっこり笑った口元のような三日月に、つられて自分も微笑んでいた。




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