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拝啓
お姉ちゃんへ
この度は高校生作曲コンクール第三位の受賞おめでとうございます。一位なしの三位なのですから、実質的には参加者の中で二番目に良くできていたということになりはしないでしょうか。むしろこういう場合二位の人の方が、一位にするにはどこか足りなかったと言われているみたいで気の毒です。三位は三位でも二位でも一番では無かったということが分かっているだけ気楽というものではないですか。もちろん参加する以上は一番を目指すのは当然ですから、悔しいことは悔しいでしょう。そこはお慰めしますが、ビギナーズラックと言うには上出来が過ぎる結果ですから、素直にここは喜ぶべきではないでしょうか。お姉ちゃんが喜ばなければ四位以下の入賞者の方々を愚弄することにもなるのですよ、三位でも喜べないのにお前たちはそれ以下だと宣言するようなものですから。結果は結果として、この審査員相手に今回はこうなったと受け止めて、まずは素直に喜んでおきましょう。もし別の審査員だったら、とか、もし別のコンクールに提出していれば、とかいったもしもの話は、でも現実にはそうはならなかった、ということでおしまいにしなければなりません。私の両親が保土ヶ谷のハングリータイガーで祝勝会を開くと言っているので、京都から帰ってきたらまずはそちらで祝われてやってください。入賞者コンサートのチケットノルマを課される身にもなったのですから、今後はそちらをどうやって二十枚も捌くかを考える必要があるでしょう。馬術部内や親戚筋に加え、作曲科のクラスで売るにしても全部で八人ですから、フラテのメンバーを通じて上級生や、来月からは新入生相手にも買って貰わないと捌けないのではないでしょうか。
思い出せば去年もフラテの先輩や馬術部の先輩から、コンクールのチケットやコンクールを録音したCDの売り込みが度々あったように思われます。上野さんは市場リサーチの一環としてまめにそういったものを買っていた様子でしたが、私もお姉ちゃんもそうした努力には冷たい学生だったので、チケットやCDを売っていても、ああ、そうですか、じゃあ頑張って下さいね、とあまり意に介さないでいたのが思い出されます。我が身に降ってきてようやくその意味が分かるとともに、一回生の内から何か買って恩を売っておけば良かったと悔やまれます。上野さんにプロデュースを依頼したのが去年のギリギリになってからだったので、そこまで気を回す暇も無かったというのが正直なところですが、チケットの捌きに関しても上野さん頼みにせず、私たちもできることをやっていきましょう。とは言え上野さんに断りも無く行動して混乱を引き起こすのも面倒なので、ちゃんと話は通しておかないといけません。余計なことはしないで欲しいんだが?と怒られる可能性も相当にありますので、そう言われたときは、だって、とか、しかし、とかいった言い訳はせずに素直に叱られて退いておきましょう。上野さんはプロデューサースクールでいっぱしの教育を受けた人ですから、その誇りをこちらから傷つけてしまうことはなるべく避けなければいけません。それが相手をプロと見込んで頼んだ側の礼儀というものです。
審査員の選評はもう読まれたことかと思います、基本的に辛口のコメントが並んでいますがそれに腹を立てても仕方が無いので、他人事のように引いた目線で見るのが適当というものでしょう。曲想に対し時間が十分でなく、展開が唐突で駆け足のような印象を与える、だとか、バスクラリネットの主旋律に対してオーケストラの構成がうるさすぎるだとか、これが本当に三位入賞者に与える言葉だろうかとは私も思いました。この分ですと二位に入賞者したあの東京のリセのなんとかいう人への選評も大体同じような辛口の内容に違いないでしょう、むしろ一位に推すことができなかっただけ、より厳しいことが書かれているかもしれません。選評の中で褒められた点ももちろんありましたよね、展開の巧みさとか、奔放に聴こえて実は教科書に忠実な民族的和声の付け方とか、あるいは旋律の美しさや主題と曲想の一致など、評価された点はよくよく読めば沢山あることが分かります。