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前略


 灯子さんへ


 お手紙拝読致しました。糖分が高すぎて練乳を直飲みしたかのような読後感で、便箋の間から糖蜜が染み出してべたべたするんじゃないかとさえ感じられる出来映えでしたよ。私にかけるそうした言葉をぜひ上野さんにも向けてあげて下さい、そうしたらなお一層仲睦まじくなれるのではないでしょうか。それでも上野さんと付き合い始めて一ヶ月にもならないのに、よく今の関係まで進展できたものです。考えてみればお二人は上野さんが告白したその場で二度もキスした関係ですから、進展が早いのもある意味納得が行きます。私と姉の場合、横浜と京都の遠距離恋愛から始まったこともあって、初めてキスをするまでに四ヶ月半もかかったのですが、まあそれぞれのカップルの進展の早さなど比べるのも野暮かもしれません。下世話な話をこれ以上続けても仕方ありません、まずはこの週末、灯子さんが上野さんのご両親にご挨拶できたことを親友としてお喜び申し上げます。大分緊張されたご様子でしたが、暖かく迎えて頂けたようで何よりのことと安心致しました。

 府中の駅前まで迎えに来た車がサーブのセダンだったのは、スウェーデン系らしくいかにもといった様子で、それを運転されていたのが上野さんのお父様とのファーストコンタクトだったとのこと、さぞ緊張なさったことと思います。助手席には上野さんのお母様、後部座席には上野さんの妹さんまでいらっしゃって、正月以来の帰省に家族総出で出迎えに来たご様子が伝わってきました。車内にはカーディガンズの『ライフ』がかかっていて、わざとらしいほどにスウェーデン一色で迎えられたのを、すぐに灯子さんは歓迎の意味で捉えられたのは、さすがに他者の気に鋭敏な灯子さんのことと感服致しました。多摩川沿いの上野さんのご実家の様子は、ご描写からすると小金井の江戸東京たてもの園にある前川國男邸を一回り大きくしたような建物で合っているでしょうか。大きな切妻屋根が特徴的な外観に、中央の吹き抜けリビングに配置された大きな窓が印象的ということでしたので、直観的に今まで見てきた住宅建築で一番印象深かった前川國男邸を想像しました。違うところは二階の屋根裏にも部屋があって、そこが上野さんの自室になっているらしいことですね。灯子さんは江戸東京たてもの園に行ったことはおありでしょうか。建築好き、庭園好きの灯子さんにとっては、川崎の日本民家園と並んで夢のような空間であると思いますので、もし行ったことが無ければ、少し時間はかかりますが、上野さんとデートにでも行ってきてはいかがでしょうか。

 広々とした開放的なリビングに通され、まずはご家族全員からの自己紹介を受けられたそうですね。お父様のマテアスさんは外語大のスウェーデン語およびスウェーデン政治社会学の教授をされており、お母様の新南さんは欧州安全保障に関する民間シンクタンクの研究員をされているとのこと、上野さんの頭の良さは遺伝と環境の双方によるのだな、と理由の一端がが垣間見えたような気がします。妹さんのエレナさんは上野さんと同じリセの音楽教室に通っていて、上野さんとは違いそのままリセに行って、大学はスウェーデンに音楽留学する計画を立てていらっしゃるとのこと、中学二年生なのにご立派なことと思います。マテアスさんはスウェーデンはイェーテボリのご出身で、大学で政治学を修めた後、スウェーデン外務省で働いていた時に、日本大使館の専門調査員であった新南さんと出会い、二十年前に日本にやってきたそうですね。上野家の人々に暖かく迎えられ、婿養子として日本に帰化したマテアスさんが是政のこの家を見つけたのも同じ年のことで、内見してすぐにこの家を気に入ったマテアスさんはわざわざこの近くの大学に職を得て住み始めたために、都心に通勤する新南さんは最初は大変だったとのお話、興味深く伺いました。

 上野邸はそもそも、さる戦前の高名な新聞ジャーナリストが、戦中に財産の殆どを費やして疎開して建てた住宅をリノベーションしたもので、そうなると同じく戦中に建てられた前川國男邸とは他人の空似であることになります。あるいは同時代の精神が産んだ一致とでも言えましょうか、府中市指定の文化財にもなっているそうで、改修工事などは色々な困難も伴うそうですが、それも含めてこの建築をマテアスさんが愛しているとの由、しかと伺いました。広い庭には豊かな植栽があり、綺麗に刈り込まれた芝生の上には玄関まで飛び石が連なっていて、リビングの大きな窓からは庭の様子が一望できるそうですね。テーブルのお誕生日席に座った灯子さんの視点ではちょうど真正面に庭の景色が見えて、梅の花が咲いている様子がよく見えて綺麗だったということですね。灯子さんが、私も古い建築や庭園を見るのは好きです、大垣にいた頃も、名古屋や滋賀まで遠征して見に行ったことがあります、と言ったところ、マテアスさんが食い付いて、滋賀と言えば近江八幡のヴォーリズ建築群がありますね、行ったことはありますか、と尋ねてきて、灯子さんがいえ、まだ見たことは無いんです、と言ったら、今度帰省なさった折には一度行ってみるのもいいでしょう、貴重な遺産です、と微笑まれたということ、いいコミュニケーションが取れたのではないですか。

 マテアスさんと新南さんはヴァイオリンが共通の趣味であったことも仲を深める一因をなしたそうで、子供が生まれたら一人目にはチェロを、二人目にはヴィオラを習わせてクァルテットを作ろうと先から考えていたということですね。上野さんとエレナさんはそれぞれ五歳の時から立川のリセの音楽教室に通うことになったそうで、そのお蔭で上野さんが十歳になる頃には、ベートーヴェンのクァルテットを家族で弾きこなせるようになっていたとのこと、家族の中で一人だけ音楽をやっていた私からは非常に羨ましい環境に思えます。灯子さんは家にピアノがあったから、気が付いたら指路の倣いを使って弾いていたというそれもそれで羨ましいきっかけですが、上野さんのように家族から期待を受けて音楽を始めるというのも私にはどんなものかと気になります。早期の音楽教育は、ともすれば親の期待の押し付けにもなりかねないとは、私たちの立場上よく聞くことですが、上野さんもエレナさんも音楽を自らの誇りとしているのは、ご両親の絶妙な期待と放任とのバランスがあってのことでしょう。鋭敏な灯子さんも、上野さんのご両親から何か感じるところがあったのではありませんか。

 アイナが友達を連れてくるなんて初めてだから、私たちも緊張しているんだとは妹さんのエレナさんが言ったことでしたね。エレナさんは上野さんに見た目も喋り方もよく似ていて、まるで上野さんが二人いるようだったとのこと、上野さんが二人もいたら灯子さんは目移りして大変だったのではないですか。冗談はともかく上野さんはむっとして、別に友達がいなかった訳じゃない、それに今学校には大事な友達が三人もいる、それで十分なの、と口を尖らせました。新南さんは、灯子ちゃんの他の二人も誘ってくれば良かったのに、と微笑んで言うと、灯子さんに、遠慮しないで、これから何度でも来てくれていいからね、と言われたそうですね。上野さんはコーヒーを一服すると、灯子は私の大切な人だから、みんなにも知っておいて欲しいと思ったんだ、と言うなり、実は私と灯子は付き合っている、将来的には家族になりたいと考えている、と言って、みんなを驚愕させたというではないですか。灯子さんもそれは驚きますよね、マテアスさんも新南さんも立ち上がってえーっ、と大声を上げて口を押さえ、エレナさんは、はぁ~?と開いた口が塞がらない様子で、その上灯子さんまで頂いたコーヒーをむせ込んでしまってはちょっとしたパニックだったのではないですか。

