次元を越えて来た賢者と飢えた少女
次元門が開き、一人の男が向こうから現れた。
男は急いで次元門を越えて来たようで、地面を一回転した後、片膝を立ててそれ以上転がらないように体を止めた。
若く整った容姿の青年だった。
年齢はおよそ二十代前半から半ばほどに見える。
「コール。ゲート解除。」
男は次元門を越えるや否や、急いで次元門を閉じた。
閉じていく次元門の向こうからは、まるで男を追いかけてくるかのような人々の姿と喧騒が聞こえてくる。
しかし男は未練なく次元門を閉じた。
「ふぅ……しつこい連中だ。最後まで油断できないな。」
そう言いながら男は立ち上がり、体についた埃を軽く払った。
「すぅーっ。」
そして空気を思いきり吸い込み、気持ちよさそうに息を止める。
「ふぅーっ。」
肺いっぱいの空気を吐き出した後、周囲の世界を見回した。
「コール。大地の精霊。」
男は再び呪文を唱える。
「ボン!」
すると男の隣に大地の精霊が姿を現した。
「大地の精霊がアルカノスの賢者様にお目にかかります。エレダースの世界へようこそお越しくださいました。」
明らかに初対面であるにもかかわらず、精霊は男に対して最大限の礼儀を尽くした。
「そんな必要はない。それより、ここはエレダースという名の世界なのか。なるほど。」
男は大地の精霊から教えられたエレダースの世界を改めて見回した。
「それなら私の名前はレダースだ。この世界にいる間は私をレダースと呼んでくれ。構わないだろう?」
自らをレダースと名乗りながら、レダースは大地の精霊へ視線を向ける。
「はい。仰せのままに。」
大地の精霊はそう言うと静かにその場から姿を消した。
「そうか。また今度会おう。」
レダースは去っていく大地の精霊へ親しげに手を振った。
「まずは村を探してみるか。」
「コール。ファインド。」
レダースが呪文を唱えると、レダースの前に周辺の地形が表示された。
検索条件を「村」に設定すると、案内線がずっと北西方向へ伸びていく。
そして、その延長線の終点に村の名前が表示された。
「うん。一日か二日ほど歩けば着きそうだな。まあ、時間はたっぷりある。」
別に急ぐ必要はなかった。
レダースは上機嫌で鼻歌を歌いながら、ゆっくりと村の方向へ歩き始めた。
ゆったりと歩いているうちに時間は流れ、まだ森の中にいたレダースの頭上で日が沈み始める。
「野宿は肌に悪いからな。」
しばらく夕焼け空を眺めていたレダースは呪文を唱えた。
「コール。オティウム・アルカ(レダース専用別荘)。」
呪文を口にすると、レダースの前に次元門が現れ、自動的に扉が開く。
レダースはためらうことなく次元門の中へ入っていった。
そして森には夜が訪れる。
深い森の暗い夜が危険なのはどの世界でも同じである。
闇の中で獣の瞳が素早く光っている。
生きた獲物を狙う野獣たちの目だった。
特に、魔法を秘めた石である魔法石を食べて魔法を習得した獣は、さらに危険だった。
そして、普通の獣と区別する意味で、魔法を習得した獣は「魔獣」と呼ばれていた。
たとえ知性を持つ存在ではなく、魔法そのものを理解する水準には達していなかったとしても、魔法を習得した獣は魔獣と呼ばれ、少なくとも獲物を狩る際に自分が習得した魔法を使う程度のことはできた。
魔獣が徘徊する夜、とりわけ月明かりさえない暗い夜には、野獣でさえ生き残るために、自分たちより上位の捕食者である魔獣から逃げる。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ。」
一人の少女が、死力を尽くして走っていた。
しかし少女の努力にもかかわらず、四足で追ってくる魔獣との距離は縮まり続ける。
広大な森の中で、魔獣が少女と出会う確率は本来非常に低かった。
そのうえ魔獣から見れば、周囲には美味しそうな獲物がいくらでもいた。
わざわざまずい肉に手を出す理由はなかった。
それにもかかわらず少女が魔獣に遭遇したのは、ただ運が悪かったとしか言いようがない。
森に住む獣たちも、魔獣の脅威をよく知っていた。
そして基本的に、魔獣への対処方法も知っていた。
魔獣が現れた時、森で最も弱そうな犠牲者を魔獣の前へ追い立てるのである。
そのため森に人がいない時は獣の中から選び、人がいる時はその人間を追い立てた。
今回はちょうど少女が森におり、その少女が犠牲として選ばれたのだった。
森に住む獣たちにとって、誰が犠牲になるかなど重要ではない。