ただ私も譜読みをする中で思ったのは、独奏楽器のバスクラリネットを聴かせたいのか、オーケストラの構成を聴かせたいのか、どちらに振れるのかが中途半端でよく分からなかったということです。選評の中にも書いてありましたよね、バスクラリネットの独奏というアイデアを活かすのならオーケストラに色気を出すという発想にはならなかったはずです、中途半端になるくらいならバスクラリネットとピアノのためのソナタを提出するべきでした、と。全く同意という訳ではありませんが、言いたいことは私と同じであると思います、初のオーケストラに挑戦できるということで欲目が出てしまいましたね。もちろんコンクール初挑戦での三位というのは、それも一位なしの三位というのは素晴らしいことですし、特に旋律や展開については評価もされているのですから、後は編曲の経験値を積むだけではないですか。
さて、手短にですがお祝いと反省を述べたところで、いつも通りだらだらとした手紙に移りたいと思います。突然ですがお姉ちゃんは私と結婚したいと思ったことはありますか、もしくは私をお嫁さんにしたいとか、自分が私のお嫁さんになりたいとか思ったことはありますか。先に私から言ってしまえば、お姉ちゃんと結婚して、どう表記するのが適当かは分かりませんが、「ふうふ」になるのは何か違うような気がしています。やっぱりお姉ちゃんはお姉ちゃんですし、私はそれを求めてお姉ちゃんの告白を受けたのですから、お姉ちゃんと家庭を持ちたいかというのも含めて、結婚するというのは何か違うような気がしているのです。もっとも私は安易に反婚姻、反家庭の視座に立って何かに目覚めたようなことを言っている訳ではありません、現に私は灯子さんと上野さんの二人が結婚を視野に入れて家庭を築こうとしているのを心から応援する立場です。それに、姉妹は初めから結婚できないでしょう、などと悟ったような諦めたような言葉が聞きたい訳ではありません。私の言葉が及ばないのがもどかしいですが仮にできたとして、私は少なくともそれを選ばないし、お姉ちゃんと所帯を持つことは考えられない、なぜならそれは私にとって小椋麻優子はお姉ちゃんであり、恋人であり、その二つが渾融したところにある人だから、ということです。つまるところ既に家族だから、重ねて家族にはなれないということではないの、とお姉ちゃんは言いたいかもしれませんが、家族であることと家庭を築くということはまた違って、お姉ちゃんと後者を選ぶことは違うな、と思っているということなのですが、伝わりますか、これは。
この面倒臭い話は、家庭を築くということを私がどう捉えているか、というところに落ち着きそうな感じですが、ジェンダー、クィアの理論を持ち出すまでもなく出てくる、性的関係の独占、モノガマスな関係の終着点、ロマンチックな恋愛至上性の賞揚といった言葉だと、恋人同士の付き合いと何が違うのか私にも分からなくなります。家庭を築くというのはもっとこう強く互いを束縛し合うような、一つの新しい生活を一緒に構築して行くような、あるいは家庭崩壊という言葉から想像されるものの裏返しとしての不和や離散、暴力などを免れた状態を想像しても良いでしょう。無論私たちの間に不和や離散、暴力などがあって良いはずはありませんが、私とお姉ちゃんは果たして一つの生活を共に築いて行くでしょうか、行動の全てを共にするほど互いを束縛することを幸せに数えるでしょうか、と考えるとき、やはり結婚して所帯じみたことをするのは互いの性に合わないのではないかと考えるのです。もちろんお姉ちゃんと同じ時間を過ごすのは幸せですし、愛情が二人の間で至上の価値観であることも否定するつもりはありません。キスをしたり体を重ねたりすることに幸福と愛情を感じない訳でもありません。ですがそれでも私とお姉ちゃんとの間には互いの生き方の上で最低限の距離感が、距離感という言い方が相当でなければ、お互いの関心領域の重ならないところが必要なのだと考えます。もちろん世の中の「ふうふ」だってその大半は関心領域が全て重なっている訳ではないでしょうが、家庭という共同体を経営することや子供を育てたりすることを通じて、その関心領域を重ねて行くものでしょう。関心領域を重ねて行くことに幸せを感じるのが「ふうふ」であり家庭という共同体なのであるとしたら、私たちの関係はそれらを志向していないな、と感じるということなのです。