 段階を踏まないいきなりのカミングアウトに上野さんのご両親はいやいやいや、えーっ、と首を振って、それからようやく腰を落ち着けました。エレナさんは、えっアイナってそっちの人だったの、と直截に聞いてから、いや、でもそうか、そうなのか、ごめん、と一人合点しました。混乱はそのようにして比較的短時間に収まると、マテアスさんと新南さんがこぞって上野さんに、どういう訳なのか、ちゃんと順を追って説明して欲しい、いきなり家族になりたいと言われても混乱してしまう、と言われたそうですね。混乱の中で一人鷹揚としていた上野さんは、ちゃんと灯子さんとの出会いから今までのことを順を追って整然と説明されたそうですね。話が進むに連れて上野さんのご家族は驚きから起きたことをちゃんと受け止める聞き方になってゆかれたというのは、小さくなって座っていることしかできない灯子さんにとってはどれほどの慰めになったことでしょう。しかしこのときの灯子さんはどれほど心細かったことでしょう、もしこのとき傍らにいたら私が必ず手を取ってあげましたのに。

 上野さんの説明が終わると、マテアスさんは頭を抱え、新南さんは口元を隠してうつむき、エレナさんは天を仰ぎました。やがて口を開いたのはマテアスさんで、まさかアイナに好きな人ができるとは思わなかった、父親としてはそれが何よりの驚きだと笑いながら言われたそうですね。新南さんもそれはそうだ、と同意されて、しかもそれが同い年の女の子だなんて、本当にびっくりした、と言われました。上野さんは、うちがそんなにお堅い家だった覚えはないけど、と微笑み返しましたが、その笑みには少し攻撃的な意図が感じられたそうですね。お堅いって、と新南さんは言いましたが、その続きの言葉が出てこず、大きなため息を一つ吐かれると、マテアスさんに向けて、ねぇマテアスさん、と話を振りました。んー、いや私はいいと思うよ、アイナが灯子ちゃんをいいって思ったのなら、と、マテアスさんはなおも笑いながら言われました。このときエレナさんが、別にアイナが灯子さんを好きになるのは自由だけど、家族になりたいと言われても、こっちはまだ灯子さんのことをなんにも知らないのに、アイナだけそのつもりでいられても困る、と口を挟まれたそうですね。それは今説明したでしょう、と言った上野さんに対して、新南さんも、灯子ちゃんと私たちのこれからの話をしてるんじゃないの、と諌められたそうですね。

 これから、という言葉が出てきたとき、上野さんはすかさず、それは私と灯子の交際を受け入れてくれるということかと確認して、家族全員の承認を得ました。仕方ないじゃない、アイナが好きになったのが灯子ちゃんなんだから、と言う新南さんにエレナさんも同調し、上野さんは、ありがとう、私を受け入れてくれて、と頭を下げたそうですね。灯子さんも合わせてありがとうございます、と深々と頭を下げて、その場の雰囲気が少し和んだところで、マテアスさんが、ところでアイナと灯子ちゃんはどういう形で家族になりたいと思っているの、と聞いてきました。上野さんはすかさず、灯子をお嫁さんにすると約束した、と答えたそうですね。上野さんの回答に勇気を貰った灯子さんも、私もアイナちゃんを素敵なお嫁さんにすると約束します、と宣言されたそうではないですか。さぞや顔が真っ赤になっていたのではありませんか。でも私は、灯子さんがそのように宣言される姿、きっと格好いいものだったと信じています。二人の真摯かつ単純な思いを今度は笑わずに受け止めたマテアスさんは、なるほどよく分かった、前途は多難だけど、今は二人を祝福しよう、と呼びかけて、新南さんとエレナさんにもそれでいいね、と確認なさり、お二人もそれに納得されたということ、今は素直にお喜び申し上げます。

 上野さんは灯子さんに向けて、そういう訳だから、灯子は安心してうちにお嫁に来て、と言われたそうですね。ただし卒業するまで六年間は待って欲しい、それまでにうちの家族と十分に仲を深めてからお嫁に来ればいい、とも上野さんは言われたそうで、灯子さんは果たして上野家の方々と上手くやっていけるか不安を抱かれたとのこと、当然のことと思います。どうしよう、お義姉さんと呼んだ方がよろしいかと聞いてくるエレナさんにも、頭を抱えてこの歳になって大きな娘が一人増えるなんて、とぼやく新南さんにも、そして努めて泰然とした態度を見せようとしているマテアスさんにも、そしてまだ見ぬ上野家の親族たちにも、灯子さんが抱かれた不安の大きさ、察するに余りあります。一体十六歳のカップルで、初対面にして交際の報告ばかりでなく、将来的な結婚の希望まで伝えたら、男女のカップルだったら頭を冷やせと言われるのが普通のところ、女同士のインパクトが先行して勢いで飲ませた感じがしなくもありません。それどころか娘の同性愛について、言わば上野さんのご家族から配慮されている状況で主張を押し通したとも言えます。その場の勢いと雰囲気で灯子さんを受け入れているだけで、後から拒絶や排斥を受けるのではないかと恐れるのも無理は無いことです。

 思えば灯子さんのお母様も、赤毛人の旧家のご出身で、一介のピアノ教師に過ぎなかったお父様とのご結婚に随分な困難を抱えた結果、ご実家とのご縁を殆ど断絶せざるを得なくなったと伺いました。そんなお母様を近くで見ていた灯子さんのことですから、上野さんのご家族との関係に不安を抱かれるのも無理の無いことです。それと同時に、私は灯子さんのご実家に上野さんをご紹介するときのことも心配でなりません。自分たちが苦労した分、娘たちにも寛容なのか、それともかえって「普通」の道を歩んで欲しいと反対されるのか、恐らくは灯子さんにしか想像がつかないことでしょう。今度は上野さんにも緊張の時が訪れることと思いますがそれはもう少し先の話ですね。春休みに帰省するついでに上野さんを連れていくのですか、それとも二回生になってから夏休みにでも連れていきますか。いずれにせよまずは上野家の方々にお嫁さんとして受け入れて貰えるように、そして卒業までにはアイナもいい加減早く灯子ちゃんをお嫁にしなさい、と言って貰えるように親しまれなければいけません。

 ちょうどお昼時になったので、新南さんは昼食の準備を始められ、灯子さんも手伝わせて下さい、と申し出て、一緒に台所に立たれたそうですね。私も手伝う、と申し出た上野さんは、三人もいらないから、と一度は新南さんに断られながらも、お母さんが意地の悪い姑にならないか心配なんだ、と言って、結局台所に張り付いて料理を作る様子を見ながら、未来の嫁と姑の話に加わってきたということですね。お昼はサーモンクリームのパスタで、灯子さんは上野さんに食材や調理器具の場所を聞きながらパスタに混ぜる具を作る役割を買って出て、新南さんは茹で具合や塩の加減にこだわりのある麺を茹でる役割を担いました。料理の間は専ら灯子さんの普段の暮らしぶりについて新南さんから質問があって、灯子さんと口を挟む上野さんで答えてゆく形で会話が進んだのですね。灯子さんは食堂で食べる週と自炊する週を分けてちゃんと料理をする習慣を作っているので、いいアピールポイントになったのではないかと思います。上野さんの家にある食材も調理器具も、灯子さんのご実家で使っているものよりワンランク高級なものであることに灯子さんは驚かれたようですね。私も姉の実家の方が少し裕福な暮らしをしていることを、冷蔵庫にある牛乳が加工乳ではなく高級な生乳であることなどから察して驚くことがあります。

 同じ台所に嫁が立つことを、自分の領域に他人が入って来たと考えて嫌う姑もいるとのことですが、新南さんはそのような狭量な人でなくて良かったというべきか、そのくらいは当然のことと考えるべきかは、私と灯子さんでは考えが分かれるでしょう。ともかくも、同じ台所に立ち、家族と同じ食卓を囲んだことで、一歩親密になれたような気がしたなら良かったです。灯子さんの手料理はまだ食べたことはありませんが、上野家ではそれなりに好評を得たようなら何よりのことと思います。恋は胃袋を掴むことからとは聞きますが、家族関係も食事を軸に回ることは間違いありませんから、ここで良い印象を得ておくことは大切でしょう。食後の後片付けも上野さんやエレナさんに手伝って貰いながら、灯子さんが率先して行ったということでよく気の利くお嫁さんに見えたのではないでしょうか。固定的なジェンダーロールが云々と言った問題をここで取り上げるべき必要も無いとは思いますので、言ってしまえば、お昼周りの灯子さんの立ち回りは気の利いたお嫁さんとして十分なものであったと思います。そこは心配せずとも大丈夫です、いいお嫁さんとして認めてもらえていると思いますよ。

