第二十四話 兄妹の手合わせ
ファルケンブルク家で迎える最初の朝。
綾目が身支度を始めようとしたところへヒルデが訪れた。
「おはようございます、比良坂様」
「おはようございます」
「本日の身支度をお手伝いいたします」
「一人でも大丈夫ですが……」
「比良坂様のお世話も私の仕事ですので」
静かな笑顔で言われると断り切れなかった。
ヒルデは衣装棚から昨日のうちに用意されていた訓練着を取り出し、タオルと一緒に並べていく。今日は訓練場で手合わせを行うと聞いているらしい。
「今日は髪をまとめた方がよろしいですね」
綾目の長い黒髪を丁寧に梳き始める。一房ずつ整えながら毛先の小さな絡まりを解いていく。
「動きやすさを優先するなら高めの位置でまとめるのがよろしいかと思います」
「お任せします」
高めのポニーテールへ結っていく手つきに迷いはなかった。
櫛が髪を通る感覚が心地よく、綾目はしばらく目を閉じていた。
「比良坂様の髪はよく手入れされていますね」
「特別なことはしていませんが……」
「いいえ。艶もありとても扱いやすい髪です」
結い終わるとヒルデは少し離れて全体のバランスを確かめた。
心なしか楽しそうに見える。
「よくお似合いです」
「……ありがとうございます」
鏡の中の自分は普段と少し違って見えた。
動きやすい訓練着に高い位置でまとめられた黒髪。
今日これから何が待っているのか、改めて意識させられる姿だった。
◇
朝食の時間、食堂にいたのはエルゼリスと綾目だけだった。
リーナは料理長と昼食の打ち合わせに出ており、ガイウスとレオンは訓練場の確認へ向かっている。フィアはまだ身支度を終えていないらしい。
給仕の使用人が数名、静かに控えている。
「よく眠れましたか」
「はい。ベッドが快適すぎて眠るまでに少し時間がかかりましたが」
綾目が答えるとエルゼリスは食事の手を止めて顔を上げた。
いつもの黒髪が高い位置でひとつにまとめられている。
普段は隠れている首筋とうなじが露わになり、髪が揺れるたびどこか年相応に見えた。
(……可愛い)
浮かんだ言葉を顔に出さないようエルゼリスはすぐに視線を皿へ戻した。
「……髪型を変えられたのですね」
「はい。今日は訓練場で手合わせがあると聞いたのでヒルデさんに結っていただきました」
「よく似合っています」
口にしてからエルゼリスは少し早口で付け加えた。
「いえ、いつもの髪型も悪くないのですがその……動きやすそうだという意味です」
「ありがとうございます」
綾目は軽く微笑みトーストを口に運んだ。
エルゼリスはそれ以上何も言わず紅茶のカップへ視線を落とした。
◇
朝食を終えた二人は屋敷の敷地内にある訓練場へ向かった。 訓練場は騎士学校の施設にも引けを取らない広さだった。
丁寧に整地された地面。 的や木人形が並ぶ一角。
観覧用のベンチまで備えられている。
そこにはすでにガイウス、リーナ、レオン、フィアが集まっていた。
ヒルデも綾目の担当として同行し、水筒とタオルを収めた籠を手にしている。
「使用武器は木剣、木刀とする」
ガイウスが告げた。
「身体強化を含む魔法は禁止だ。純粋な剣技と身体操作のみで行う」
綾目は内心で確認する。
(通常の手合わせで魔眼を使う必要はない)
(まずは自分の技だけでどこまで通じるかを確かめる)
最初の組み合わせとして、エルゼリスとレオンが訓練場の中央へ進んだ。
「久しぶりだね、エルゼ」
レオンが木剣を構えながら言う。
