プロローグ 地獄門事変・最終決戦
夜明けの直前、大陸の辺境に光がなかった。
東の空の端がほんのわずかに白みはじめている。しかし地平線の手前の大地は、まだ闇の中にあった。その闇の中に、影が立っていた。
無数の影が。
高さ十メートルを超える、人の形をした鉄の塊。飾り気はない。塗装は最低限。鈍い鋼の表面に、夜明けの薄光が微かに反射している。腰に幅広の剣を佩いたものがいる。肩に長い砲身を担いだものがいる。そのどちらもが、地平線を埋め尽くすほど並んでいた。一機、また一機。その胸部に設けられた操縦席に、人間がひとり乗り込んでいる。
グラム——人型機動兵器。異世界から流れ込んだ技術を、この大陸の鋼と魔力で組み上げた、人類の最後の力だった。前衛を担う「ブロードソード」、後方から火力を投じる「ロングソード」。地平線を埋めるその数は、地獄門が開いてからの十四年、人類が死に物狂いでかき集めた総戦力に等しい。
影の向こうに、穴があった。
縁から覗いても底は見えない。どれほど光を差し込んでも、あの暗黒は何も返してこない。ひとつの大都市がまるごと収まるほどの、底の見えない穴。十年前、精霊種が命と引き換えに張った光の膜が、その縁に沿って揺れていた。光の粒が小さな火花のように散っては消え、散っては消えていく。脈が弱くなっていく患者のように、不規則に、しかし確実に。
あの光の膜が、地獄門を抑えている。
そして——あと一刻で、完全に尽きる。
膜の向こうで、影が蠢いていた。四足の獣のかたち。二足で立つ人に似たもの。硬い甲殻に覆われたもの。空に舞うもの。形は様々だった。しかし、どれも共通していた。瞳がない。眼のあるべき場所が、黒く塗り潰されている。
魔物種。地獄門が吐き出し続ける、人類の敵だ。
数えることに、意味はなかった。地平線そのものが、敵だった。
地平線を埋める人類の鉄の軍勢——その数倍が、あの膜の向こうにいる。膜が消えれば、すべてが解き放たれる。まともに考えれば、勝ち目のない物量だった。
上空では四隻の艦体が空を分割していた。全長五百メートル。翼を持たず、巨体そのものが浮力を持つ航空巡洋戦艦。その腹部から、すでに爆撃機が発進準備に入っている。
まるで空が武装したようだった。
東の空の白さが強くなっていく。夜明けが来る。地平線を埋める影が輪郭を取り戻していく。しかし地獄門の穴だけは、その光を吸い込むように、黒いまま、底の見えないまま、そこに在り続けた。
◇
一番艦ヘパタイトの艦橋から、彼女は眼下を見ていた。
ルクレツィア・ヴァレンシュタイン。銀色の長い髪に、赤い瞳。気品のある顔立ちは二十代の後半に見える。しかしその目だけは、ずっと遠くを見ていた。生まれてから数えれば、二百八十八年。ノーブルヴァンパイアの彼女にとって、この戦場に並ぶ人間たちの一生は、瞬きほどの長さしかない。
その瞬きのために、彼女はここに立っていた。
地獄門が口を開いたのは、十四年前のことだ。
最初の一年で、人類の十八パーセントが死んだ。二年目で、さらに十パーセント。国は割れ、軍は退き、誰もが終わりを覚悟した。それでも人類は——種族の違いを越え、かつての敵さえ味方に変えて、ここまで生き延びた。
その「かつての敵」を率いていたのが、ルクレツィア自身だった。
今は誰もそれを問わない。問う余裕がない。人類が地獄門を封じられるかどうか、それだけが全てだった。
「閣下。全艦、艦載機の発艦準備、完了しました」
部下の声がした。
ルクレツィアは頷いた。それだけだった。表情は変わらない。
精霊種の結界が尽きるまで、あと一刻。それまでに人類の封印を起動させる。それが今日の作戦の全てだった。
彼女は、艦内無線のスイッチに手を伸ばした。
◇
スイッチが入ると、全軍の通信機に彼女の声が届いた。
コックピットの狭い空間で、一人のパイロットが息を止めた。計器のランプが点滅している。握った操縦桿の感触だけが現実だった。
地上で銃を抱えた歩兵が、空を見上げた。ヘパタイトの艦体が、白み始めた空に黒く浮かんでいる。