 昼食後は上野さんの部屋で二人で過ごす時間を貰えたそうですね。二階屋根裏の上野さんの八畳ほどの部屋は、寮の部屋とは違って物は多いながらも、特に本は書棚を何杯も埋めるほどありながら、比較的整頓されたように見えたのですね。ベッドの足元にはチェロのケースが置かれ、この部屋の主が確かにチェロを弾くことを主張していたのですね。上野さんは灯子さんに椅子を勧め、自分はベッドに腰かけると、みんな灯子のことをまだ知らないというだけなんだ、不安にさせてしまったようで、申し訳ないのは灯子じゃなくて私の方だ、と言いました。確かに不安には思ったけど、それは私もアイナちゃんの家族とは初対面だからだもん、何度も会う内にきっとお互い分かり合えるはずだよ、それにしてもアイナちゃんったら、いきなり付き合ってるとか、家族になりたいとか言っても混乱するだけだよ、あと六年もあるんだから、もっと知り合うところから段階を踏まないと、と灯子さんも言いました。ごめん、灯子をなんて紹介するか考えたら、正直に話すことしか考えられなかった、と言う上野さんは、続けて、でも後悔はしていない、みんなにとっても、結局いつ伝えても驚いただろうから、あれで良かったような気もする、と言いました。

 その日は泊まっていく予定だったので、灯子さんの荷解きと来客用の布団の搬入を行っているところに、エレナさんがやって来て、私たちは立川に買い物に行ってくるから、家の中は好きに使っていて欲しい、そっちも出かけてくるなら、戸締まりはちゃんとしていって、と言われたのですね。上野さんのご家族から受ける配慮にややよそよそしさを感じながらも、二人きりで過ごせる時間を貰えたことに感謝して、二人はデートに行くことにしたのですね。灯子さんを自転車の後ろに乗せて、まずは通っていた小学校までの道のりを上野さんは漕いでゆきました。かつての通学路をたどりながら、上野さんは灯子さんに小学校時代の思い出話を色々となさったそうですね。上野さんは木の又から生えてきた訳でも無ければ、私たちと出会う以前の過去を持たない訳でも無い、普通の人間だということも私のような人間としてはともすれば忘れがちなので、髪の色や名前をからかわれたり、図書室では『ダレン・シャン』を借りて読んでいたり、好きな給食はチリコンカーンだったりといった俗っぽい話題に触れることで、上野さんの人間性を思い出すようにしなければなりません。

 小学校の外観を見物した後は、近くの府中市立博物館でミュージアムデートと洒落込んだそうですね。私はまだ行ったことがありませんがここも古建築の屋外展示をやっているところのようですね。写真も送ってくださってありがとうございます。灯子さんの興奮した筆致から、どれほど楽しんでいらっしゃったか伝わってきましたよ。一体美術館や博物館でデートするというのは、物に触れて感想を共有することで互いの理解に繋がって、非常に良いものに思われます。私と姉とのデートは、基本的に食べ歩きとお喋りに終始するので、今度そういった互いの理解に繋がるデートのあり方も試してみようかと思います。閉館まで市立博物館にいて、帰りは夕暮れの多摩川の土手を走ってきた由、青春を感じる一幕ではないですか。家に帰ってきたときにはまだ上野さんのご家族は帰っていらっしゃらず、お茶とお菓子で時間を潰していたところ、部屋の片隅にあった電子ピアノを見つけた灯子さんが、レッスン中のクララ・シューマンのソナチネを練習し出したくだりは、いつものお二人の自然な姿が想像されて微笑ましかったです。そして上野さんが講評して手直しなどしている内に、やがて帰ってこられたご家族の前でもソナチネを演奏されたのですね。音楽一家の前で演奏するのはさぞやご緊張なされたことでしょう、これが音楽的な意味での最初の挨拶になったのですから。

 演奏の後にはちゃんと拍手を頂けたようで何よりです。やる気になったマテアスさんが、夕飯の後に私たちも何か一曲演奏して差し上げよう、ショスタコーヴィチの七番なんてどうだろう、とご家族に提案されました。上野さんが同じショスタコーヴィチなら二番か九番がいいと主張されて、新南さんとエレナさんも二番に同意され、ショスタコーヴィチの二番を演奏されることになりました。遂に上野さんのチェロを聴けるということで、灯子さんは期待に胸躍らせたということですね。その場にいなかった身としては、生で聴けて羨ましくてなりません。夕飯の準備に取りかかったのはマテアスさんでしたが、灯子さんのお手伝いの申し出を固辞すると、アイナは灯子ちゃんと一緒にチェロの練習をしてて、お母さんとエレナは手伝って、と声をかけました。灯子さんは上野さんの部屋に戻って、今度は灯子さんがベッドに腰かけて上野さんに椅子を譲られたのですね。父はおせっかいで困る、正月以来弾いていないだけでそんなに鈍る訳が無いのに、とこぼした上野さんに対して、二人になれる時間をいっぱい作ってあげようってことだよ、と言わなかった灯子さんは全くいいお嫁さんになれそうだと言うものです。

 ケースから楽器を取り出した上野さんは、もごもごと、あまり高い楽器ではないから、音色は期待しないで、と言ってチェロを構えると、各弦のチューニングを始めました。弓が動いた瞬間に発せられたその音はなるほど確かに高級なものでは無かったのでしょう、ですが灯子さんがそこに豊かな響きと優しさを感じたのも決して間違いでは無かったはずです。チューニングを終えると、上野さんは間髪入れずバッハの無伴奏チェロ組曲第一番のプレリュードを演奏し始めたのですね。指慣らしの一曲ということで、お馴染みのフレーズをさらりとなぞるだけでしたが、それでも細かいアーティキュレーションがふんだんに盛り込まれた演奏に、上野さんの恵まれた才能と妥協しない性格とを見た灯子さんは正しかったと思います。シンプルが故に、上手い人が弾くと天上の音楽のような透き通った響きを持つこの曲ですが、上野さんの演奏はしっかりと地に足のついた地上人の豊潤さを感じさせたということで、途中からの動画を送って頂きましたが、ぜひ生で聴いてみたかったです。弾き終えると上野さんは一息吐いてから、あまり上手く飛べなかったな、と言うと、楽器を置いて書棚にある楽譜のファイルの納められた一角へ赴いて、ショスタコーヴィチの二番の譜面を取ってきました。私は地に足のついた今のアイナちゃんの方が好きだよ、と言った灯子さんは、今度は最初から動画に撮らせて欲しいと頼みました。

 楽譜を譜面台に広げて演奏を始めた上野さんの動きを携帯のカメラで追いながら、灯子さんはつい先日の国語の授業で教わったばかりの山月記の一節をふと思い出したのですね。「成程、作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、何処か(非常に微妙な点に於いて)欠けるところがあるのではないか、と」。上野さんのチェロの腕も十六歳のチェリストの中では第一流に属するのには疑いなかったのでしょう。しかしそれは上野さん自身が先程、あまり上手く飛べなかったな、と言った通り、それはどこまでも地上の技巧者の音楽であるように灯子さんにも感じられたということですね。それが上野さんに隴西の李徴のような尊大な羞恥心と臆病な自尊心のあるためとは私も思いません。言わば上野さんは努力でたどり着ける相当高度な領域に入っているのには違いありません。しかしその先の才能の領域に飛躍するにはあと一歩が及ばないことに自ら気付いてしまっているのが上野さんの悲しい限界を作り出してしまっているように灯子さんは思われたのですね。上野さんは弾きながら時折飛躍の兆候を見せましたが、それらは遂に兆しだけで終わってしまい、あるいはふらふらと羽ばたきかけては地上へと墜ちてしまったのですね。灯子さんはそこに上野さんがリセでなく、器楽科でなく、コンセルヴァトワールのプロデューサースクールを選んだ理由を見出したのですね。