「以前と同じとは思わないでください、兄上」
「それは楽しみだ」
開始の合図とともにエルゼリスが先に踏み込んだ。
剣筋は速く鋭い。 袈裟懸けに振り下ろされた一撃をレオンは受け止めずわずかに軌道を外す。 続く下段からの斬り上げにも最小限の動きで対応した。
数合の打ち合いが続く。
エルゼリスの剣速がさらに上がった。
連撃。 フェイント。 間合いの詰め直し。
その一つひとつに確かな速度と技術が乗っている。
レオンの足がわずかに後退した。
「お姉様の方が押しているように見えます」
フィアが興味深そうに身を乗り出す。
「才覚だけを見ればエルゼリスは稀に見るものを持っている」
ガイウスが腕を組んだまま答えた。
「ではお姉様が勝つのですか?」
「勝負は才覚だけで決まるものではない」
レオンは踏み込みの先を半歩ずらし、木剣同士が当たる角度を変え、エルゼリスが次に振りやすい方向を限定していく。
近く見える間合いから実際には剣先が届かない位置へ自然に誘導していた。
傍目には押されているように見える。 だが、レオンは常に半歩分の余裕を残していた。それでもエルゼリスの攻めは鋭い。木剣の切っ先がレオンの肩へ届きかける。
その瞬間、レオンの表情から笑みが消えた。
身体を深く沈め土壇場で軌道を外す。 流れた木剣へ自分の木剣を絡め、すくい上げるように弾き上げた。
エルゼリスの手から木剣が離れる。宙を舞った木剣が地面へ落ちるより先にレオンの木剣がエルゼリスの首筋で止まっていた。
「……危なかった」
レオンがわずかに息を吐きながら言う。
「その割には最後まで冷静でしたね」
「そう見せるのも経験のうちだよ」
◇
「次は比良坂さんだね」
レオンが綾目へ向き直った。
「よろしくお願いします」
「魔眼を持っていると聞いている。使用について何か条件はあるかな」
「いいえ。使いません」
「使わない?」
「通常の手合わせで必要な力ではありませんので」
「分かった。それならお互い剣技のみで遠慮なくいこう」
綾目は木刀の柄へ手を添えた。
(負けそうだからという理由だけで使うつもりはない)
開始の合図。
(下手な小細工は通用しない)
(まっすぐ行く)
綾目が縮地で一気に間合いを詰めた。
抜刀。
レオンは刃筋を滑らせるように受け流す。綾目は即座に切り返した。
レオンも木剣を返す。数合の打ち合いの後、間合いが開いた。
「……さすがエルゼの友人だね」
「まだ一本も取れていません」
「だからこそだよ」
綾目には攻撃が届きそうな感覚があった。
次の一撃。
踏み込んで剣先を伸ばした瞬間、足を置こうとした位置を半歩ずらされる。
届くと思った間合いがわずかに外れて空を切った。続く攻防では木剣を合わせられた瞬間に上体が浮く。
体勢を立て直した時にはレオンはすでに次の構えへ移っている。さらに間合いを詰める。だが入ったはずなのにもう一度足を置き直さなければならなかった。木剣を合わせたわずかな力で肩の向きまで変えられている。
(届く……)
(いや、違う)
(届くと思った瞬間に形を崩されている)
レオンが一度だけ綾目が最も踏み込みたくなる距離へ入った。
わずかな隙。
綾目は好機と判断し迷わず踏み込む。しかし、レオンはその瞬間に軸足を引いた。
綾目の木刀が空を切る。
追撃へ移ろうとした綾目の足元へレオンの木剣が低く差し込まれた。直接打つのではない。 次に足を置こうとした位置を塞いでいる。
綾目は別の位置へ踏み直さざるを得なかった。
(誘われた……?)