ただ魔獣から身を隠すための時間さえ稼げれば、それで十分だった。
少女は走りながらも、魔獣との距離を確認するために何度も後ろを振り返った。
しかし暗すぎて何も見えない。
だが、それは少女の思い込みだった。
少女はすでに真後ろまで迫ってきた魔獣を見ていた。
それでも彼女の目は魔獣を見ることを拒絶した。
そして頭の中から魔獣の姿を消し去った。
そうでもしなければ、恐怖のあまりその場に座り込んでしまいそうだったからだ。
少女は走り続けるために、頭の中で絶えず都合のよい嘘の情報を作り出していた。
少女は、まだ魔獣との距離があると信じたかった。
しかし現実には、次の瞬間には魔獣の牙が少女の肩に届こうとしていた。
「ガキッ!」
魔獣が口を閉じる音が響く。
しかし少女は、自分の肩を噛まれた感触を感じなかった。
「グルァァン! グアアアアッ!」
魔獣は不快な響きを残すと、そのまま別の獲物を探して森の奥へ走り去った。
逃した獲物への未練はなかった。
森には魔獣の獲物があふれていたからである。
魔獣はすぐに別の獲物を察知し、暗い森のどこかへ向かって全速力で走り始めた。
「警告。侵入者発生。戦闘ゴーレム起動。」
明るい空間の中で案内音声が響いた。
その音に驚いた少女は、走っていた勢いのまま足をもつれさせ、前へ倒れ込んだ。
「いたっ!」
少女は地面にぶつかった痛みに悲鳴を上げる。
少女は実に見事な転倒を披露し、床にまっすぐ張り付くように倒れた。
そして動かない。
少女は次元門を通ったことで急変した状況に適応できなかった。
こうして自分で驚いて悲鳴を上げ、転んだ後、そのまま動かなくなったのである。
少女のこれら一連の行動は、すべてレダースの目の前で起きていた。
レダースが、もしかすると少女は死んでしまったのではないかと疑い始めた頃になって、ようやく少女は上半身を起こした。
幸いにも、少女の鼻から血が出ている様子はなかった。
「君は?」
四体の戦闘ゴーレムに囲まれた少女へ、レダースは問いかけた。
すると少女も声のする方を振り向く。
しかしゴーレムたちの大きな体のせいで周囲を見ることはできなかった。
レダースが静かに手を動かして合図すると、ゴーレムたちは少女から離れた。
「承認。ゲスト。」
レダースがそう言うと、そこでようやくゴーレムたちは後退し、その場から離れていった。
これで少女もレダースの姿を見ることができるようになった。
レダースは夕食を終えた後、楽な椅子に腰掛け、テーブルの上の菓子をつまんでいるところだった。
少女の鼻には香ばしい焼き菓子の匂いが感じられる。
「ここは……?」
少女は多少落ち着きを取り戻し、周囲を見回した。
明るい空間。そして果てしない空気の流れが肌に感じられている。
もし周囲が安心できる雰囲気ではなかったなら、少女がこれほど早く落ち着くことはできなかっただろう。
実際のところ、少女はつい先ほどまで、自らの命を懸けて深夜の深い森の中で魔獣から逃げ続けていたのである。
だが、全力疾走していた直前とはあまりにも違う安らぎが、今は少女の周囲を満たしていた。
少女は何度も周囲を見回し続ける。
そして、自分の目に映る光景を信じられないという表情を浮かべた。
正確には、ここがどこなのかは分かっている。
だからこそ、現実として受け入れ難かった。
「農場……。」
しかし、それは普段村で見ていた農場の姿ではない。
村の荒れ果てた農場と比べれば、この場所は豊かさに満ちあふれていた。
少女が毎日夢の中で幸せそうに思い描いていた、そのままの光景だった。
「ぐううぅ……。」
少女の顔が赤くなる。
森に来る前に持っていたわずかな間食は、魔獣と遭遇して逃げ出した時に置いてきてしまっていた。
そうして命懸けで走り続け、今になって緊張が一気に解けたせいか、遠慮もなく空腹の音が鳴ってしまったのである。
「さあ、まずはこれを食べるといい。」
レダースは少女にパンを差し出した。
「い、いえっ。大丈夫です。お支払いするお金もありませんし……。」
しかし言葉とは裏腹に、少女の体はすでにレダースの方へ動いており、パンを受け取るや否や夢中で食べ始めた。
少女は心よりも体の方が早かった。
少女がどれほど素早く近づいてきたのか、レダースは自分の手からパンが消える感触と、そのパンが少女の口にくわえられる光景をほぼ同時に感じたほどだった。
椅子がもう一脚あるにもかかわらず、少女は床に座り込んだまま一生懸命パンを食べている。
「ごほっ! ごほっ!」