 カメラを止めた灯子さんは、演奏を終えた上野さんの後ろに回って、楽器ごと上野さんを抱き締めたのですね。灯子はどうだった、となおも言葉を費やそうとする上野さんに、灯子さんは無言で頬と頬を寄せると、チェロの弦をぼんぼんと爪弾いてみせました。ごめん、つまらない演奏だったか、と落ち込む上野さんに、灯子さんはそうではないと言うように弓を構えるよう促したのですね。弦の上に指を置いた灯子さんを見てもなお察しの悪い上野さんに向けて、灯子さんは尻尾を伸ばし、その毛を赤く逆立てて見せました。灯子さんが指路の倣いを使ってチェロを弾こうとしていることにようやく気付いた上野さんは、四カウントを取ってから思いきって右手の弓を動かし始めました。先程と同じ曲を、素人の運指に合わせてたどたどしく弾いているだけのはずなのに、それはさっきよりもずっと一つ一つの音が正鵠を射抜いているように感じられたのですね。灯子さんの倣いは正解を導く倣いですから、上野さんのボウイングに合わせて弦の最適な箇所を押さえることぐらい訳ない話なのでしょう。それでも即興で上野さんに合わせて指を置いてみせるのは大層な芸当であるのに違いありません、ピアノを弾くために指を置くのとは全く勝手が違うことでしょうから。弾いている内に上野さんも勝手が分かってきて、弓に勢いが乗ってきました。上野さんが助走して跳躍するのに合わせて、灯子さんも上野さんを天上へと押し上げて見せたのでしたね。このセッションを動画に撮ることはできなくても、せめて録音して送って下さっていれば、と返すがえすも残念に思います。

 お二人の愛の調べが終わったのは、唐突なノックの音によってだったのですね。慌てて離れた灯子さんはドアに駆け寄って、夕飯の呼び出しに来たエレナさんに応対しましたが、その間上野さんは弓を構えながら恍惚として椅子に腰かけて、エレナさんの方に一瞥もくれなかったのですね。エレナさんは首を伸ばしてそんな上野さんのことを見やると、灯子さんに向けて、今のはアイナのボウイングでしたが、弦を押さえていたのはアイナではありませんでしたね、と図星を突きました。灯子さんがはにかみながら、いや~、これはほんのおふざけで、お耳汚ししてごめんね、と返すと、エレナさんは、お上手でしたよ、なんなら父と母の前でもやって見せて頂けますか、と平然と述べたそうではないですか。赤くなった灯子さんの肩越しに上野さんがエレナ、やめろ、と言わなかったらもう少しエレナさんにからかわれていたかもしれないということですね。夕飯はピッティパンナとサーモンのプディングを主菜に、青物のおひたしを副菜にして、ご飯とお味噌汁の付いた和洋折衷のメニューでした。食卓ではマテアスさんが灯子さんに、上野さんとは学校でどんな付き合いをしているか、とか、馬術部の活動はどんな具合か、など当たり障りの無い質問をして、灯子さんはそれに対して上野さんの魅力が伝わるよう一生懸命答えたのですね。マテアスさんは話の内容よりも灯子さんのことをじっと観察している様子でしたが、やがて話題も尽きると今度は上野さんに向けて灯子さんのことをどう思っているか、などを尋ね出したのですね。

 上野さんはそれはさっき話したはず、と言いつつも、再び灯子さんをどれほど大事に思っているか、淡々と恥ずかしがる様子も無く話しました。話を聞き終えると新南さんが、アイナが灯子ちゃんのことを好きなのはよく分かったけど、家族になりたいと言うのはまだ早いんじゃないかしら、知り合ってからは一年近く経っていると言っても、付き合い出してからはまだ一ヶ月も経っていないんでしょう、卒業まであと六年もあるんだから、その間にもっとよく考えなさい、と苦言を呈しました。灯子さんが相手の親からの苦言に恐縮している一方で、上野さんは、いやお母さん、灯子のことは家族になりたいほど好きと言うよりも、家族になりたいと思うから、付き合ったり、紹介したり、灯子と一緒に色々なことがしたくなるんだ、と少しずれた反論に出たのですね。上野さんは続けました。だからお母さんにも灯子のことを家族の一員と思って欲しいし、私も灯子の家族にその一員だと思って貰いたい、私たちは結婚という一対一の関係を超えて、上野家と鈴木家という二つの家族にそれぞれの一員だと思って貰いたいのだ、だからあまり灯子に厳しくしすぎないで欲しい、この場で私に向けて言うのは灯子に向けて言うのも同じなのだから、と。

 適応が早かったのは、一番先に食べ終わったエレナさんでした。私は灯子さんのことをお義姉さんと呼ぶことはやぶさかではない、と言うと、灯子さんの方を向いて、私のこともエレナでいい、と真顔で言ったのですね。へえっ、と困惑する灯子さんに、上野さんは、灯子は灯子でいいし、エレナはエレナでいい、と釘を差しました。アイナちゃんはアイナちゃんだから、エレナちゃんもエレナちゃんだよ~、と悲鳴を上げる灯子さんに向けて、今度はマテアスさんが、私のことをマテアスと呼ぶのはまだ早いかな、と冗談を飛ばされました。お父さん、ふざけてないで、と言われたのは新南さんで、食器を早々と片付けると、夫婦の寝室へとヴァイオリンを取りに行かれたのですね。さあ準備準備とマテアスさんが声をかけて食卓は片付けが始まりました。灯子さんは流し台に集められた食器を手洗いしようとして、上野さんにうちは食洗機があるからそれに突っ込むだけでいいんだと止められたそうですね。結局上野さんと一緒に食器を食洗機に詰めて回したときには、他の三人は既にチューニングを初めていて、上野さんは少し急いで二階にチェロと譜面を取りに行ったのですね。

 戻ってきた上野さんがポジションに付いて楽器を構えたところで、灯子さんは意を決して、私も一緒にピアノを弾かせてください、と頼み込んだのですね。灯子、クァルテットにピアノのパートは無いんだ、即興で伴奏を付けてクィンテットにするつもりか、と聞いた上野さんに、マテアスさんは面白い、いいんじゃないかと返されました。新南さんは折角聴いて貰おうと思ったのに、灯子ちゃんはそれでいいの、と渋りましたが、灯子さんが、私も音楽家の端くれです、皆さんと一緒に音楽できるなら、それに優る喜びはありません、と言われたのに押され、またエレナさんも灯子さんの参加に了承されたことで、即興のピアノ五重奏が行われることになりました。灯子さんは上野家の四人に向き合う形で構えると、尻尾を振るって毛を赤く逆立て指路の倣いを使いました。マテアスさんが四カウントを取ってから弓を動かしたそのタイミングで、灯子さんは鍵盤に目を走らせ、求めるものへと導く倣いの示す方へと迷わず指を乗せました。最初の和音は上手く噛み合いました。提示部の主題に乗せ、倣いの導いた動機を展開させつつ、技巧を誇示し過ぎてうるさくなり過ぎないように、クァルテットの音を聴きながら正解に至る道を何通り、何十通りと即座に探し求めたのですね。これが姉だったら音の響きを読んで理詰めで伴奏を構築するところ、感覚派の灯子さんもまた瞬時に可能性の糸を解きほぐし、最も探し求めるものを見つけ出すのに猛烈な努力を払っていること、馬術部二十四期のみんなは理解していますよ。

 灯子さんの伴奏を聴いて、灯子さんのことをよく知っているはずの上野さんを含めたクァルテットの全員が目の色を変えました。貧弱な電子ピアノの音にも関わらず、全員がこれに飲まれまいと抵抗を始めました。お蔭で灯子さんの幻視はますます計算が複雑になり、普通の即興よりも極度に集中力を必要とすることになりましたが、灯子さんはこのクィンテットを通じて上野さんのご家族に、自分もその一員として認めて貰えるよう実力を示してみせるつもりだったのですね。家族の一員としての調和と一人の音楽家としての独創とを両立させるのは、同い年のリセの学生であったとしても難しいことでしょう、それを灯子さんはやってのけようとしたのですから、倣いにかける問いかけも、幾十通りもの複雑かつ微妙なものにならざるを得ません。指路の倣いは灯子さんが何を望むかによって答えを変えてくる、だから本当に正解を導きたければ、まずは問いかけをきちんと発することが必要なのだと以前何かの機会に灯子さんは言っていましたね。このときの灯子さんの問いかけは、この演奏を通じて上野さんのご家族に家族として認められたいというものでした。その問いに対する回答は灯子さんの録音で聴かせて頂きました、ひりつくような緊張感をはらんだ、実に楽しく美しい三十六分間でした。灯子さんのピアノに止揚されて、最初はピアノに引っ張られないよう丁寧に譜面をなぞることで精一杯だったクァルテットが、やがてピアノに対抗して自己主張を始め、そして「ピアノとクァルテット」だった状態からクィンテットにまとまってゆく過程が活き活きと表現されていました。

