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第二十七章:共生――美生子十九歳の視点

――ガタガタガタ、ヒューッ……。

 走り出した列車は女の裏声じみた音と共に速さを増していく。

 今日は休みの日だからやっぱり優先席までいっぱいで座れない。

 車窓に目をやると、青空と林立するビル群の風景に蒼白く浮かび上がった。

 ショートカットとおかっぱ頭の中間じみた、半端に伸びた髪、藤紫のTシャツとワンピースの境界めいたロングシャツから覗く緩いスパッツの脚。

 事情を知らない人が見れば、単に垢抜けない装いをした女子学生と思うだろう。

 あの日から一か月余り。

 ひたすら逃げて隠れる内に自分はどんどん「女」に戻った。


*****

――ガタン。

 緩やかに速度を落とした電車は、しかし、何かにぶつかったように一瞬、揺れて、止まる。

 とうとうこの駅に着いた。

 どっと油じみた汗が滲み出て握り締めた拳がワナワナと震える。

――プシューッ。

 空気が抜けるような音を立ててすぐ隣の扉が開く。

 ムアッと湿った熱気とコンクリートの臭いを孕んだ空気が押し寄せた。

 いいや、俺は自分の意思でここまで来たのだ。

 後ろからの人の流れに半ば押し出される形でホームにサンダルの足を踏み入れる。

 この暑さではこの平たいサンダルが一番快適で動きやすいから履いてきた訳だが、自分の足がいかにも無防備で小さく見えた。

 人の流れで転ばないように階段の隅側に寄ってすぐ脇の手摺りには掴まらないまま一段ずつ降りる。


*****

 改札が見えてきた。

 その向こうに真っ白なタンクトップを着た長身の人影が人の群れから浮かび上がるようにして目に飛び込んでくる。

 服の白と競うように赤みのない白い肌、太く長い頸、細いが筋肉質な腕、針金じみた真っ直ぐな黒髪。

 背の高さに比して小さな顔は日陰の雪じみて蒼白く、切れ長な目と眉だけが際立って黒く見える。

 と、こちらと眼差しを合わせたその切れ長い双眸にパッと潤んだ光が点った。

 サーッと背筋に冷たいものが通り過ぎる。

 その一方で、胸に全身の血がワーッと凝縮して集まる感じがして鼓動が早打った。

 離れている間、俺はこいつを憎んでいたはずだった。

 電車に乗っている間も顔を合わせれば罵詈雑言が止まらなくなるのではないかと自分を危ぶんだ。

 だが、今、直に姿を目にするとひたすら怖いのだ。

 あの晩の自分の体を押さえ付け、両の頬を打ち、揉みくちゃにしてきた恐ろしい腕の強さと大きな手、岩のように重く堅い体の感触がまた蘇ってきて、これまでも幾度となく思い出したくなくても強制的に浮かんできた記憶であるにも関わらず胃の中の物――といっても、ここ数日は食欲もなく昨夜から殆ど食べてもいないが――が逆流する感じを覚えた。