魔術師が詠唱の手を止め、頭上からの声に耳を傾けた。
「おはよう、諸君」
低く、静かな声だった。抑揚が少ない。英雄の演説というより、確認に近い。
「まもなく、諸君は歴史上もっとも重要な作戦に身を投じる。我らが大地に絶望をもたらした、あの忌まわしき門を、今日この日、我らの手で封じるのだ」
「我らは種族を異にし、生まれた土地を異にする。かつて剣を交えた者さえいる。それでも我らは、共に戦い、共に傷つき、共に仲間を見送ってきた。守るべきもののために、明日のために、誰もが戦い抜いてきた」
「今日、その全てが結実する」
「取り戻そう。人々に、平穏を。我らに、明日を」
「征くぞ、諸君」
静寂があった。
たった一瞬。しかし確かに、この戦場に集ったすべての命が、同じ一瞬の中にいた。
◇
演説が終わると同時に、ルクレツィアは艦内通信を繋いだ。
「全軍——攻撃開始」
それだけだった。感情はない。抑揚もない。しかしその一言が、三千四百の影を動かした。
地獄門を取り囲んで四方に滞空する、ヘパタイト級の四隻。その腹部のカタパルトから、爆撃機が次々と射出されていく。一機が出ると、すぐに護衛の戦闘機が続く。爆撃機を中心に陣形を組み、空を分けるように降下していった。
各機の腹に抱えているのは、人類最強の通常兵器——ゾル・アガレシウム爆弾。異世界由来の鉱物を核に据えたその一発は、街区ひとつを焼き払う。
アガレシウムは、高度な科学文明を持つ異世界からもたらされた鉱物の中でも、とりわけ希少なものだった。これまでに人類が手にできたのは、わずか六つ。そのうち四つが、十年の歳月をかけて、辛うじて爆弾に仕上がった。残る二つは、加工に至らないまま厳重に保管されている。量産など、夢のまた夢だ。
つまり——この一斉投下が、人類に許された、最初で最後の大火力だった。
四方から飛び立った編隊が、地獄門を挟んで位置を取る。一斉ではない。それぞれの編隊が、最大の効果を発揮できる場所——魔物種の密集が厚い箇所、群れの先頭——を選び、進入角を調整していく。
位置を取り終えた。
各編隊から、ほぼ同時に、爆弾が切り離された。
着弾した。
光が、全てに先んじた。熱がその後を追い、轟音が遅れて届いた。地獄門の中心から、複数の爆発が連鎖して広がっていく。岩盤が溶ける。液状化した大地が渦を巻く。魔物種の群れが炎の中で蒸発した。一瞬の出来事だった。あの密集した群れの、およそ六割が、音もなく消えた。
しかし地獄門は、消えなかった。
爆発の光が引いていく中、あの黒い穴はそこに在り続けた。底の見えない暗黒が、地上の全てを吸い込む口を開けたまま、静かに、変わらず、そこにあった。
ルクレツィアは目を細めた。
分かっていた。消えるはずがない。地獄門を消す手段など、人類は持っていない。
今日これから起動する封印も、地獄門そのものを塞ぐわけではない。あれは、檻だ。門から湧き出る魔物種を、外の世界へ出さないための檻。門は今日も、明日も、百年後も、魔物種を吐き出し続ける。封印の内側で、人類はそれを永遠に間引き続けなければならない。
解決ではない。問題の、先送りだ。
それでも——今日この日、人類に選べる最善は、それしかなかった。だからこそ、今日ここに全軍が集まっている。
◇
爆発の余熱が漂う中、地獄門の縁から何かが這い出してきた。
甲羅があった。亀に似た形をしていた。しかし、その全長は二百メートルを超えていた。半分以上が爆発で焼け溶けている。溶けた部位を甲羅の縁から垂らしながら、それは地上に降り立った。
艦橋に、声が飛んだ。
「閣下! 南方面に大型反応——速度、時速八十! 速い……! 南の結界都市へ、直進しています!」
報告の声が、上擦っていた。
ルクレツィアはモニターに目を落とした。光点が動いている。速い。あれほどの巨体で、あれほどの速度。地上のグラムでは、追いつけない。
(——あれは、結界都市を狙っている)
(まさか……奴ら、封印の要を知っているのか?)