兄弟姉妹は他人の始まりと言いますが、私たちの場合それは人並み以上に他人らしいものであって、お姉ちゃんのことを名前で呼んでいた頃などは、まさに他人と言って良かったでしょう。お姉ちゃんの告白を受けたことを機に私がお姉ちゃん、と呼ぶようになって、ようやく姉妹らしさを取り戻し、また恋人同士になったこともあって、互いの関心領域が少し重なりあった状態になったことで、初めて互いを愛することと関心領域を重ねて行くことの違いを意識するようになりました。それは端的に言ってしまえば、私たちは互いの人生に対してさほどの責任を負おうとしてこなかったし、それを相手に望んでも来なかったということなのですが、私は決してそれを否定的な意味で言っている訳ではありません。むしろそうであるからこそ私たちの恋は生活の匂いとは無縁で、純粋な魂の触れ合い、「遊び」としての性格を持つことができたのだと考えます。「遊び」は決して不真面目で浮わついた意味で言っている訳ではありません、古語の神遊びのように、精魂込めて真剣に歌舞音曲することもまた遊びです。私たちが互いに向ける愛情も真剣なものであるが故にまた遊びなのであって、ハレとケの理屈で言うならハレの行い、ケの行いから異化されることによって意味のある御霊の遊びなのです。そんな程度の高い話にしなくても、要は私たちの関係は純粋な遊びだと言われて、お姉ちゃんも怒ったり失望したりするよりは、むしろ腑に落ちるのではないでしょうか。遊びじゃなくて本気なんだと言いたい気持ちは私にもあります、ですがそれでも私とお姉ちゃんとの間には生活を共にして家庭という共同体を経営することを想像できる関係は無いと言わざるを得ません。互いの関心領域をこれ以上広げて重ね合わせて行くことに幸福を感じる関係があるとは思えませんし、仮に本気なら本気で遊んでいるので良いではありませんか。遊びには疲れが来たり、やがて終わりが来たりすることを憂いているのならば、時に立ち止まりながら、また遊びに誘ってくれればいつでもどこでもまた始められることでしょう、そうして一生涯を遊びの中で過ごせたら、どんなにか楽しいことでしょう。
どうしてこんな話を始めたかと言うと、灯子さんと上野さんが家庭を築くために互いの家族へと挨拶に行って、概ね暖かく迎えられているのを見たことと無関係ではありません。三日前に灯子さんから手紙が届き、大垣へ上野さんを連れていったことを聞きました。ご家族に恋人です、と伝えると、やはり驚かれて、長いこと説明してようやく理解して貰えたようなのですが、一度理解を得ると上野さんを暖かく家族として迎え入れて下さったそうなのです。ショスタコーヴィチの二台のピアノのための組曲を灯子さんのお父さんと一緒に演奏したり、灯子さんとモーツァルトの連弾ソナタを弾いたりする中でご家族との信頼を深めてゆき、翌朝にはもう上野さんは家族の一員として認められたのだと言います。こう要約しては全く伝わりませんが、上野さんと新しく家庭を築いて行く幸せで一杯に書き綴られた灯子さんの手紙を読んで、振り返って我が身のことを思うのは、全く自然なことのように思われます。私たちは灯子さんと上野さんの二人のように愛し合っているでしょうか、二人のように互いの家族を自らの家族とすることを目指しているでしょうか、二人のように自分たちで新しい家庭という共同体を建設することに幸福と喜びとを感じるものでしょうか。殊に私たち二人が恋人同士であることが灯子さんと上野さんのロールモデルとなって、単に友達同士で家庭を築けば良かった二人を恋愛関係に押しやってしまったのではないかと考えるとき、果たして私たちの恋愛は人様の参照になるほど立派なものであるか、純粋なものであるかという問いかけが当然に生じてきます。姉妹で付き合っておいて立派も何も無いでしょう、という指摘は無しでお願いします、これが人様に胸の張れる恋愛かと言われれば、笑止千万であるのに違いないのですから。