 一般的に不気味、陰鬱、と評される第二楽章以降も、ピアノが入ったことでぐっと印象が変わりました。第二楽章のヴァイオリンの独奏部などはピアノの入る余地も無いようでいて、ピアノオーケストレーションの巧みさによってうるさくなり過ぎないように調整され、静かな映画音楽のような印象を受けました。第三楽章のワルツは反対に、クァルテットが激しく弾いている中、同じ熱量で飛び込むのではなく、一歩引いて伴奏に徹する加減が、ともすればクァルテットの圧力に屈した形になりそうなのを、出るところは出て引くところは引き、奇跡的なバランスでセッションが成り立っていたのが分かりました。第四楽章もそうです、私は音楽分析基礎論の単位すら落としかけたので詳しいことは言えませんが、この辺りになってようやくクィンテットが一体となって、お互いの仕掛けに反応する余裕が出てきた印象を受けました。それまではピアノとクァルテットが激しく対立していて、主に灯子さんが出るか退くかを調整して、灯子さんが出ればクァルテットは反発の機会を窺い、灯子さんが退けば一気に攻勢をかける雰囲気でした。それが、一人一人が有機的な連携を示すクィンテットになって、それぞれの音が粒立って聴こえるようになり、まるで最初からピアノが含まれていたかのように自然な形にまとまってきた印象です。印象批評は避けるべきですが、手元にスコアも無く、録音を一度聴いただけなので、こうした曖昧な言葉で表現することをお許し下さい。

 最終楽章のカデンツを迎え、ようやく長いセッションが終わったと思った途端に口笛を吹いたのはマテアスさんだったのですね。録音にはマテアスさんがブラヴィッシマ!と歓声を上げるところまで収録されていました。録音を止めた灯子さんがお耳汚し失礼しました、と言ったところで、楽器を置いた上野さんが駆け寄って灯子さんのことを抱き締めた瞬間、マテアスさんも、エレナさんも、そして新南さんも拍手で灯子さんの演奏を讃えたのですね。上野さんが流石灯子だ、疑って本当にごめん、最高のクィンテットだった、と言って灯子さんにキスをした途端、ひょっと奇声を上げたのはエレナさんでした。上野さんの家族の前でキスをされたことに、灯子さんは恥ずかしいやら嬉しいやらで混乱している内に、倣いを使いすぎたせいでお腹がぐうと鳴って更に恥ずかしいやらで大変だったようですね。上野さんが離れてから、二人で拍手を続ける上野さんのご家族に向かって頭を下げると、新南さんが涙を流しながら二人を順番に抱き締めてきて、本当に素晴らしい演奏だった、私は本当にいい娘たちを持った、と感嘆されました。エレナさんのことも抱き締めた新南さんは、お父さんも何か言ってあげて、とマテアスさんに話を振られたのですね。マテアスさんは、面白いクィンテットだった、私たちのレパートリーにピアノトリオやピアノクィンテットを増やすべき時が来たようだね、と仰ったのですね。

 上野さんのご家族にその一員として認めて貰えた灯子さんは、お茶とお菓子を頂いた後、一番風呂を回して貰ったのですね。上野さんの家のお風呂は脚がちゃんと伸ばせるほど広く、いつか上野さんと一緒にこのお風呂に入って背中を流し合いたいと妄想されたようで、経験者からは二人も入ると案外狭苦しいですよ、とだけ言っておきます。この辺りから文章に浮かれポンチなムードが漂い始め、甘くべたべたした内容になってきたのは、この先のことを思うと筆が乗ってきたからでしょうが、急に文体まで変わって器用なものだと感心すらしましたよ。上野さんが二番風呂に入っている間、上野さんのご両親と音楽談義に花を咲かせたり、エレナさんとコンセルヴァトワールの勉強について話したりしたことまでムードに乗せて書かれるのですから、灯子さんは私よりずっと文才に恵まれていることが改めて分かりました。上野さんがお風呂から上がって、歯を磨いてドライヤーもかけた後は、上野さんのご家族に挨拶して上野さんの部屋へと引き上げたのですね。まだ夜は早かったので、灯子さんは布団に寝転がって上野さんとお喋りしながら、携帯で私宛てにここまで話してきたようなことをDMで送ってきてくれたのですね。上野さんは、特にお母さんが灯子を家族と認めてくれて良かった、お父さんは私が好きだと言うなら文句は言わないだろうとは思っていたし、エレナは茶化しているようで適応が早いから、心配の種はお母さんだけだったんだ、と言って、灯子さんの左手を取るとふにふにと揉みながら、やっぱりさっきの灯子の演奏は凄かった、私はまだまだ灯子のことを知っていかなければいけないな、と感慨を漏らしました。

 灯子さんが携帯を置いたのは、日付を跨ぐ少し前のことで、私は姉との連絡をさばきながら灯子さん宛の返信も打っているところでした。明日に備えてもう寝よう、と上野さんに提案したときにはもう上野さんは半分寝ているようなうとうとした状態で、話しかければ返事はしますが、放っておくと規則正しく寝息を立てているのでしたね。電気消すよー、と声をかけると上野さんはうーんと唸って、ちょっと待って、と言うとむくりと体を起こし、床に敷いてあった灯子さんの布団に潜り込むと、いーよ、と言われたのですね。アイナちゃん、一緒に寝るのはいいけどベッドで寝よう、と灯子さんが笑いながら言うと、上野さんは不服そうにまたむくりと起き上がってベッドの窓側に寝転がり、どーぞ、と、これ以上文句は付けさせないぞ、と言わんばかりの態度で言ったのですね。電気を消して灯子さんがお邪魔しまーすと声をかけて布団に潜り込むと、すぐに上野さんが脚を伸ばして灯子さんの脚を絡めとり、頭を胸元に抱え込んで灯子さんを抱き枕にしてしまいました。愛する人に全身で抱き付かれて灯子さんは眠りに就くどころでは無くなり、高鳴る鼓動を感じながら、それが上野さんに肌から肌へ伝わらないよう、腕を間に挟んで、努めて距離を取るので精一杯だったのですね。

 上野さんはそれが不服だったのか、しばらくすると灯子さんを抱いたまま仰向けに寝返りをうって、灯子さんを自分の身体の上に寝かせる形を取りました。灯子さんは思わず上野さんの両脇に手を突くと、胸に顔を埋めるのを避けようとしましたが、上野さんは灯子さんをぎうと抱き締めて、その顔を自らの胸に深く埋めてしまいました。これまでにも何度か灯子さんと上野さんは一緒に寝たことがおありだということですが、それらは単純に添い寝したり、手を繋いだり、あるいは上半身だけで抱き合ったりといった具合で、今回のように濃厚な接触は初めてのことだったのですね。むーむーと悲鳴を上げてみせた灯子さんに対して、上野さんは更に膝を立てて灯子さんの脚を割ってみせると、蕩けた声でとうこ、と呼んでみせました。灯子が私の家族になってくれて、本当に嬉しかった、お母さんの気持ちも変えてみせるなんて、灯子のピアノは魔法みたいだった、灯子はすごい、と上野さんが言ったので、灯子さんも上野さんの胸から顔を上げると、私が変えたんじゃなくて、みんなで一つの家族になろうって思ってくれたからこそだよ、と返しました。今度はアイナちゃんが私の家族になる番だね、楽しみにしてるよ、と灯子さんが言うと、上野さんは、私は灯子の倣いみたいなものがないから、チェロでピアノ曲に即興をさせられるのは困るな、と返しました。灯子さんは、じゃあ何をやってもらおうかな~、と言いながら身体をずり上げて上野さんの正面に向き合われました。

