壱
事態は一刻を争っていた。患者の容態は、極めて危険で在った。脳裡を絶望的なイメージばかりが、掠めている。
焦りばかりが、正幸の心を撫でていく。纏わり着く惑いが、重圧と成って全身に伸し掛かっている。
全神経を手術に集中させる事に、努めようとする。併し幾ら拭い去ろうとしても、己の中の迷いは無くならない。
最早、究極の局面に晒されていると謂うのに、正幸のメスには迷いが在った。
「汗っ……」
看護師が正幸の額の汗を拭う。
幾ら拭おうとしても、止めどなく押し寄せる不安が、心を捕らえて離さない。
此れ以上は、患者の体力は持たなかった。決断しなければ、為らない。
患者の容態は、母子共に危険な状態。どちらか一方しか、助からないのだ。
決断しなければ、為らなかった。
本来ならば、どちらを救済するかは、医師の判断では決められない。家族の判断を、仰がなければ為らないのだ。医師の勝手な判断で、選択する事は出来ない。併し目の前の患者は、正幸の妻で在った。詰まり執刀している自分に、決定権が在った。
妻を救うのか、産まれ様と必死に足掻いている我が子を救うのか。正幸は迷っていた。
——もしも、私達が危険な目に遭ったら、迷わず此の子を助けてあげて。
妻の言葉を思い出していた。誰よりも、我が子の誕生を悦んでいた。どうして、こう為ったのだろう。
正幸は運命を呪った。
其の目には、涙の色が浮かんでいた。妻の意思は尊重したかったし、産まれ来る我が子を救いたかった。無事に生まれた我が子を、此の手で抱いてみたかった。
だが、其れ以上に妻を愛していた。何が在ろうとも、決して喪いたくは無かった。だからこそ、正幸の迷いは果てし無く、其の想いに思考を捕らわれてしまっていた。
妻を救うのか、我が子を救うのか——もしかしたら、二人を共に救う道に挑めば、奇跡は起きるかも知れない。其の可能性は、極めて低かった。けれども、どちらの命も救いたかった。
併し失敗すれば、妻の命も我が子の命も、喪ってしまう。一体、どうすれば……。
迷い惑いながらも、決断の時は迫っている。選らばなければ、どちらも喪ってしまう。
もう僅かな時間すらも、遺されてはいないのだから。
選ばなければ、為らない。
目を綴じて、ゆっくりと深呼吸をした。意識を研ぎ澄ます。
心を落ち着けて、覚悟と共に決断を下す。自分には、何方も見捨てる事など出来る訳が無い。自分は医師で在り、父親で在り、夫なのだ。見捨てて良い筈が無かった。必ず、何方も助けてみせる。
正幸の目から、涙が消えた。其のメスには最早、迷いの色は無い。
まるで、人が変わった様で在った。
神憑った正幸の手術に、其の場に居る全員が息を呑んだ。もしかしたら、奇跡が起きるかも知れない。
沸き起こる淡い希望に溶け込む様に、黒い靄が人知れず手術室に満ちていた。