しかしなればこそ「遊び」なのだと考えれば全てとは言わずとも多くのことを解決できますし、灯子さんと上野さんが家庭を築こうがスウェーデンに渡って結婚しようが、私たちは腹蔵なく祝福を口にすることができるのです。だってそうではないですか、所詮は姉妹の「遊び」なのですから、人様に胸を張れるかとか、純粋か不純かとかなんて気にする方がおかしいと言うものです。恋人同士のロールプレイに興じている私たちが誰かの参考にされたところで、それは芝居や映画から影響を受けるのにも似通った話であって、上演の巧拙は云々される話ではあっても、参照されることの是非には容喙しない話ではありませんか。血の繋がった家族で恋人同士のロールプレイだなんて、自嘲するにしても少し言い過ぎたところがあるかもしれません。そんなに言うのなら、これがもし興行だと言うのなら、さだめし立派なブックに従っているのでしょう、果たしてそれはどんな内容なのかしら、と応酬されるとしても不思議ではありません。果たして私もプロレスのようにかけられた技を受けて見せ、それに応えて自分の技を繰り出しているのかどうか、筋書きに導かれるままに恋愛ドラマを演じているだけなのかどうか、分かっていないのです。だってプロレスにおいてどんな筋書きの興行であっても、流した血と汗が本物であるように、私とお姉ちゃんとの「遊び」が筋書きに従ったドラマだったからと言って、抱いた愛情と喜びとは本物なんですから。あるいは筋書きの無いエチュードであるにせよ、恋のルールに沿った「遊び」の中で抱いた愛情と喜びが本物である限り、私たちの間でこの関係は何ら恥じるところ無く純粋なものとして受け止めることができるのです。
私たちの恋のルールは例えば、私たちは姉妹として互いを愛すること、月に一度は恋文を書くこと、二人きりになったら一度はキスをすること、週に一度は一緒に寝ることなどが挙げられるでしょうか。こうしたルールはどちらかがそうしようと提案してできたものではなく、お互いに抱いた愛情の発揮される中で自然と形成されてきたものではないですか。「遊び」のルールを決めるのが二人の間の真摯な愛情である限り、所詮は「遊び」とは言え、これほど真剣なゲームは果たして他に類例の無いことでしょう。恋のゲームなんて単純化してしまえばみんな同じことじゃないの、などと悲観的なことは言わないで下さい、なにも私は恋のゲームがオリジナリティのある枠組みだと言っている訳ではありません。それでも私たちの「遊び」は、私たちの特殊な関係を説明可能な点で、概念として一定の強度を持っているものと考えるのです。なんだか研究の新規性を主張する論文の一節みたいですが、ともかくも「遊び」と考えることによって、私たちの恋愛の特殊な一面と一般化できる一面とを明らかにできることは、これからの議論をより明解なものにしていくのに役立つことでしょう。と言ってもこれから批評を始めようだとか、研究に着手するだとかいう訳ではありません、あくまでこれからお姉ちゃんと私の関係を考える上で、土台となる認識を整理するために有用であるというだけのことです。いつか私かお姉ちゃんかが、家族同士であり恋人同士である私たちの関係って何なのだろう、と根本的な疑問に行き当たったとき、ああそうだった、これは所詮真剣に遊んでいるだけの「遊び」だったんだ、本物の愛と喜びが交わされるけれども、ルールを決めてエチュードを演じているだけだったんだ、と振り返ることで初めて冷静な議論を可能にするような気がするのです。
思えば私たちは感情的になって言い争うなどということがこれまでにありませんでしたね。それはそもそも遠く離れて住んでいたため顔を会わせる機会が少なかったこと、聾と唖では手話もできないのに言い争う手段も無かったことに加え、お姉ちゃんが倣いを使って心の裡の一歩先まで受け止めてから言葉を発していることのためでしょう。おばあちゃんも悠季子さんも同じでしたが、覚りの倣いを使っている人が派手に怒るところは見たことがありません。おばあちゃんは厳格な人でしたが、人に腹を立てるのには疲れてしまったかのように怒らない人だったと記憶しています。一緒に住んでいたお姉ちゃんはまた違った印象で記憶しているかもしれませんが、少なくとも私には怒られた記憶がありません。流石に悠季子さんとお母さんは大学進学時のごたごたで怒られたことがあると思いますが、お母さんはよく怒るものの、悠季子さんは怒っているところは見たことがありません。