最終話 狂気の幕切れ
ペン先がノートを激しく切り裂き、黒いインクが血のように飛び散る。
博人は己の精神を削り出しながら、最終ページの余白を狂気的な速度で埋めていった。
『終幕:影は光の中に溶け、物語は作者の肉体を食らい尽くして完結する。殺し屋も、被害者も、美しき依頼人も、すべては一人の狂人の脳内に咲いた悪の華に過ぎなかった』
「何を書いている……!? 博人!」
それまで余裕を崩さなかった博文の顔から、笑みが消え失せた。
博文の身体の端から、黒いモッズコートが、肌が、そして顔面が、パラパラと古い本のページのように剥がれ落ち、灰となって舞い上がり始める。
「俺は……乱歩になりたかったんじゃない」
博人は涙を流しながら、叫ぶようにペンを走らせ続ける。
「ただ、自分の描いた世界で、自分の影と決着をつけたくて……この病(RANPO SICK)を生み出したんだ!」
「やめろ! 止めろーッ!」
博文が悲鳴を上げながら銃弾を放つ。だが、放たれた弾丸は博人の額に届く直前で無数の黒い活字に分解され、夜の空気に溶けて消えた。
床に伏していた冴子の姿が、額縁の中の元妻の姿が、薄い水彩画のように滲み、消えていく。彼女たちもまた、博人が「悲劇のヒロイン」として呼び寄せた、妄想の配役に過ぎなかったのだ。
「博人……君も、ここからは帰れないぞ……!」
頭部の大半を消失させた博文が、最期の叫びを上げる。
博人はただ静かに微笑み、最後の句点を打ち込んだ。
「それでいい。最初から、俺の現実なんてどこにもなかったんだから」
暗転。
世界からすべての音が消え去った。
―—―—
神保町の古びた精神科病院。
日差しが差し込む白い病室で、一人の男がベッドに座り、ひたすらカタカタと古いタイプライターを叩いている。
男の名は田口博人。
彼の傍らに立つ主治医が、カルテに静かにペンを走らせる。
「症例:重度の自己解離性障害および妄想性障害。自らをフリーライターと思い込み、架空の連続殺人事件と『双子の兄』の幻影を脳内に構築。15年前の事故以来、主観的現実と物語の境界を完全に喪失している」
主治医が静かに部屋を後にすると、博人はふっと手を止めた。
窓の外、満開の桜の木の下に、漆黒のモッズコートを着た男が立ち、こちらを見上げて嘲笑っている。
博人は満足そうに目を細めると、打ち上がった原稿の束の一番上に、万年筆でタイトルの文字を付け加えた。
『RANPO SICK —— 完』
博人の口元に浮かんだ笑みは、窓の外の男のそれと、完全に一致していた。
完