魔物種に意思はないはずだった。封印の構造を理解できるはずがない。それなのに——あの個体は迷いなく、まっすぐ南へ向かっていた。偶然にしては、正確すぎる。
脊髄に冷たいものが走った。二百八十八年、戦場に立ち続けてきた自分が、初めて「想定外」という言葉を頭の中で呼んだ。
だが——考える時間は、なかった。
迎撃が始まった。ブロードソードが剣で甲羅を打つ。ロングソードが後方から砲火を浴びせる。魔術部隊が全力の攻撃を解き放つ。
何も、通らなかった。
その巨体の周囲に展開した不可視の障壁が、あらゆる攻撃を弾いていた。
ルクレツィアは戦況モニターを見ていた。
地上の各部隊は、すでに限界に近い。あの爆弾で六割を消し去ってもなお、残る魔物種は人類の総戦力の数倍にのぼる。それが、開戦前の試算だった。どの部隊も、戦線を押し返すどころか、押し込まれないよう支えるだけで精一杯だった。攻めに転じる余力など、モニターのどこにもない。
航空巡洋戦艦も同じだった。四隻はいずれも限界高度まで降下し、地上への火力支援を続けている。巨体そのものを囮にして魔物種の意識を引きつけ、地上の仲間が動ける時間を稼いでいた。
(あれを止める手が、ない)
頭の中で算段を繰り返す。使える戦力を探す。切れる手を数える。
ない。
どこを切り崩しても、別の戦線が崩れる。あの大型を止めるために割ける兵力は、この戦場のどこにも存在しなかった。封印の起動まで、残された時間はわずかだ。間に合わなければ、全てが——
通信が、入った。
「アウステルより全軍。二番艦トパーズ、これより、あの魔物種に突貫する」
南方面——アウステルを任された、二番艦トパーズからだった。
言葉は、短かった。
ルクレツィアは何も言わなかった。言えることが、何もなかった。ただ、拳を強く握っていた。
窓の外で、トパーズの艦体がゆっくりと艦首を向けた。出力が上がっていく。正常値を超える。臨界を超える。さらに上がっていく。五百メートルの艦体が、加速しながら、あの巨体へ向かってまっすぐ突き進んでいった。
閃光が、ひとつ。
そして——南の空から、大型の反応が、消えた。
ルクレツィアは、窓から目を離さなかった。
◇
残存する魔物種が、一斉に押し寄せてきた。
ブロードソードがアサルトライフルで群れを撃ち抜きながら前進する。弾倉が尽きると、剣を抜いた。鉄の刃が弧を描いて魔物を断つ。
斬られた魔物種は、血を流さなかった。
断たれた体が、黒い霧となって崩れていく。音もなく、手応えもなく、ただ霧散して消える。倒したという実感が、どこにもない。何百体を斬ろうと、その先には何の確かさも残らない。霧が晴れた後には、地面すら濡れていない。
地獄門が開いてから、十四年。
最初の四年、人類はただ、この手応えのない敵と殴り合った。押し負け、土地を失い、人口を削られ続けた。流れを変えたのは精霊種だった。彼らは命と引き換えに光の膜を張り、地獄門を一時的に抑え込んだ。
その膜が保つあいだに、人類は封印を築いた。十年をかけて。
そして今日、その十年が尽きようとしている。
一機のグラムが被弾した。バランスを失い、地面に倒れる。立ち上がろうとする動きがあり、そして、止まった。
その機体は——黒い霧には、ならなかった。
砕けた装甲が、抉れた地面に残った。コックピットの中の人間も、そこに残った。魔物種は消える。人は、残る。その対比だけが、この戦場で唯一、はっきりとした手触りを持っていた。
別の一機が、深く損傷していた。両脚の駆動系を失い、その場から動けなくなっている。周囲は、魔物種に完全に囲まれていた。脱出も、後退も、もう叶わない。
通信に、短い声が乗った。
「——どうせ動けん。道連れにする。隊列を、下げろ」
応答を待たない声だった。動かない機体の動力炉が、出力を上げていく。臨界へ。警告音が、回線越しに数秒だけ流れた。
光が、放射状に広がった。半径数十メートルの魔物種が、一瞬で消えた。
通信は、もう何も返ってこなかった。
次の機体が、前に出た。隊列は崩れなかった。
また一機。また一機。
