4−9 半落ち
無機質な取調室の中で、田中美里は俯き加減に椅子に座っていた。数日間に及んだ取り調べも今日が最後であり、もう拘束着は付けられていない。
無表情に、糸の切れた人形のように座っている田中美里を、ただ黙って見ていた。
記録係の警察官の男の、苛立ちとも取れるペンのカチカチ音が、部屋の中の沈黙を煽るようだった。
田中美里は、明日には検察庁に送致される。そこから長い裁判が始まるだろう。
「田中美里さん、今日で取り調べは終わりです。これからあなたは検察庁に送致され裁判にかけられる。容疑は外患誘致罪だ」
「……」
東の言葉にも、一切の反応を示さない。まるで感情のない人形のように。
「わかっているんですか? 外患誘致罪は死刑しかない、一番厳しい法律だ。日本初のケースだ。それでもまだ主張を変えるつもりはないと?」
長い沈黙だった。何分経っただろうか……根気強く反応を見ていると、かすかな声が彼女の口から漏れてきた。
「……わかっています」
静かに、しかし確実に答えていた。それは注意深く聞いていないと聞き逃してしまうような僅かな音だった。背後で警察官のペンを走らせる音が響く。
(なぜこの人は、全ての罪を受け入れるのだろう)
(なぜ、ここまで頑なになっているんだ?)
(ヤツとの間に、何があったんだ?)
(この人の心は、もう死んでしまったのか?)
「田中美里さん……」
目を伏せたままの彼女に、ゆっくり話しかける。
「私は、あなたも被害者の一人だと思っています。ヤツとの間になにがあったかは知りません。しかし、ヤツは日本へ脅威をもたらす工作員で、あなたを利用しようとしていたことは確実なんですよ、違いますか?」
まるで声が聞こえていないかのように、身動き一つせずにうつむいている
「私には、貴方がヤツを庇っているように見える。だがヤツは死んだ、もう庇いようがないんですよ」
一瞬、東が「死んだ」と口に出した時、わずかに彼女の頭が揺れた。
「私たちは、ずっとあなた達をマークしていました。カラオケボックスでの出会いから今日まで……」
わずかに彼女の口が動いたように見えた。しかし、なんの音も聞こえてこない。
「そして、あなたのことも調査しました。家族を失い、一人でこれまで生きてこられた。そこを奴らは狙ってきたんですよ。騙されていたのです」
わざときつい言葉を使ったが、相変わらず無反応だった。記録係の咳払いが、取調べ室の中に響いていた。
手を組んで、その隙間から田中美里さんの顔を見るようにして続けた。
「わからない点もあります。貴方とヤツが牛久の自宅から失踪した時、まだ中国の作戦は継続中だった。失踪するタイミングとしては早すぎる。訓練された工作員にしては行き当たりばったりすぎる。まるで見つけてくださいと言っているような行動でした」
逃走中に、監視カメラがあるような駅を行き来するなんて、工作員としては考えられない行動だ。
「もう一つ、ヤツが逃げる気になれば、中国政府のフロント企業に逃げ込めば、もっと楽に国外に出れたはずなんだ。だがヤツはそれをしなかった。バカ正直にパスポートを偽造し直して、普通の旅行者として出国しようとしていた」
再び静寂が支配していた。記録係の警察官の男のペンのカチカチ音はもう聞こえなくなっていた。
長い静寂だった。東の心臓の鼓動が、この部屋の唯一の音のようだった。
彼女がそうしているように、自分の拳に目を落とし、静寂に耐えかねたようにゆっくりと口を開く。
「あなたには、守るべきものや、守りたいものはないのですか?」
彼女は微動だにしない。だが、東は、こみあげてくるなにかを抑えるように続けた。
「私は!……私は……こう思う」
知らず知らずのうちに声が大きくなる。自分でも理解できない感情と戦っていた。
「人間は……誰でも一人だ。だからこそ、本当に信頼できる人を探し、繋がりを求める。だが……」
握った拳を抑えつけるように続けた。
「だからこそ! いや、絶対的に、自分を大切にするべきなんだ! それはエゴではない! それは未来への絆として! 自分を愛してくれる人、愛する……。誰かの……希望として……」
目に、熱いものが込み上げてくる。それは、田中美里への同情なのか、国家という巨大な組織に対する怒りなのか。
それとも自分自身への憤りなのか。
再び部屋の中を沈黙が支配する。
「……最後にひとつ聞かせてください」
低く、押し殺した声で口を開いた。硬く握った拳には血管が浮き出ていた。
「あの空港でのことですが、李憶俊はあなたの耳元で何かを言ったように見えたのですが、なんと言っていたのですか?」
彼女は、一瞬体を震わせて、目を伏せたまま小さく答えた。
「……いえ、何も」
再び静寂が支配する。底のない闇のように重苦しい静寂が。
田中美里の顔を見つめたが、その目の奥にある感情を測ることはできなかった。そして彼女が再び顔をあげることはなかった。
◇◇◇◇◇
私の目の奥には、一つのシーンが繰り返し再生されていた。
あの時。
もうだめだ。
二人とも助からない。
そう思って諦めた時。
必死で悲鳴を我慢していた時。
憶俊が私のお腹にそっと手を置き、耳元で囁いた言葉。
今も耳に残っている言葉。
(ずっと一緒……)
<つづく>