私たちとて言い返せない訳ではありませんが、その場でぱっと言い返すのが難しい相手に怒るのも気が引ける、つまりはこの場面においても配慮されているのかもしれませんが、少なくとも私とお姉ちゃんの間にそんな遠慮は存在しないのにも関わらず、そうした喧嘩をついぞしたことが無かったのは、ひとえにお姉ちゃんの倣いのお蔭でしょう。私はそれに甘えきって好きなように書いて伝えていましたけれど、お姉ちゃんはその表裏を読みきった上で応対していて、さぞ腹の立つこと、ムカつくこと、嫌いになりそうなこと、色々あったことでしょう。私がそれを意識するようになったのはつい最近の、付き合い始めて以降のことで、お姉ちゃんに嫌な思いをさせないようにと、思うように手紙が書けるようにはまだなっていません。私の思うように文章が紡げるようになることが、書き言葉で結ばれた恋人同士である私たちの関係が新たなフェーズに入ったことを告げるでしょう。それまではどうか拙い文章に耐えて、私が思うままに書いてもお姉ちゃんを傷つけないようになるまで、嫌な思いをさせないようになるまで、どうか待っていて下さい。
さて、ここまで一人相撲で恋愛論を述べてきましたが、お姉ちゃんの側からも是か非か反応して欲しいと思います。手紙だから仕方ありませんが、一方的に私の言いたいこと、訊かれたいことだけを答えているのを読まされて、お姉ちゃんも居ても立ってもいられなかったのではありませんか。ここは違う、それはこうだ、と思うところは当然おありでしょう、そもそも何で作曲コンクール入賞祝いの手紙で何段落にも渡って恋愛論をぶたれなければならないのか、酔っ払いに絡まれたとでも思えばいいのかと困惑して、まずはその問い正しをしたいかswwもしれません。何でも構いませんので、お姉ちゃんからのお返事を待っています、私も長広舌をぶった後で、その反応を聞いてみたくてならないのです。私たちの関係がハレとケで言うところのハレに当たる「遊び」だというのはなかなか大胆な仮説だと思いますが、それについても一言ご意見を貰いたいと思います。私たちの恋愛が家庭共同体を目指さない、そこに収まることを良しとしないものであることなどは、比較対象であるところの灯子さんと上野さんをこちらが逆にロールモデルと見た場合に導かれている条件なのですが、その妥当性についてもお姉ちゃんからの批判検証を貰いたいと思っています。こう言うとまるで論文の添削でも申請しているかのようで堅苦しいですが、要するに読んで貰って折り返しに徒然なるままの文章を送って返して欲しい程度の意味合いです。お姉ちゃんの文章は私よりもずっと上手ですし、読んでいて楽しい修辞的な旨味、味わいがあるのですから、私のみならずより多くの人に読んで貰えるように、お姉ちゃんも文通をすればいいのにと思う次第です。灯子さんや上野さん、作曲科のお友達やフラテの先輩方、指導の先生方なんかと広く文を交えても良いのではないでしょうか。
ここまで長々と話してきた恋愛論ですが、他に話したいこともあるので唐突ながらここで打ち切らせて貰います、続きを話したければお返事で蒸し返して下さい。さて、突然ですがお姉ちゃんは、書き言葉以外で私たちの共通言語となるものは何だと考えますか、指文字以外で考えてみてください。共通言語という言い方が誤解を招きそうならば、共有できる感覚と言い換えてみても構いません。私はそれを匂い、嗅覚であると考えます。先に白状しておきますが、こんなアイデアを思い付いたのはジュースキントの『香水』を読んでその影響を受けたからであるのに違いありません。と言っても私はお姉ちゃんを精油に浸けて極上の香水を作り上げようというファンタジーに心掴まれた訳ではなくて、ふとお姉ちゃんと私は同じものを同じように聞くことはできなくても、同じものを同じように嗅ぐことはできるのではないかと考えたのです。もちろん味に好みがあるように、匂いにも好き嫌いがあって、同じものを同じように嗅ぐ、というのは口で言うほど簡単な話ではないはずです。気付いていないだけで私やお姉ちゃんに鼻の病気や障害があって、好みの以前に物理的、生科学的に同じ匂いを嗅げていない可能性だってある訳です。とは言えこれまでにお姉ちゃんと物の香りについて衝突したことはありませんし、むしろ匂いについては微妙な感覚でも一致するところが多かったような気がしますし、お姉ちゃんは私と同じ程度に鼻が利くものと思って以降の話を進めていっても良いのではないでしょうか。
