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玖
「……あいよ」
店内に残された大将と健吾。薄暮の日に染まり始める店内に、哀しい暉りが満ちている。自分は何もして遣れなかった。二人で描いた遠い過去が、急激に健吾の心を絞め付けている。堪える涙。先程まで華が座っていた席を見詰めながら、惨めな自分が赦せなかった。
呆然と佇む健吾に、大将はカツ丼を差し出してきた。
「俺……カツ丼なんて、頼んでないよ?」
「儂の奢りだ。こんな事しかしてやれんが、食ってくれ」
優しく穏和な笑みを向ける大将。何時だって、大将は優しい。そんな大将が、健吾は大好きだった。
湯気を立てるカツ丼を、強引に掻き込んだ。白米に染み入る甘辛い汁に、カツの肉汁が閉じられた卵が絡み附いている。口内に溢れる芳ばしい薫り。
「旨い……。旨いよ、ちくしょう……やっぱり、大将のカツ丼は最高だ……」
涙と共に、カツ丼を平らげる健吾。自分は変わらなければ為らない。華の分も性根を入れて、確りと生きなければ顔向け出来ない気がした。
次第に傾く日が、店内を朱に染め上げて往く。静かに湛えた覚悟を抱いて、健吾は立ち上がった。