 灯子が望むなら、私にできることは何でも、と上野さんは言うと、立てていた膝を下ろし、再び灯子さんを抱き枕にしたのですね。ただし今度は灯子さんの顔が正面に来ているので、抱き締めると上野さんは頬ずりして灯子さんに甘えつきました。灯子さんは上野さんの背中に手を回して、さすさす背中をさすり始めると、上野さんはんんっと気持ち良さそうな声を上げました。灯子さんは上野さんのシャツの中に手を入れると、滑らかな肌に直接指を走らせたのですね。撫で回している内に上野さんの息がどんどん速くなって、灯子さんの下で身じろぎし出すようになると、灯子さんの呼吸は逆に深くなってゆくのが分かったのですね。そうして上野さんが我慢できないといったように灯子、とうこ、と呼びかけ、三度目が上手く発せないで嬌声に飲み込まれていったとき、ようやっと灯子さんは我に返って、目の前の上野さんに自分が何をしたかをまざまざと見せつけられることとなりました。え、まさか、と思った、じゃないんですよ灯子さん、聞いたところでは世の中にはキスだけで十分な人というのもいらっしゃるそうですから。うっかり事故で一歩先に進んでしまった間抜けなカップルだなどと卑下しないで下さい、私と姉だって別段誇れるような形ではなかったのですから。

 あ、あの、ごめんねアイナちゃん、と戸惑いながら言った灯子さんに対して、上野さんは真っ赤になった顔を隠しながら、灯子は私に意地悪するの、と小さな声で言ったのですね。そんなことないよ、私はいつでもアイナちゃんに優しくしたいと思ってるよ、と、少しずれた答えをした灯子さんに向けて、上野さんは、だったらお願い、優しくして、と言って濡れた瞳で灯子さんを見据えたのですね。ようやっと上野さんが言っていることの意味が分かった灯子さんは、あまりの愛らしさ、愛おしさに、思わずキスをしたのですね。互いに唇を食み合い、上野さんが受け入れる姿勢を示すと、唇を割って舌を伸ばし、その間も上野さんの身体の形を確かめるように手を触れ、撫ぜることを止めなかったのですね。灯子さんが胸に手を伸ばしたり、ハーフパンツの裾から手を差し込んでみたりすると、上野さんは普段からは想像もできないような愛らしい嬌声を上げました。さて、ここからの描写は灯子さんの文才で実に真に迫ったものだったので、これまでのように逐語的に振り返るのは止しましょう。正直に言って、灯子さんからの手紙を読んでいるだけで姉の部屋まで行きたくなって、この手紙を書いているのは姉の下から帰ってきてすぐなのですよ。聡明な灯子さんなら私が言いたいことにこれ以上の説明は要さないでしょう。灯子さんの一言一言をこれまで丹念に拾い上げてきたのは、灯子さんの書く文章に感銘を受け、それに対する敬意を表するためでした。感情を行動に細やかに乗せ、簡潔でありながら情緒深く表現された灯子さんの文章を、私の手紙では半分も拾い上げられなかったに違いありません。

 それが灯子さんの筆が乗り、更に細やかかつ活き活きとした描写でこの先の交渉を書かれては、どうして私の筆でこれを拾い上げることができましょう。私はこの場面については到底筆が及ばないことを理由に、書かない、という選択で敬意に代えさせて貰うことにします。というか、灯子さん筆が乗りすぎです。私と姉の初夜についても私の筆が及ぶ限り、相当ぼかして書いたというのに、灯子さんの文才にかけて一切の遠慮が無ければ、まるでポルノグラフィーです、読んだことはありませんが。そもそも、初めて訪れた恋人の実家で初夜に臨むなんて、灯子さんもなかなか大胆なことをされるではありませんか。私が姉の実家で、というのとは理屈も勝手も違いすぎるでしょうに、よくもまあ緊張も遠慮もせずに行為に臨むことができたものですね。同じ二階にはエレナさんが、直下の部屋には上野さんのご両親が寝ていらっしゃるというのに、本当によく声の出ることをする勇気が出たというものです。いえ、上野さんは声が小さかったとか大きかったとか、そういうことを知りたかった訳ではありません。ともかくも私が思っている以上に大胆で勇気のある方だった灯子さんには、今度お赤飯でも炊いてお祝いして差し上げますよ。そして行為の終わった後は、どちらともなく裸のまま抱き合って眠りに就かれたのですね。

 翌朝目が覚めたとき、最初に灯子さんの目に入ったのは、シャワーを浴びて戻ってきた上野さんの姿だったのですね。時刻は朝の七時で、日曜日なのでまだ誰も起き出していない隙を狙って上野さんはさっとシャワーだけ済ませてきたのですね。おはようアイナちゃん、と挨拶した灯子さんはすぐに、ドライヤーかけたげよっか、と上野さんに聞いてみたところ、音がうるさいかと思って、これを持ってきた、とヘアアイロンを差し出されたのですね。それで灯子さんは上野さんの髪を乾かしながら、昨日のアイナちゃんったらとっても可愛かったよ、と話を振ってみたところ、上野さんはうつむきながら耳を真っ赤にして、昨日の私は変じゃなかったか、と不安そうに聞いてきたのですね。え~、全然変じゃなかったよ~、可愛かったよ~と宥めるように言った灯子さんの方を少し振り向くと、上野さんは、灯子は何でも可愛い可愛いと言うから、私は自分が分からなくなる、とぼやき、もし私が可愛いと言える歳では無くなっても、灯子は私のそばで一緒にいてくれる、と聞きました。アイナちゃんはおばあちゃんになってもきっと可愛いよ、と灯子さんは言うと、ヘアアイロンを置いて後ろから上野さんをあやすように抱き締めたのですね。そして赤毛人の私はきっと先に死んじゃうから、アイナちゃんにお墓参りして貰うんだ、と冗談めかして言ったところ、悲しいこと言わないで、と上野さんも返しつつ、おばあちゃんになるまでずっと一緒にいられたら、それはきっと素敵なことだと言ったのですね。

 上野さんの髪を乾かし終えて、朝ごはんを食べに一緒に下に降りたところ、マテアスさんが眠そうな顔で目玉焼きを焼いていたのですね。上野さんは挨拶もそこそこにあ、ずるい、私と灯子の分も焼くから置いておいて、とマテアスさんに言うと、冷蔵庫からベーコンと卵を二つ出して調理台の上に置きました。マテアスさんはお茶碗にご飯をよそうと、その上に目玉焼きを乗せて食卓に向かいました。上野さんはパンを二枚トースターに入れてダイヤルをひねるとベーコンを焼き始めました。灯子さんが何か手伝おうか、と聞くと、じゃあ灯子はコーヒーを淹れてくれる、と言って、食器棚の中のコーヒー豆とドリッパー、ポットにコーヒーフィルターを出して調理台の上に置きました。灯子さんが電気ケトルでお湯を沸かしているところに新南さんも起きてきて、今日は洗濯する日だけど出すものはある、と聞きました。灯子さんは洗濯物は持って帰るつもりでしたが、新南さんがうちのは乾燥機も付いているから、と強く勧めたこともあり、一緒に洗濯して貰うことにしたのですね。朝から洗濯機を回す音が響く中で、お二人が朝ごはんを食べた終えた頃にエレナさんが眠い目をこすりながら起きてきて、上野さんは、エレナ今日は早いじゃん、遅いけど、と言って、エレナさんは、灯子さんがいるのに昼過ぎまで寝ていられないじゃん、と返されたのですね。灯子さんはこうした上野さん一家の朝の光景に、自分がその一部となって関われていることに小さな幸福を覚えたのですね。それは即ち昨日のセッションを経て、灯子さんが上野さん一家の一員として認められたことを意味していたのですね。