ではそれを前提に話を進めさせて貰うと、果たしてお姉ちゃんにとって私の匂いは一体どのようなものなのでしょうか。そういきなり訊かれても答えようがないでしょうか、私から先にお姉ちゃんの匂いについて答えた方が良いかもしれません。お姉ちゃんの匂いは私にとって何より安心、安全を意味します。お姉ちゃんの腕の中に抱かれ、胸元に顔を埋めてゆっくりと息を吸い込むと、身に着けた服の繊維の匂いを通して、皮膚から蒸散される脂の匂いが鼻腔に充満すると、身体全体がぼうっと暖かいものに包まれたような感覚がして、頭の中から全身にかけての緊張がすーっと抜けていくような気がするのです。お姉ちゃんの体温は私に比べて高いので、吸い込む息の暖かさが身体に回って内側から暖めてくれるのも、緊張を解してくれる一つの要素を成しています。私より小さなお姉ちゃんを抱き締めて、暖かな感覚に包まれていると、次第に心臓の鼓動が揃ってきて、お姉ちゃんの匂いが身体に充満してくる幻覚とともに、二人の境界を曖昧にして、まるで一つの生き物になったような悦びで胸が一杯になるのです。それはお姉ちゃんの身動ぎ一つで崩れては、また融けてゆくような微妙な感覚なのですが、その波が私の心の緊張を消散させてゆき、一呼吸一呼吸が私の意識を曖昧にさせ、安らかな眠りへと誘われてゆく幸せを何と表現したものでしょうか。そうして眠りの淵へと落ちてゆくときに身体を預けたお姉ちゃんの小さな身体が、目覚めたときもまだそこにある幸せを、覚醒と共にじんわりとした温もりが伝わってくるのを感じる幸福を、目が覚めて最初の一呼吸をお姉ちゃんから発散された香りで一杯に埋め尽くして頭の中が和らぐあの恍惚を、言葉にして伝えようとするのは最早無粋と言うものでしょう。
同じときにお姉ちゃんは私の匂いを嗅いでどのような感情を抱いているのでしょうか、私の匂いはそもそも快いものとして認識されているのでしょうか。自分の匂いなぞは嗅いでみても分かりませんし、よしんば脱いだ衣類を嗅いでみても、汗臭いばかりでげんなりするのでしょうけれど、お姉ちゃんはしばしば私を抱き締めては、首元やうなじ、耳の後ろや髪の中ですうすうと匂いを吸っていますよね。私もお姉ちゃんの呼吸が肌や髪に触れるのが気持ちよくてそれを許しているのですが、私の肌や髪から発する匂いはお姉ちゃんの趣味嗜好に合っているとしても、それはいい匂いとして認識されているからなのか、ある種の変な匂いが癖になっているのかは分かりません。分かりませんが、犬や猫の匂いを吸って幸せを感じる、という性癖の方も世の中にはいるようで、私は犬も猫も嗅いだことがないのでどのようなものかは分からないのですが、そうしたある種の獣臭さが私から発せられているとしたら、それはちょっと気落ちせずにはいられません。十六歳の乙女たるもの、獣臭いよりかはもっと清涼感があるか、あるいはもっと芳醇な、馥郁とした乙女らしい香りというものを発していたいというものです。いい匂いのする乙女と言えば、私にとっての第一はお姉ちゃんですが、灯子さんもなかなかいい匂いがします。それは香り付きの洗剤や柔軟剤、メイクやオードパルファンなどのフレグランスによる努力の香りで、日によって微妙に匂いが違いますが、どれも灯子さんらしくその日の服装に会わせた乙女らしい匂いがして、教室でもよくお友達に嗅がれているらしいです。灯子さんがそういったところに気を使っているのは馬術部のマネージャーという職位からしても意外に思われるかもしれません、馬たちに悪影響がない程度にそれほど強くはないものにしているという話ですが。
