参
「何なんだよ、アイツ。糞、血が出てる!」
幸男は胸を抑えながら、傷を見る。白いTシャツが朱に染まっているが、見た目程には深くない。其れでも急襲に依る焦りが、尾を引いていた。胸中を掠める不安が、恐怖と混乱を呼び込んでいる。
「糞っ……折角、素晴らしい力を手にしたのに!」
戦騎騎士の存在は、魔徒に憑かれた事で理解していたが、実際に相対した事で、幸男本来の自我が戸惑っていた。困惑と恐怖で昂ぶる感情を抑える為、幸男は彫刻刀を手に取った。
いつも幸男は嫌な事が在ると、彫刻を掘る様にしていた。
彫刻をしている時だけは、嫌な事を忘れられる。無心に為り、心が落ち着くのだ。
幸男は黙々と彫刻を掘り続けている。随想する想いは母への怨み事ばかりで在る。自分は此の場所で、化物として扱われて来た。真面な食事は、滅多な事でもないと、与えられない。母が食べ残した物ばかりを食べていた。皿の上に載っていれば、未だ運が良い方だ。大抵は流し台の三角コーナーに、ぐちゃぐちゃの状態で捨てられている。其れを手で拾い上げて、口の中に放り込んだ。
食事を愉しむ——と謂う行為を、幸男はした事が無い。兎に角、食べれる物ならば何でも、口に入れて育ってきた。いつか必ず、母を殺してやろうとばかり考えて、怨んで生きていた。
母への殺意を練り込む様に、一心不乱に幸男は彫刻を掘り続けている。母だけでは無い。永井や周囲の人間もそうだ。必ず全員、残らず鏖にして遣る。
二時間掛けて、完成した頃には冷静さを取り戻していた。
「アンタ、いつ来たのよ?」
スナックから帰って来た母が、疲れた眼差しを此方に向けている。心が騒ついて、息が苦しく為る。胸が締め付けられる様に痛かった。吐き気がする程の殺意が、呪文の様に脳裏を駆け廻っている。
——どうした。何を迷っている。お前は母が、憎いのだろう?
頭の中に直接、内なる声が響いていた。其の声が、幸男の心を冷ややかに落ち着けていた。覚醒された意識の中で、静かに母を見据える。皺の目立つ厚化粧に、吐き気がする。
母に会うのは、半年振りだ。高校を卒業して、直ぐに家を出た。リサイクルの工場に就職して、寮に入ったのだ。尤も、工場はクビになってしまったのだが。今となっては、どうでも良い。
お陰で生まれ変われたのだから、感謝しなければ為らない。今の自分には、想いを果たすだけの力が在る。後は其処を、踏み越えるだけだ。
其れは、意図も容易く行える様な気がする。呵責の念が、浮かぶ事も無い。ほんの少しの勇気も、必要としない。何故なら自分には、在り余る程の殺意と憎悪が在る。
「何しに帰って——」
母が謂い終わる前に、彫刻刀で母の胸を刺し貫いた。積年の間に積み重なった想いが、握られた彫刻刀の刃先に蝟集している。生暖かくて、柔らかな感触が、幸男の心を蠱惑的に撫で附ける。
「……あ、んたっ……どうして……?」
今際の際に、母が問い掛ける。
——どうしてだって?
「あんたが、憎いからに決まってるだろう。憎くて、憎くて、仕方なかったんだ!」
幸男の叫びは、既に母には届かない。
事切れた母の体を、幸男は残酷に蹴り附ける。
ずっと、こうしたかった。
ずっと、殺したかった。
ようやく、叶った。
幸男は笑っている。
笑う幸男の体に、異変が起きている。全身の皮膚はどす黒く染まり、昆虫の様な甲殻に覆われてしまっている。
其の出で立ちは、正に化物の様だ。此れが、力を得た代償なのだろう。
だが、別に構わない。
自分は生まれた時から、化物として扱われていたからだ。今更、化物の体に為ったとしても、関係無い。
地獄の様な此れまでの人生に比べれば、今は天国だ。
憎い奴は、全て殺す事が出来る。
母の様に、永井や工場の連中も鏖にしてやる。
——アンタみたいな化物、死んじまえ!
不意に、母の言葉が蘇る。
幼い幸男に、母は憎悪と憤怒の塊をぶつける。
幸男は奇形児として産まれてきた。顔のパーツが、大きく歪んでいる。本来、口が有る所に鼻が有るのだ。口は、右頬の位置。左右の目は、斜めに離れている。其の所為で母だけではなく出逢う者達の全てが、幸男を化物として扱ってきた。
そして其れは、常に幸男を苦しめてきた。暗澹とした想い出ばかりが、心を掠めて往く。
中学生の頃、幸男のクラスに木下有紀と謂う少女がいた。幸男は彼女に淡い恋心を抱いていたのだ。
皆が幸男を化物と罵る中、有紀だけは自分を名前で呼んでくれていた。
皆に苛められる自分を、気に掛けてくれていた。
今まで優しく接してくれる者がいなかった幸男に取って、有紀は慈愛の女神の様な存在だった。入魂の想いを有紀に抱くのは、必然の事だ。有紀への想いだけが、自分が生きる為の薪炭と為っている。
中学を出たら進学する高校が違う為、有紀とは会えなく為ってしまう。幸男は勇気を振り絞って、有紀にラブレターを贈る事にした。優しく接してくれた感謝の気持ちを、拙い文に認め学校へと向かった。
振られる事は、初めから解っている。自分なんかが、有紀の様な女性と付き合える訳がない。
其れは、覚悟の上だ。自分の想いを伝える事が出来れば、其れで満足だった。
しかし、幸男を待ち受けていた結果は、余りにも残酷な物で在る。
卒業式が終わり、有紀にラブレターを渡す直前の事だ。幸男を、クラスメートの男子数人が取り囲んだ。
——木下さんに一体、何の用だよ、化物。
リーダー格で在るタケシが、幸男を睨め附ける。タケシとは、小学校からの付き合いだ。事在る毎に、幸男を苦しめ続けていた。
——タケシ君、こいつラブレターなんか持ってやがる。
クラスメートの一人が、幸男のポケットからラブレターを奪い取る。
——見せてみろよ。
タケシが其れを受け取ると、皆が聴こえる様に大きな声で読み上げた。
周囲の奇異の視線が、幸男の心に突き刺さる。
羞恥が静かに苛み、憤怒が全身を愛撫する。憎悪が心を焼き焦がし、幸男の全てを負の感情へと促していく。
しかしそんな事は、此れから起こる悲劇の比ではない。
有紀がゆっくりと、幸男の元へと歩んで来る。
——貸しなさいよ。
タケシからラブレターを乱暴に奪い取ると、有紀は笑い出した。
今まで見た事もない様な、軽蔑の視線を幸男に向ける。
——アンタが、私に惚れてるのは知ってたわ。
有紀は見せ付ける様に、ラブレターを引き裂いた。
——私がアンタみたいな化物、好きになる訳ないじゃない。
ラブレターを踏み附けながら、嘲り嗤う有紀を見て、幸男は本当の絶望を識った。
果てしない紅蓮の炎に焼かれて、幸男の心は殺意に染まって往く。蠕動する悪意が、心の中で蠢くのが解る。
身も心も、本当の化物に為ってしまえれば、どんなに楽だろう。
そうすれば、なんの躊躇もなく皆を殺せる。
幸男は壊れた心の中で、いつも想い続けた。




