陸
「バイト始めた祝いに、旨いもん好きなだけ、食わしてやる!」
意気揚々とバイクを走らせる健吾。其の後ろに座る華。以前は今の様に、二人でバイクに乗って出掛ける事が多かった。部屋の中でしか顔を合わせる事しかしなくなったのは、何時からで在っただろうか。別に不仲と謂う訳では無い。互いに時間は在ったが、何となくタイミングが合わなかっただけだ。金も無く、部屋で籠る事も多かった。
此れからは、少しずつでも二人で遊びに行こう。健吾は、そう心に決めた。
初めてパチンコで勝った為か、健吾は舞い上がっていた。単純な理由で在ったが、久々に心が弾んでいる。たったの三千円が、五万円に増えたのだ。此れが、喜ばずには要られない。健吾に取って五万円は、一ヶ月分の収入に等しかった。
「此れから、取って置きの店に連れて行ってやるよ!」
叫ぶ健吾の表情は、喜びに満ちていた。満面の笑みは、爛漫と輝いている。
こんなに気分が満ち足りたのは、数ヶ月振りの事で在る。走るバイクも心なしか、軽快だった。今日は信号に捕まる事もなく、全ての物事が自分を味方してくれている気がした。
「着いたぞ、華!」
行き着いた店は、何処にでも在る小さな食堂で在った。けれど、健吾に取っては、取って置きの店で在る。いつも、何かが在れば足を運ばせている。
「此処のカツ丼、めっちゃ旨いんだぜ!」
一年程前、健吾は此の店で食い逃げをしようとした。食う金にも困り、華にも相談する事も出来ずにいた。そして空腹に耐え切れずに、此の店に吸い込まれる様にやって来た。カツ丼を頼み、健吾は一気に平らげた。米粒一つ残さずに、綺麗になった器を見詰め続けた。財布の中は、空っぽだった。無銭飲食で在る。此の儘、逃げる事を健吾はどうしても出来なかった。勇気を振り絞って、店の大将に本当の事を打ち明け様とした。立ち上がろうとする健吾に、大将は幾つかの料理を差し出して来た。どうやら大将は、金が無いのを見透かしていた様だった。代金は要らないから、腹一杯に成って帰る様にと言う大将の言葉に、健吾は心から涙していたのを覚えている。其れ以来、健吾は金が出来る度に、此の食堂を訪れていた。
「……お、其の顔は何か良い事が在ったな!」
店に入るなり、大将は健吾に声を掛けた。上機嫌の健吾の笑い声に、阿阿大笑の声が絡み附く。大将の年齢は七十は越えていたが、溌剌とした様子で在る。いつも穏やかな笑みを張り付けている。
「大将、いつもの!」
健吾は此処に来ると、いつもカツ丼を頼んでいた。肉厚のカツに甘辛い汁が溶け込んでいた。フワッ……とした卵のトロトロの触感が、心地良く舌上で蕩けるのだ。
「あいよ……で、そっちの兄さんは、何にする?」
穏和な表情の大将。優しい眼差しを華に向けている。人生を達観しているのか、大将は人の心が見えている節が在る。不思議と大将の優しい笑みを見ていると、心が落ち着けられるので在る。そんな大将が目的で、店に足を運ばせる者も少なくはない。
中々の高齢者だったが、一人で店を切り盛りしている。本人曰く、年寄りの道楽。店を切り盛り出来なく為ったら、ころり……と、逝ってしまう。客が来てくれてる間は、死んでも死に切れない。だから健吾は金が出来れば、必ず大将に逢いに来ていた。
逡巡する華の眼が、健吾と交わる。にこやかに健吾が笑うと、華も釣られて笑った。
「……あ、じゃあ。カツ丼、お願いします」
「あいよ!」
威勢良く、厨房へと向かう大将。
二人はカウンター席に腰掛けて、勝手にグラスを手に取り水を注いだ。
「しっかし、急にバイト増やして……金に困ってんのか?」
「うん、まぁ……」
図星を突かれたと言う様に、口を濁す華。
其れ以上、何も言うなと言わんばかりに、華はグラスに視線を落とした。其の様子が少しばかり、寂しかった。
「まぁ、良いや。其れより、マジで此処のカツ丼、うめぇから楽しみにしてな!」
「あぁ……」
何故か気まずい雰囲気に成って、健吾は店内に視線を泳がせた。
隣りの席に、高校生ぐらいのカップルが、何やら神妙な顔付きで話していた。大方、別れ話でもしているのだろう。
そうこうしている内に、カツ丼が運ばれて来た。
早い、安い、旨い。が、此の店の売りだ。
「カツ丼、二丁おまち!」
後、大将の人柄も売りの一つだ。
「さぁ、食ってみろよ!」
湯気を立てる丼からは、芳ばしい薫りが漂っている。健吾に促されて、カツ丼を口に運ぶ華。
「旨い……めっちゃ、旨い!」
華の表情が、僅かに明るく成った。
「だろ!」
笑顔を返す健吾。
箸を手に取り、カツ丼を掻き込む健吾。
「やっぱ、此処のカツ丼は、最高だ!」
満足そうに笑う健吾。
釣られて、笑う華。
穏やかな空気が、二人を包み込んだ。




