壱
全てが憎い。
目に映る全ての者を、殺してしまいたい。残酷で、冷酷な想像が、頭の中を駆け廻る。気が狂いそうな程の憎悪が内側から、己の身を焼き崩す様な感覚に捉われる。
胸中で憎悪の蛇が、蜷局を巻いている。果てしもない憎しみが、どうしようも無く心を焼いて往く。深く濃い闇が憎しみと共に、昏く淀んだ心に、澱の様に沈んでいる。粘着質な執念にも似た憎しみの感情が、幸男の心に纏わり附いて離れない。全てを壊してしまいたい。己の内側の破壊衝動が、殺意と憎悪に結び附いて、どうにも度し難い。頭の中に在る果ての無い憎しみは、救い様がなく心を壊して往く。
暗闇を懐中電灯で照らしながら、幸男は工場内を歩いている。無機質な足音だけが、闇に木霊している。寒気が肌を冷やしていたが、幸男の額には汗が滲んでいた。暑い訳では無い。吐き気がする程に忌まわしい記憶ばかりが、心を彩って往く。
今朝、工場長に三行半を突き附けられた。幸男の脳裏を、永井の言葉が蘇っている。
——もう、明日から来なくて良いから。
見下した様な薄い笑みを浮かべながら、工場長の永井はクビを謂い渡してきた。
其の時に、永井を殺してしまいたいと思った。四肢を八つ裂きにして、腸を抉り出してやりたい。押し寄せる憎悪。滾る想いを直隠しながら、心を押し殺す。陰鬱な感情は、いつだって幸男の心の中に潜んでいた。
幸男は脅えた様な、困惑した様な、そんな視線を泳がせている。抑え難い殺意を内に秘めながら、其の感情に気付かない振りをした。そうしなければ、気が触れてしまいそうだ。不特定多数の人間に、明確な殺意の感情を抱いていたし、自殺を考えた事も数え切れない程に在る。
——お前みたいな役立たずは、死んだ方が良いんじゃないか?
生ゴミでも見る様な永井の眼を見て、憎悪に殺意の炎が灯るのが解った。殺してしまいたい。幸男の懐には、常に彫刻刀が隠されている。持っていると、心が落ち着くからだ。其の彫刻刀を遣って、永井の喉を裂いてしまいたい。滅多刺しにして遣りたかった。
——何だよ、其の目。俺が殺してやろうか?
幸男の胸倉を掴み上げながら、永井は声を低くする。
周囲の嘲笑の声。
冷やかな視線。
其の全てが、憎かった。怨めしかった。周囲の人間を、鏖にしてしまいたかった。
吐き気がする様な腐った空気が、幸男の感情を激しく狂わせる。そんな狂気を無意識の内に押し込めて、幸男は涙を浮かべている。
逃げる様にして、幸男は家路に着いていた。
幸男は永井への復讐を誓った。
今夜、自殺をしようと心に決めた。
遺書には地獄の様に悲惨な半生。そして、永井達への怨みの言葉を書き殴っていた。
思えば何一つ、良い事なんてなかった。
幸男は己の人生を呪い。己の境遇も又、呪った。
母子家庭に育った幸男は、父親が誰なのかが解らない。
名前も素性も知らない破落戸との間に生まれた子供だと、スナックに勤める母は謂っていた。幼い頃の記憶が、頭の中を過ぎって往く。
——アンタは、此の世に産まれちゃいけない子だったの。
感情の籠らない声音が、幸男の心を冷たく撫でる。冷ややかに、憎しみの種が散蒔かれていた。まだ幼い幸男の頬に、母は煙草の火を押し附ける。
——アンタの父親は、何処の誰とも知れない行きずりの男。
いつも同じ事を謂いながら、母は幸男に虐待を繰り返した。
——アンタなんて、死んでしまえば良いのに。
何度も同じ言葉を浴びせながら、何度も何度も母は幸男を虐げ続けた。
——アンタは、私の子供なんかじゃない。
冷たい視線を投げ掛ける母。
ゴミ袋に首から下まで入れられた状態で、幸男の幼い体は縛られている。
幸男は母への情を保つかの様に、母への憎悪の念を必死で振り払う。其れでも憎悪の種は、確実に心の奥底に根付いていたし、育っていたのは間違いなかった。
長い年月を掛けて、幸男の心には様々な人間への憎悪が蓄積していった。
幼い頃から、幸男は周囲の人間に苛められていた。
——ほら、ワンって鳴いてみろよ。
ガキ大将のタケシが、四つん這いに為る幸男の顔を蹴り衝ける。熱にも似た衝撃が、鼻頭に触れる。まるで火花が弾ける様に熱かった。自然と涙が溢れ出して、憎しみが込み上げて来た。
——ポチ、あそこにエサが落ちてるぞ。
犬の糞を指差しながら、タケシは笑っている。
周囲の嘲り声。
残酷な子供達。
無関心な大人達。
——早く、食えよ。
囃し立てるタケシ。
期待と奇異の眼差し。
込み上げる殺意。
抑え難い憎悪を、子供ながらに捻じ込む様に飲み込んだ。
殺してしまいたい。
けれど、押し殺した。
感情を塞ぎ、己を殺し、幼い幸男は犬の糞を口の中に含ませる。ぬちゃり……とした感触が、口の中を満たしている。吐き気が込み上げる様な異臭が、鼻腔いっぱいに広がった。胃液が逆流して、据えた様な何とも謂えない味と相まって、心をどす黒い何かが満たしていく。
——こいつ、本当に食いやがった。
殺してやる。
気味悪そうに、タケシは逃げていった。
殺してやる。
周りの子供達も、タケシを追う様にして逃げていった。
「殺してやる!」
幸男の絶叫が、工場内の闇に木霊した。
永井も母も皆、殺してやる。
「殺してやるぅぅぅーっ!」
ガソリンを撒き散らしながら、狂った様に叫んでいる。
「皆、殺してやるぞぉ!」
——なら、俺が協力してやろうか?
「何だ! 何処にいる?」
何処からか、声が聴こえてきた。男の低い声だ。
——殺したい程、憎いんだろう?
「誰だ……。何処にいる?」
工場には、誰もいない筈だ。
辺りを懐中電灯で照らすが、誰もいない。
其れなのに、声が聴こえる。
——俺が、最高の快楽を教えてやろう。
何かが己の内側に、ゆっくりと入ってくる様な感覚がした。
不思議と恐怖はなかった。良く目を凝らすと、黒い靄の様な物が全身を包んでいた。
「本当に皆、殺す事が出来るのか?」
黒い靄に問う。
もしも本当に、永井や母を殺せるの為らば、迷う迄も無かった。復讐を果たせるので在れば、鬼でも悪魔にでも魂を売り渡そう。其れ程に迄、己の人生には救いが無い。一人残らず、殺してしまいたかった。
——約束しよう。
此の世の者とも知れない声に、幸男は心を委ねていた。
声の申し出は、とても魅力的だった。今まで味わった事のない様な、安心感を抱いていた。
「解った」
忌憚の無い言葉を発すると、ゆっくりと眼を閉じた。
靄は幸男の内側へと入っていった。心に掛かった煙霞が晴れる様な想いが、心を満たして往く。心地良く、心が洗われて往く様だった。迷いも惑いも、微塵も無く消え失せていた。
ゆっくりと眼を開くと、幸男の哄笑が工場内に轟いた。
「清々(すがすが)しい。晴れやかな気分だ!」
爽やかな笑みを浮かべて、幸男は生まれ変わった世界を眺めた。