ルクレツィアは、動じなかった。
動じてはならないと言い聞かせているのではない。動じる余裕が、もうないのだ。各方面から被害報告が届き続けている。戦死。大破。行方不明。数字が積み上がっていく。彼女はそれを、全て受け取っていた。記録していた。しかし今この瞬間に感情を使えば、指揮が止まる。指揮が止まれば、さらに数字が増える。
だから、何も感じない。
窓の外の戦場を、見続ける。その目には何も映っていないように見える。しかしその奥で、彼女は全てを記録していた。今日死んだ者の名を、後で、ひとりずつ思い出すために。
◇
精霊種の結界が、揺らぎ始めた。
光の粒が加速して散っていく。最後の一欠片まで燃え尽きるように、十年間、地獄門を抑え続けた光の膜が、消えていく。粒が小さくなる。密度が薄れる。
結界が、消えた。
その瞬間——地面が、光った。
結界都市から、中継都市から、地下を走る回路を伝って、光が広がっていく。四方から延びてきた光の筋が交差し、地獄門の縁を囲んでいく。人類が十年をかけて建設した封印が、今、起動した。
光の幕が、地獄門を覆っていく。
それでも、穴の底は見えないままだった。あの暗黒は、光に覆われてもなお、底を見せなかった。
門は、止まらない。封印が起動した今この瞬間も、地獄門は魔物種を吐き出し続けている。それを止める手段を、人類は持っていない。
封印にできるのは、ただひとつ——湧き出した魔物種を、外の世界へ出さないこと。光の幕は、巨大な檻だった。
だから、戦いは終わらなかった。
檻が完成したなら、次は、檻の中の数を減らす番だ。地上に残った魔物種を、人類が対抗できる規模まで間引く。地獄門の縁から漏れ出た個体、攻撃を切り抜けて散開した個体——その一匹一匹を、潰していく。
全軍に、最後の命令が下った。
「掃討にかかれ。安全域まで、一匹残らず」
グラムが、再び動き出した。今までの戦闘で削られた残存戦力が、それでも陣形を組み直し、散らばった魔物種を一個ずつ潰していく。剣が振るわれる。砲撃が叩き込まれる。魔術の閃光が走る。斬られた魔物種は、やはり黒い霧になって消えていった。
掃討は、長く続いた。
陽が高く昇り、やがて傾き始めるまで——夜明け前に始まった戦いは、その日の午後、ようやく終わりに近づいた。
戦場の音が、少しずつ減っていく。
砲声が間遠になる。叫び声が止む。グラムの足音だけが、ぽつぽつと地面に残っていく。
そして——全戦域で、安全域の確保が完了した。
「閣下。全戦域、グリーンゾーン確保を確認。掃討——完了しました」
無線越しの声は、疲弊しきっていた。それでも報告の形を保っていた。
静寂が、来た。
ルクレツィアは、窓の外を見ていた。
どれほどの者が、今日、消えたのか。その数を、彼女はまだ知らない。知るのは、後でいい。
戦場は、静かになっていく。まだ立っているグラムの影が、午後の光の中に点在している。動かないものと、動くものと。地獄門は、光の幕に覆われている。かつて世界の終わりのように見えたあの穴が、今は静かに、人類の光を受けている。
底は、まだ見えない。
「……終わった、か」
誰に言うでもなく、ルクレツィアは呟いた。
返す言葉は、誰からも来なかった。
それでも——人類は、明日を取り戻した。
◇
それから、二百年が経った。
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【地獄門事変 最終決戦 戦闘記録 ——抜粋——】
地獄門周辺 全戦域
グラム 喪失・損傷 2,990機
地上部隊 戦死・行方不明 99,514名
航空巡洋戦艦 轟沈1隻(2番艦トパーズ)・大破1隻・中破2隻
作戦開始から安全域確保まで、約八時間。
全戦力の、およそ八割が損なわれた。
これは史上最大規模の、単日戦闘損失として記録されている。
しかし——結界の発動は、成功した。
人類は、滅亡を免れた。
——後世、これを「地獄門事変の終結」と呼ぶ。
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