試合時間が伸びていく。レオンは最小限の動きで対応し続けている。対する綾目は踏み直し、姿勢の修正、間合いの詰め直しを重ねていた。
一手ごとの差は小さい。
だがそれが積み重なるにつれ呼吸の乱れとして表れ始める。魔眼を使えば動きをさらに早く捉えられるはずだ。
意識の片隅にその選択肢がちらつく。しかし綾目は起動しなかった。
(これは訓練だ)
(敗北を避けるためだけに使うものではない)
綾目は呼吸を整え最後の踏み込みへ入った。レオンは木剣を斜めに添え軌道を上へ流す。
綾目は切り返そうとした。
だが、それまでに何度も強いられた踏み直しが積み重なり軸足の戻りがわずかに遅れる。
普段なら意識にも上らないほどの遅れだった。
レオンは綾目が次に足を置こうとする位置へ先に踏み込んだ。進路を塞がれる。綾目の身体が浮いた。
次の瞬間。
レオンの木剣が首筋へ静かに添えられていた。
(最後の一手だけではない)
(その前からずっと……)
「そこまでだね」
「……はい。参りました」
◇
反省会は訓練場の端で行われた。
ヒルデが水筒とタオルを差し出す。
「お疲れさまでした」
「ありがとうございます」
綾目は受け取った水を一口飲み、呼吸を整えた。
レオンがまずエルゼリスへ目を向ける。
「エルゼとは何百回も手合わせをしてきたからね。お互いの癖も好む間合いも知っている」
レオンは少し間を置いた。
「才覚ではもうエルゼの方が上だと思う。正直今日もかなり危なかった」
「次は勝ちます」
エルゼリスが短く言う。
「楽しみにしている」
それからレオンは綾目を見た。
「比良坂さんは何が気になった?」
「攻撃が届くと思った瞬間に必ず崩されました」
綾目は感じたことをそのまま言葉にする。
「防がれたというよりその前に形を崩された感覚です。……私の癖を読んでいたのですか?」
「いや。キミ個人の癖を知っているわけじゃない」
レオンが穏やかに答えた。
「ただ人が勝負を決めようとする瞬間にはある程度共通した変化が出る」
「共通した変化……」
「呼吸、視線、重心、踏み込みの深さ。勝てると思った瞬間ほど人の動きは素直になる」
綾目は攻撃が届くと思った瞬間を思い返した。
「そこを先に潰されたのですね」
「前線ではその一瞬を見逃せば死ぬからね」
レオンは自分の木剣へ視線を落とす。
「僕がキミより多く持っているのはそういう瞬間を見た回数だと思う」
「一度だけ明らかに間合いへ入れた場面がありました」
「一度だけキミが最も踏み込みたくなる距離を置いてみた」
「……やはり誘われていたのですね」
「それでも迷わず踏み込める決断力はキミの長所だよ」
「途中から私だけが消耗していました」
「何度も踏み直しをさせたからね」
レオンは軽く自分の足元を示す。
「こちらが一歩で済ませるところを相手に二歩三歩と動かせば時間がたつほど差になる」
(体力だけで負けたのではない)
(余計に動かされ続けた結果……)
(これが実戦の勘所)
小さな崩しの積み重ねが最後の遅れにつながった。
ようやくその意味が腑に落ちる。
「十五歳で僕をあれだけ動かせるなら十分以上だ」
レオンは綾目へ向き直った。
「キミは強いよ、比良坂さん。ただ経験には近道のできない部分もある」
「覚えておきます」
綾目はその言葉を静かに受け取った。
◇
反省会の後、綾目はベンチに腰掛けしばらく呼吸を整えた。水分を取り、足首や膝、握力を一つずつ確認する。疲労は確かに残っている。
だが息は戻り足にも異常はなかった。
ガイウスは綾目とレオンを見た後、傍らに控えるヒルデへ視線を移した。
「……ヒルデ」
「はい、旦那様」
「お前も一度相手をしてやれるか?」
「主命とあらば」
綾目は朝に自分の髪を結っていたヒルデを見る。
「比良坂さん。続けてで悪いがうちのメイドとも手合わせをお願いできるかな」
「ヒルデさんとですか?」
「ああ。レオンとはまた異なるものが見られると思う」
ガイウスは綾目の様子を確認する。
「ただし疲労が残っているなら日を改めよう」
綾目は自分の状態をもう一度確かめた。
「呼吸は戻っています。足にも問題はありません」
少し間を置く。
「お願いします」
ヒルデは籠を別の使用人へ預け、用意されていた木剣へ手を伸ばした。
その表情は先ほどまでと変わらない穏やかなものだった。
「よろしくお願いいたします、比良坂様」
「こちらこそよろしくお願いします」
ヒルデが木剣を手に取り訓練場の中央へ進んでいく。