 乾燥機が回り終えると、みんなで洗濯物を畳んで、それから今日はどうするかという話になったのですね。灯子さんと上野さんはそれぞれのフラテの仕事もあるため、午後三時過ぎには上野さんの家を出なければなりません。それでむしろ府中の周辺をうろうろするよりも、上野さんの案内でみんなで横浜に行こうということになったのですね。そうと決まると上野さん一家の行動は速く、灯子さんが一番準備に時間を食ってしまったのですね。五人でサーブのセダンに乗り込むと、午前十時過ぎには家を出ることができました。新南さんがカーディガンズのCDからピチカート・ファイヴの『Overdose』に交換して、「ハッピー・サッド」がかかり始めた頃に中央道に乗りました。CDが一周する頃にはベイブリッジを渡って横浜に入るところで、上野さんが知った顔でほらあれがランドマークタワー、あれが大さん橋という風に横浜の名所を紹介していたのですね。横浜に来るのなんてアイナの入学式以来じゃない、と言う新南さんに対して、エレナさんは、私それ行ってないから横浜に来たのは初めてかもしれない、少なくとも十年は行ってないはず、と返されたのですね。車は関内の出口で高速を降りると、横浜公園の脇を抜けて中華街の西側から北側に向けて走りました。マテアスさんはKAATの横の駐車場に停めて降りると、ローズホテルの脇から中華街の中へと携帯のナビに従ってずんずん歩いていったのですね。灯子さんは上野さん一家の列の最後尾についてぞろぞろと歩いていったところ、上海路と関帝廟通りの交わる辺りにある「蓬莱軒」という小さな北京料理店に着いたのですね。

 お昼には少しだけ早い時間でしたが、朝ごはんもエレナさんを除いては早かったのでちょうどよくお腹も空いてきた頃で、そこでみんな酸辣湯麺と蒸し餃子を食べたのですね。マテアスさんは適当に検索して餃子が美味しそうだった店だっただけで、ここへ来るのは初めてだったということでしたが、案外当たりの店を引いたので、また来たいねということになったのですね。食後再びこの後どうする、という話になって、エレナさんが、私は山手の西洋館を見てみたい、と言ったので、車で港の見える丘公園の前の駐車場に移動してイギリス館から攻めることにしたのですね。灯子さんは横浜に来てすぐに一度山手の西洋館巡りをしたことがあるということで、上野さん一家を先導して案内する形になったのですね。話せるほどの知識も無くて部屋を巡っては綺麗ですね~とか可愛らしいですね~とかいった感想しか言えなかったのが恥ずかしかったということですが、横浜出身の私だって大したことは言えないので、大垣出身の灯子さんなら相槌が打てるだけでも大したものでしょう。一一一番館から気象台と外人墓地を眺めて二三四番館を見て、エリスマン邸までを続けて見たところで、えの木ていで一休みしたのですね。外のテーブルで少し早いアフタヌーンティーをすすりながら二段スタンドに乗ったスコーンとサンドイッチをつまみつつ、マテアスさんと新南さんは新婚旅行で行った神戸北野の異人館の話をされていたのですね。私は常々中華街も西洋館も、神戸や長崎にもあるものをわざわざ横浜まで見に来なくてもいいものを、と思っているのですが、その点実際に見たことのある人だと意見が違うのでしょうか。

 ベーリックホールからイタリア山までは少し距離がありましたでしょう、その間にカトリック教会なんかも通り抜けられたようですが、そこから脇に入って山手公園まで行っていれば、そこにも今は公園事務所になっている旧山手六八番館という西洋館があったのですよ。山手公園には他にもテニス発祥記念館という小さな博物館がありますが、それは私たちと同い年の新しい建物です。寄らなかった公園の話はともかく、歩いている間にマテアスさんや新南さんと古い建物を見るのが好きという話で意気投合できたということで、またマテアスさんと新南さんは昨日の近江八幡のヴォーリズ建築の話の続きで、それらを実際に見に行ったことがあるということで、舅、姑とのコミュニケーションが良好に図れた様子、私もお喜び申し上げます。外交官の家は特にエレナさんもお気に召した様子、ブラフ一八番館も小さくて可愛らしいのですが、霞んでしまわなかったか少し心配です。ここまでで大体午後三時過ぎで、後二時間ほど余裕がありましたので、最後に上野さんと灯子さんから根岸の競馬場を案内することにしたのですね。車で向かえば十分ほどで、昨日は競馬の開催が無かったので、駐車場にもすんなり入れたということですね。競馬発祥記念館と馬の博物館を見た後で、昨日、一昨日と大学部の先輩方が練習している馬術馬場に向かうと、ちょうど今度の大会に向けた障害馬術の練習をしているところでした。嶋田さんや及川さんに声をかけて練習を見学させて貰うことにすると、及川さんは灯子さんに、遂に上野家もご公認って訳?と茶化して来たので、灯子さんは正直にいや~実はそうなんですよ~、と答えたところ、及川さんは冗談だと思ったのか嶋田さんや他の先輩方の間にこれを言い触らし始めました。

 お蔭で練習が終わる頃には、半ば冗談と思われていたとはいえ、上野さんと灯子さんの付き合いが上野さん一家の認めたところであるという情報が馬術部の大学部全体に広がりました。クールダウンの輪乗りで先輩方が灯子さんの前を通り過ぎる度に、冷やかしと祝福の言葉を交互に投げかけられるのが恥ずかしかったということですが、悪い先輩たちだな、とは思いつつも、灯子さんも満更ではなかったのではないかと思わざるを得ません。結局は自分で言い出したことですから、むしろ恥ずかしかったのは上野さんとそのご家族だったのではないでしょうか。上野さんはご家族と一緒にいたからか祝福の言葉しかかけて貰っていなかったようだというのはあくまで灯子さんの観測であって、内心の点はどうだったのか、ちゃんと今日明日でもいいので確認しておいた方が後の関係のためにもよいのではないでしょうか。練習を見学された後は上野さんのご家族も校門まで見送りに来て下さったそうで、その間も少しの間話す機会を頂けたようで何よりです。新南さんからは、今度はアイナを大垣まで連れていって欲しい、ちゃんと灯子さんの家族に挨拶させてやって欲しいと頼まれたそうではないですか。私は無論そのつもりだけど、と口を挟んだ上野さんに向けて、新南さんは、誰が新幹線代出すと思ってるの、と言い、お母さんが出さなければ私が出すよ、とマテアスさんが拾う流れも、会ってまだ一日にしかならないというのに、灯子さんには自分の家族がするように親しく感じられたのですね。

 そんな新しい家族とも別れの時がやってきて灯子さんはマテアスさんとは固く握手して、新南さんとは抱き合って、エレナさんとはちょっと遠慮がちに手を挙げて別れの挨拶としたのですね。またいつでも遊びに来ていいからね、というマテアスさんの言葉に、灯子さんは次からは最初から嫁として参ります、と返されたのですね。嫁だなんだなんて気にしないで、もう娘の一人だと思ってるんだから、と言ったのは新南さんで、私ももう姉の一人だと思っている、と言ったのはエレナさんでした。上野家の方々の暖かい言葉に送られて、上野さんと手を繋ぎながら寮の部屋に向かう途中、角を曲がって見えなくなったところで上野さんは、灯子は私の家族のことを好きになってくれたか、と聞いてきたのですね。もちろん、お父さんもお母さんも、エレナちゃんも大好きだよ、私こそ家族として認めてもらえて良かったな、と答えた灯子さんは、でも私は、例え今回アイナちゃんとの付き合いを認めてもらえなかったとしても、アイナちゃんのことは嫌いにはならなかったよ、と言ったのですね。それを聞いて上野さんは、良かった、安心した、と言って、でも私の家族だもの、きっと反対はしないと信じてたから、灯子を紹介するときも、これまでの付き合いについて話すときも、不安は一切無かったんだ、と返されたのですね。あのときのアイナちゃんはかっこよかったよ、と言って灯子さんは上野さんの顔を見上げると、上野さんは誇らしそうに口角を上げたのでしたね。