私は下手なりに馬に乗る身ですので、そうしたフレグランスにはあまり関心を持ってこなかった訳ですが、お姉ちゃんの回答如何によっては、休日や練習後にはちょっと何か付けてみようかという気にもなります。ファッションやメイク、フレグランスなどの領域に関しては、それこそ灯子さんに訊くのが一番手近で参考にもなるでしょうから、いずれ尋ねてみるとして、そのとき気にかかるのは見繕って貰う「私らしい香り」がお姉ちゃんの好みに合う香りになるだろうかということです。お姉ちゃんがもし何も付けない、生のままの私の匂いを好きだと言ってくれるならば、私はこれまで通り何も付けずにお姉ちゃんの部屋に通おうと思います。お姉ちゃんがもし灯子さんの見繕ってくれる「私らしい香り」も気にかかると言ってくれるならば、私は背伸びして灯子さんと一緒にフレグランスショップに行く勇気も出せます。灯子さんは大垣時代にはファッションとコスメのために名古屋まで足を伸ばしていたぐらいで、現在も横浜まで足を伸ばす他に、名古屋で見つけたショップのオンライン通販を利用していると言っていましたから、知見の広さには信頼が置けます。話は逸れますが、お姉ちゃんが普段来ている服は自分で買っているのですか、それとも私がお母さんに買って貰っているように、悠季子さんに送って貰っているのですか。お姉ちゃんがこちらに来て一年経つのに、たまのデートで服屋さんを覗くぐらいで、お姉ちゃんが自分で服を買っているところは見たことがありませんし、なのに聖園会の生活行動マニュアルに沿って、季節毎に着る服を整理しながらも同じ服ばかり着ている訳でもないので、一体どうやって服を管理しているのだろうと思っていたのでした。あれは私が季節毎に着ない服を実家に置きに行っているように、そうして着る服を取りに行った機会に新しい服を買って貰っているように、着ない服は京都の実家に送って、着る服を送って貰うついでに新しい服を追加して貰うものかと思っていたのですが、違いましたか。私が見ていない隙にお姉ちゃんは自分で服を買っていたとしたら、それはデートプランを考える側の私にお店を選ぶセンスが無かったということになりそうです。もし買いに行っているお店があるとしたら、今度は一緒に服を選びに行きませんか。私もお姉ちゃんに私に着て欲しい服を選んでもらいたくて毎度服屋さんを覗いているので、センスが合わないと思ったときは率直に伝えてくれると、そして私にはまだ見えなかったものを見せてくれると嬉しく思います。
話を匂いに戻しますと、果たしてお姉ちゃんは私のそのままの匂いを好きだと言ってくれますか。それとも灯子さんのように、より乙女らしく美しさと可愛らしさを追求した私の匂いも嗅いでみたいと考えていますか。先に述べた通り、匂いは私とお姉ちゃんにとって唯一とは言わないまでも、数少ない共通感覚である訳で、あまりここを深掘りするとボロが出るので、そういうものであるという前提でいて欲しいのですが、私にとっての快い香りというものを同じようにお姉ちゃんと共有できる貴重な手段であり機会なのです。私にとってお姉ちゃんの生のままの香りが安心、安全を意味するノートであるように、お姉ちゃんにとっての私の生のままの香りはどんな快さ、気持ち良さに結びついたノートなのでしょうか。また、もしも私が人工の乙女の香りを身にまとい現れたとして、それはお姉ちゃんの私に対するそれまでとは違った情緒を刺激するのでしょうか。私はお姉ちゃんがもし人造の香りをまとって目の前に現れたとしたら、最初はとても驚くことでしょう、それがどんなに快い香りだったとしても、です。けれどもきっとそれがお姉ちゃんの選んだ香りなのだとしたら、ましてや私が選んだ香りになるのだとしたら、私もまたお姉ちゃんに対する新しい情緒を刺激され、きっとその匂いに夢中になるはずです。『香水』の終盤でグルヌイユが抽出した究極至高の乙女の香りがグラースの町を狂乱に陥れたかの如く、新たな愛おしい香りをまとったお姉ちゃんに私の全神経は焼き切れそうなほど興奮することでしょう。反対にお姉ちゃんも私の新しい匂いを嗅いで、文字通り食べてしまいたくなるほど愛おしく思ってくれたら、お姉ちゃんのために選んでくる甲斐もありそうだというものです。
