弐
「羅刹、扉が開いたわ」
夜の闇に忍ぶ様にして、歩いていた。吹き附ける風に、邪気が紛れている。
「又、魔徒が出現したか」
羅刹は闇を見詰めていた。内に秘めた殺気を押し殺しながら、獲物を見定める様な視線を送っている。
——魔徒。人の心の闇に取り憑き、人を喰らう魔物。其の存在は、太古の頃より出現している。人が生まれた頃から、魔徒も又、生まれたと謂われている。
「——で。魔徒は、何処にいる?」
黒いコートに忍ばせた短剣に手を当て、羅刹は歩き続ける。心が滾り、身体が疼いていた。斬りたい——と謂う衝動が、心を甘く誘う。魔徒は残らず斬り伏せて遣る。其れが、己の役目なのだ。
「近いわ。其処の先に在る工場にいる」
頭の中に直接、響く女の声。
彼女の名は、タリム。
羅刹の相棒で在る。
其の姿は、此の世には存在しない。声こそは幼かったが、千年以上もの時を生きている。
「彼処か……」
視線の先には、何の変哲もない工場が聳えている。其の中から微かに、邪悪な気を感じた。
「どうやら、奴はまだ鬼神化していない様だな」
邪気の強さから、魔徒の力を推し測る。今なら未だ、楽に倒せるだろう。尤も自分としては、鬼神化してからでも一向に構わない。周囲の人間が、どうなろうとも関係無い。
羅刹は静かに息を吸い込むと、疾走った。
一目散に目標で在る魔徒の元へと、疾走る。まるで風の如く、迅速に——しかし、気配は完全に消している。
工場内は暗く、様々な機材で入り組んでいた。そんな中を尋常ならざる速さで、障害物に当たる事なく魔徒へと接近する。
気配だけを頼りに、間合いを計算して、羅刹は魔徒に斬り掛かる。
「何だ、お前は……?」
後退する魔徒。大した手応えは、得られなかった。
踏み込みが浅かった為か、魔徒と成った男の胸を掠めた程度だった。
暗闇の中から無数に飛来する殺意。風を切る微かな音。人並みならぬ羅刹の感覚が、其れ等を鋭敏に捉える。
たったの一呼吸で、難無く短剣で払い退ける。
金属音と共に、数本の何かが床へと弾かれた。魔徒に視線を送るが、其の姿も気配も、消えている。
「逃げられたか」
既に邪気は遠ざかっている。
「急がないと、犠牲者が出るわよ」
「知った事か。俺は只、奴を斬るだけだ」
羅刹は魔徒を斬り滅ぼす為に存在している。
其の命は疾うに、果てている。だが地獄の底で、閻魔大王の計らいに依り蘇った。
魔徒を狩る戦騎騎士として、其の命を懸けなければ為らない。其れが羅刹に課せられた使命で在った。
「貴方は、いつもそうね」
元来、騎士とは護る為に存在している。魔徒から人々を護る事こそ、戦騎騎士たる定めで在る。
だが、羅刹は違う。
魔徒を斬る事だけに執着していた。まるで抜き身の刀の様に、羅刹の心は殺気に囚われている。
人を護る心算など、在りはしない。人としても、騎士としても、羅刹の心は欠けている。
「戦騎騎士としての自覚を持ちなさい。そうしなければ、いつかきっと後悔するわ」
「関係無い。俺は只、奴等を斬れれば、其れで良い」
本心だった。
羅刹に取っては、戦騎騎士としての宿命も、人々の平穏な日々も、どうでも良い。
只、魔徒の存在は気に入らない。だから、魔徒を斬る。
其れだけの事でしかなかった。本心を謂う為らば、己の中に在る憎しみの憂さを晴らす為だ。滾る憎悪は、鎮まる事を識らない。抑え込む心算も、毛頭ない。復讐を果たす相手は、疾うに命が尽き果てている。
魔徒を斬る事だけが、唯一の救いだと感じていた。只の気休めでは在ったが、闘争の間だけは、心が紛れていた。
「奴は、何処へ行った?」
「解らないわ」
「どうやら、手掛りは此れだけか……」
魔徒が投げた武器を、拾い上げる。
「どうやら、彫刻刀の様ね」
「辿れるか?」
「多分ね……」
タリムには、魔徒を感知する能力が在る。
彫刻刀に残った僅かな思念を頼りに、魔徒を追跡するしかない。
「とにかく、此処を出るぞ。腹が減った」
羅刹を動かすのは、殺意と本能だけで在った。