そして不自然な姿勢でいた少女は、ついにパンを喉に詰まらせてしまった。
「ほら、牛乳だ。ゆっくり食べるんだぞ。」
レダースは牛乳をコップに注ぎ、少女へ差し出した。
パンが喉に詰まっているため、お礼を言うことはできない。
少女は充血した目でうなずいて感謝を示した。
そしてコップを受け取り、牛乳を勢いよく飲み始める。
少女がまともな食事をしたのがいつだったのか、自分でも思い出せなかった。
パンだということは知っている。だが、最後にパンを食べたのが何年前だったのかも分からない。
そもそも何かをまともに食べた記憶すらほとんどなかった。
少女はレダースが差し出した食べ物を、母が歌ってくれた子守歌の中で記憶していた。
幸せな夢を見たい時、夢の中でしか見ることのできなかったものたちだった。
よく食べる少女を見ながら、レダースは別のパンを差し出した。
レダースのテーブルには食べ物があふれており、不足しそうだと思う前に新たな食べ物が補充されていた。
少女自身も、自分が大食いだということは認めていた。
なにしろレダースが差し出した食パンを、すでに五切れも平らげていたのだ。
そのうえ、合間にかなりの量の牛乳も飲んでいる。
それを見てレダースは、そろそろ会話が可能になるだろうと期待し始めた。
もし少女が食べ続けるだけだったなら、人の姿をした魔獣だと思って処分しようという考えが、レダースの中で一パーセントほど増え始めた頃だった。
ハムスターが種を頬張るように少女の口はせっせと動いていたが、最初ほど勢いはなくなっていた。
前後も考えずに食べ続けた甲斐もあり、空腹だった腹もようやく満たされようとしていたのである。
「満足したか?」
レダースは微笑みながら少女を見た。
「あっ!」
少女は声を上げると同時に地面へ伏し、丁重に大きく礼をした。
「ありがとうございます。本当に、何と感謝を申し上げればよいのか分かりません。このご恩は必ずお返しいたします。食事代も必ずお返ししますので、お時間を頂ければ幸いです。」
「大丈夫だよ。大丈夫。美味しそうに食べる姿を見るだけで十分だったから。」
レダースは最初から食事代を受け取るつもりなどなかった。
「えっ。えっ!? ですが、こんな貴重な食べ物をただでくださるなんて?」
少女は戸惑っていた。
「では、時間があれば返せるのか?」
いたずら心から、レダースは再び尋ねた。
「それは……その……うっ……申し訳ありません。無理です。」
少女の言う通り、小さな田舎村の貧しい少女にとって、それは現実的に不可能だった。
レダースは、飾らない少女の正直な姿が気に入った。
「ところで、本当に感謝しているのなら、少し立ち上がってみてくれるか?」
「えっ? は、はい! 分かりました!」
レダースの求めに、少女は勢いよく立ち上がった。
「コール。浄化。」
レダースが呪文を唱えると、少女が立っている床に魔法陣が現れ、次の瞬間には明るい光が少女を包み込んだ。
光が消えると、少女はまるで今しがた入浴を終えたばかりのように清潔な姿になっていた。
それどころか、少女が身につけている衣服までもが新品のようになっていた。
「ふむ。これで少しは衛生的になったな。」
森の中をかき分けるように走り回り、体が汚れてしまったことは衛生上よくないことだった。
「あっ! 今はこんなことをしている場合じゃありません! 早く村へ戻らないといけないんです。お姉ちゃんが危ないんです!」
少女は自分の身に起きた魔法のような出来事に一瞬驚いたものの、すぐにもっと重要な用事を思い出した。
そしてそう言うと同時に、少女は切羽詰まった表情になり、今にも泣き出しそうな顔になった。
レダースは少女の言葉に小さくため息をつき、その場から立ち上がる。
「村の名前は?」
レダースが尋ねた。
「あっ、は、はい! ウルフラン村です。」
レダースの質問の意味をすぐには理解できなかった少女は、少し遅れて答えた。
「コール。ゲート。ウルフラン。」
呪文を唱えると、すぐにレダースと少女の前へ次元門が現れた。
レダースが次元門の方へ歩いていくと、門は自動的に開いた。
「成り行きとはいえ、少し遅くなったな。君の名前は?」
レダースは少女を振り返った。
「あっ! 申し訳ありません。自己紹介が遅れました。私はピアと申します。」
ピアは自分の名前を名乗りながら勢いよく立ち上がった。
そして、すでに次元門の向こうへ姿を消していたレダースを追いかけるように、慌てて次元門の中へ飛び込んだ。