この話は結局どこに着地するのでしょうか、書いている私にもよく分かっていません。何やねんそれ、もうええわ、と締めれば漫才なら終わってくれそうなものですが、生憎手紙というものは話芸と違って落とせばそこで終わってよいものではなく、何らかの格好を付けて終わらせなくてはならないので、私は毎度苦慮しているのですよ。灯子さんやお姉ちゃんのようにさらりと書いていつの間にかサゲているような手紙が書ける人ばかりではないのです。そのためこの一年にお姉ちゃんや灯子さんから貰った手紙を集めてどんな締めの言葉が使われているかを研究してみましたが、どれも私が書こうと思って書けるような言葉ではなく、結局何の参考にもならなかったという経緯がありました。ただこの一年に貰った手紙を読み返してみると、たったの三百六十五日の間に、なんとまあ色々大変なことのあった年だったと回想に暮れています。様々なことの心の淵に浮かぶのは当然として、一々それを文章にするほどの感傷にまでは浸っていない自分に少しだけ驚いています。あるいはそれは文章にならないうたかた、心の綾のようなものであったのかもしれませんが、まるで私にとって過去の思い出は手紙の中に全てしたためてあるかのようであって、折に触れ思い出してもそれが全く言葉にならないとは思いもよらないことでした。こんな私をお姉ちゃんは冷淡だと思うでしょうか、あるいはそれとも、昔貰った手紙というものは読み返したときに諸々の感情が湧いてきたとしても、それを言葉にして伝えることがそんなに難しいことなのでしょうか。プルースト効果と言えば言えるのでしょうが、もしお姉ちゃんが香や香水を平安貴族のように手紙の便箋にたきしめていたとしたら、私も何部にもわたる物語を回想することができたのでしょうか。最後は無理矢理匂いに絡めた話に持ってきてしまいましたが、決してお姉ちゃんたちとの思い出は匂いの一嗅ぎにも劣ると言っている訳ではありません。むしろ心の淵に浮かんだうたかたの一つ一つがそうした物語を秘めている可能性に思いを馳せるとき、ほんの少しの刺激さえあれば私はそれらの詳細をまだ思い出すことができると考えましょう。
もうあと数時間で、そんないろんなことがあった一年度が終わります。私たちも二回生に進級して、後輩もできてとまた色々忙しくなってくることでしょう。ぼんやりしている間にもいつの間にか時は流れ、子供でいられる時間はどんどん短くなってゆきます。どんなに大層なことをやってのけたとて、どんなに大層なことを言ってのけたとて、私たちが大人になるのは、もう子供ではいられなくなった時です。その時はコンセルヴァトワールの学生として保護されている内はまだ来ないことでしょう。お姉ちゃんはいずれコンクールでの優勝を手にするはずです、その傍らには上野さんのプロデュースがあることでしょう、灯子さんだって国内のコンクールでならきっと優秀な成績を修められるはずです。それらが所詮子供のすることでなく、立派な一人の音楽家のすることと認めて貰うためには、どうしたってコンセルヴァトワールを卒業しなければなりません。先生方への師事を離れなければなりません。あと六年、長いのか短いのか、子供でいられるモラトリアム期間をどう使うべきなのか、これらを今考えることはよしましょう。考えながら生きて行くというのはつくづく性に合いません、ただ手紙を書いているときだけ、少しだけ考えている振りができるばかりです。なのでお姉ちゃんも灯子さんも上野さんや私のお母さんも、これからも私の手紙に付き合ってくださいね。いつまでも続けていても仕方が無いので、今日はここで筆を擱くことにしましょう、続きはみんなが生きている限りまたいつまでも書き続けて行くことができるでしょう。まずはお姉ちゃんが無事にコンセルヴァトワールに帰ってこれるようここにお祈りしておきますね。こういう時に聴く音楽と言えばモーツァルトの三十九番と相場が決まっています、集会室のスピーカーで大音量で流したいところですが、他に練習している人の迷惑になりそうなので大人しくパソコンにヘッドフォンを差して一人静かに聞こうと思います。上野さんならいい録音を持っていそうなので、後でそれを取り込ませて貰いに行ってきますね。それではまた今度。お元気で。
敬具
三月三十一日
秀子
追伸
忘れていました、帰ってきたらもう一緒に寝てあげてもいいですよ。こちらでは灯子さんと上野さんが毎晩のようにいちゃいちゃしているのを見せつけられてたまったものではないのです。私はお母さんさえ承知してくれれば、京都まで行ってあげたかったのですが。