 二人で寮の前まで来ると、じゃあフラテの活動もあるから、ということで、また明日、と抱き合って別れ、灯子さんは部屋に戻ってからフラテの事務所に向かったのですね。再び部屋に戻ってきたのは午後七時前で、そこから私に手紙を書き始めて、夕飯とお風呂を挟みつつ十二時前に書き上げると、私の部屋まで投函してからお休みになったのですね。今回も詳細なお手紙をありがとうございました。私の振り返りでは到底拾いきれていない繊細な心理描写によって、その時々の灯子さんの感情が手に取るように伝わってくる、素敵なお手紙でした。あんまり素敵なので、今まで逐一灯子さんの行動を中心に振り返って見たくなるほどでした。書きながら噛み締めるように読む度に、改めて灯子さんの文章の巧さを感じると共に、灯子さんの上野さんへの想いが溢れて、歯の間に砂糖がざりざりと詰まるようでその甘さにもたれそうになりました。一体私に向けて書いたような言葉を上野さん相手の恋文にも書いていらっしゃるのですか。灯子さんが上野さんに恋文を書いたという話は聞いたことがありませんが、もしや付き合い始めて一ヶ月、一度も恋文を書いていないというのではありませんか。書いた方がいいですよ絶対、灯子さんの上野さんへの想いを言葉にして伝えた方がいいに決まっています。いえ失礼しました、灯子さんは手紙にしなくても上野さんと言葉を交わせるのでしたね、ならば対面でも電話でもぜひ沢山話して下さい。けれど、一度も恋文を書いたことがないというならば、書いた方がいいというのは本当です。溢れる想いを文章にしてまとめるのが灯子さんはお得意ですから、上野さん相手にも糖分高めの手紙を書いて送ることができるでしょう。

 正直に言って私は、私と姉とがロールモデルになって、友達同士のままで良かった二人を無理矢理色恋の世界へと追いやってしまったのではないかと不安でした。ですがお二人がこれほど仲睦まじくしているのを見ては、そうした不安も、やれモノガミー規範に回収されてしまっただの、異性婚規範を内面化してそれに適合的な家庭制度を志向しているだのといった批判も吹き飛んでしまいます。最近批判的クィア理論に関する本を読みかじったせいで、そういった批判に敏感になっているところがあるのですがお二人がこれほどまでに見事に王道を歩んで行く姿を見せられては、より周縁化された性のあり方であるはずの姉と私からも祝福の言葉しか考えられないくらいです。端的に言って私たちは音楽と馬術という中産階級以上の生活が保証された上で初めて臨める道楽で繋がった恋人たちであって、性政治の中では、性的多数派にも受容されやすい、悪く言えばより不利な立場にある性的少数派をより周縁化して特権化された身体を得る存在であることを意識せざるを得ません。その中でも私と姉とは近親であることから、灯子さんと上野さんのように家庭を築くこともできませんので、どちらかと言えばより周縁化された存在ということになるのでしょうがかといって反婚、反家庭的視座に立つ訳でもありません。なかなか話がまとまらなくて恐縮なのですが、ともかく私たち姉妹はお二人がいつか家庭を築くことを祝福しています。卒業まで六年かけてゆっくりと家族を巻き込んだ付き合いに育てていって、こんなことを言うとまた資本主義に無批判だとかの批判がありそうですが、結婚式でも挙げるなら友人代表でスピーチしますよ。一体誰の目を気にしているんだという話ですが、一度そういった批判に触れてしまうと、もう意識せずにはいられません。

 一体家庭というもの、結婚というものは、クィア左派の理論の中ではとかく批判されがちなものですし、そうした批判に答えることなく漫然と家庭を築くことも最早できないだろうというのが影響を受けやすい私の今の感覚なのですが、灯子さんと上野さんの幸せそうにしている様子を見て、そんな水を差すようなことも言えず、かといってお二人が結婚や家庭に対して漫然と構えているなどとは毛ほども思っていないのも本心です。それどころか、お二人がどのような家庭を築くのか、最前列でその全てを見ていたいと思うくらいです。ですので灯子さんがもしよろしければ、今後も糖分高めのお手紙で近況報告を頂けると幸いに思います。一体何が言いたいのか分からない、批判したいのか宥めたいのか分からない手紙となってしまい申し訳ありません。少なくとも言えるのは、私はお二人の幸福を誰よりも祈っている一人だということであり、お二人の恋路を邪魔する者あらば、猛然と蹴りに行く馬にならんと思っている一人だということです。お二人のまさに「理想的」な性的少数者としてのあり方、「良いクィア」として例外的に特権的な身体を得ている可能性に対して意識的でありつつ、私はより周縁化された身体を持つ者としての視座を有し、しかもお二人の恋路を応援するのは矛盾の塊です。ジェンダー理論、クィア理論には私のこうした矛盾も受け止めて、良い者悪い者、賢な者愚な者を二分法的に単純化する力に抗する魅力があると、私の読んだ本には書いてありました。その言葉を真に受ける訳でもありませんが、私たちの恋のあり方が社会的にどう位置付けられるかについての批判的視座を有しつつ、普段はそれを意識せずに自分たちの幸せだと思う方を選んでいき、ふとしたときに少し思い出して選択の指針にして行くぐらいがちょうど良いのかもしれません。

 最後は少し説教臭い感じになってしまって、何様だという思いは私の方でも重々感じています。此奴遂に狂ったか、恋愛を理論で捉えようとし始めたら終わりだぞ、と思われた方がまだ気楽というものですので、灯子さんとしては何言ってるんだこいつはガハハ、ぐらいに気にも留めないで頂けると助かります。柄にもなくスペキュレイティブな展開に走りそうになってしまったものの、上手く展開することもまとめることもできず、やはり慣れないことはするものではありません。こういうとき姉や上野さんのように頭のいい人だったら、理屈を噛み砕いて修辞に混ぜることも容易なのだろうに、私の知恵の無さがともかくも悔やまれます。灯子さんだって文章がお上手ですから、理論について話したい時はそれに見合った書き方を選択されることができるでしょう。私一人が文章を書くのが下手で、聞きかじった知識を聞きかじったように散らしてはまとまらないのは悲しいことです。いつか灯子さんには文章指南のつもりで付き合って欲しいと言ったのを覚えていますが、一向に私の手は上手くならず、却って灯子さんの文章ばかりが磨かれて行くのを見ては羨ましさに指をくわえるばかりでした。要するに私は灯子さんや上野さん、姉のことが羨ましくてならない一介の物書きに過ぎないのであり、その癖してどうすれば文章が上手くなるのか考究もしない、ものぐさな娘であるということです。

 様々な点で、私は灯子さんのことが羨ましくてなりませんが、それはしかし私が灯子さんのようになりたいということと同義ではありません。私は私の、灯子さんは灯子さんの幸せを掴むべきなのであり、それはきっとそれぞれが相手との関係で解放されるというよりは依存し合うこと、束縛を強めることで目指されて行くものなのでしょう。少なくとも私は姉とのモノガマスな関係を志向して行くつもりであり、灯子さんと上野さんもいわゆる「最小の結婚」論者ではないと考えています。今日も長い手紙にお付き合い頂きありがとうございました。今年度中は次回が最後のやりとりになるでしょうか。私たちもいよいよ二回生ですね。詳しいことはまた次回お話ししようと思いますが、後輩ができたり、周りからコンクールに出始める学生が多くなったりと、大きな変化が訪れる時期です。私も灯子さんも、休むときには思いきり休む不真面目な学生なので、コンクールなどはまだ先の話になるような気もしますが、ぼちぼち頑張っていきましょう。とは言いつつ、実は来年度のコンクールをいくつか見繕っている私です。ピアノは姉に頼むつもりですが、灯子さんが良ければ、コンクールの練習として一緒に舞台に立つことも考えてみては頂けませんか。文章にするとかなり上から目線な言い方になってしまうのが恐縮なのですが、そういう意図は全くありません。全くお恥ずかしい限りです。貴重なお時間をドブに捨てる気持ちがおありであれば、ぜひ私の手紙に赤ペンを入れて文章のご指南を賜りたく思います。最後まで図々しいお願いをして末節を汚したところで、筆を擱かせて頂きます。明日もまた部活で会いましょう。


 匆匆頓首


 三月九日


 新座秀子より



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