 ハルは怒り狂えばこの瞬間でも素手で俺を絞め殺すことも出来る。

 駅を行き交う人とセメントの匂いは平穏な日常そのものなのに、それすら嵐の前の静けさというかこれから起きる厄災の前触れに思われた。

 歩いていく視野の中で相手の姿がどんどん大きくなる。

 こちらを見詰める幼馴染の顔には目には潤んだ光を宿したまま、寂寥の気配が漂っていた。

 どうやらハルも俺の固い表情を読み取ってやり切れない思いに陥ったようだ。

 だが、こちらが心で受け入れられないことが正に相手には起爆剤になりかねない。

 怯える自分がいかにも意気地なく感じたが、それで恐怖は消えなかった。

 こちらの思いをよそにPASMOをセンサーに当てれば改札のドアは滞りなく開く。

「来てくれてありがとう」

 本当は自分がこいつに礼を言うのはおかしいのだ。

 どこか冷静な頭の片隅で呟く。

「俺は逃げも隠れもしないよ」

 頭一つ分大きな相手は面持ちを固くすると重い声で答えた。

「じゃ、行くか」

 相手は強いられた風に笑って歩き出す。

 ハルのアパートがある方とは反対側の出口だ。こいつも敢えて俺を安心させようと襲った場所からは離れた所に行こうとしているのだ。

 夏の陽が射し込む出口に向かって相手より三歩程遅れて歩きながら、同じ方向に進む他の見知らぬ人たちまでが安全を演出するための無意識の協力者に思えた。

 扉を出ると、カッと八月もまだ上旬の陽射しが照り付ける。

 今日は山の日だ。

 こんなちょっと歩くだけで熱中症になりそうな日にわざわざ登山する人も少ないだろうと思いつつ歩く眼の前には、郷里の青々とした山の代わりに鉄筋の建物が並んでいる。

「昼、まだなら好きなもん奢るよ」

 視線の先にはファストフードやエスニック料理のテナントの入った雑居ビルがあった。

 こいつは俺に食事を奢ってくれようとしているのだ。

 それで自分のしたことを少しでも取り戻そうと、俺の中に積もっている不信や憎しみを和らげようとしている。

 だが、この再会は手短に終わらせなければならない。

 サッと日蔭に入った所でサンダルの足が止まった。

「あのさ」

 息を吸って一気に吐き出す。

「妊娠してた」

 蒼白い腕を晒したまま日向に立つ相手は“知ってたよ”と言う風に穏やかな、しかしどこか諦めの滲む笑いを浮かべて頷いた。

「アフターピル飲んだんだけど、無知だからすぐ気持ち悪くなって吐いちゃってさ」

 白日の下にいる相手は不自然なほど穏和な笑顔のまま固く真っ直ぐな黒髪の頭を黙って頷かせている。

 だが、この冷静さなら恐らく話も簡単だろう。

「八月中に中絶すれば費用は七万」

 安くはないがもう就職して親の遺産も多少入ったこいつになら出せない額ではないだろう。

 相手は静かな笑顔のまま虚ろになった目でこちらを見下ろしている。

「俺、引っ越しで貯金全部使っちゃったから、出来ればお前に費用出して欲しいんだ」

 そもそも相手が悪いはずなのに何故こちらが卑しく感じるのだろう。

 グッとショルダーバッグの紐を握り締めて続けた。

「ダメなら、今日持ってきた同意書にサインしてくれるだけでいいよ」

 それさえあれば、自分が手術予定の施設では受け付けてもらえる。

「金は親に話して立て替えてもらうことにするから」

 十九歳のまだ勤め始めて四ヶ月の会社員はまるで裁量を越えた難題を突き付けられたように無表情になった。

 やっぱりこいつには何も知らせず七月末で大学の学期が終わり次第、実家に帰って地元のどこかで堕ろすべきだったか。

 妊娠が判ってから繰り返し思案した別の選択を思い起こしてまた後悔を覚える。

 だが、自分は両親には知らせたくなくて、飽くまで自分と幼馴染の間の秘密としてこの件を終わらせたくて今日ここまで来たのだった。

「ハルは手術のためにサインしてくれただけ、本当は夜道で誰だか知らない男に襲われて妊娠したと話すから大丈夫だよ」

 これも他人に手術を知られた場合を想定して予め用意した言葉だ。

「俺もそう思って生きていくよ」

 精一杯、笑顔で告げたつもりで、自分で聞いてすらゾッとするような陰鬱な声が耳の中に刺さる。

 これじゃ、どこも“生きる”という言葉に相応しくないな。

 どこか冷静な頭で思いつつ、強がって笑顔を作った自分が厭わしくなる。

 今の自分はさぞかし卑屈な顔つきをしているに違いない。

 だが、こいつの目にもはや高潔に見せる必要があるだろうか。

 握り締めたバッグの紐の織り目が手の中に食い込むのを感じた。

 ややあって相手はまるで引かれ者のように笑った。

「お腹に子供が出来れば産みたいとかないんだ」

 長い睫毛を伏せた切れ長い双眸がこちらの藤紫のロングTシャツのまだ平らな下腹部に注がれるのを感じた。

――これ、男の子のだよ?

 不意に清海おばさんの顔と声が蘇った。

 こいつは死ぬまで不仲だったはずの産みの母親にそっくりな目をしている。

「もし産むなら俺は……」

 最後まで言わせずにこちらの答えを被せる。

「この状況なら普通はろすだろ」

 俺が普通の女でお前と付き合っていたとしても。

 十九歳の自分たちが法律上は成人の括りに入れられていても子供を産み育てるのに社会的経済的に十分な大人でないのは知っている。

 十九歳の女子学生と就職したばかりの会社員。

 いかにも一家で貧窮する軽率な「できちゃった結婚」の取り合わせだ。

 相手は元から蒼白い顔を更に乾いた画用紙じみた白さに転じさせながらタンクトップの蒼白い腕の先の拳を握り締めた。

「夜道で誰だか知らない男に襲われて妊娠したような子供だと」

 ゆっくりと日蔭に立つこちらに歩み寄ってくる。

 考えるより先にこちらのサンダルの足が後ずさった。

「ハル」

 いや、さすがに白日の公衆の面前で殴る蹴るとかいう所業には出ないだろう。

 そう頭の片隅で推し量りつつも、呼び掛ける声はうろたえた。

「お前だって普通に大学行ってまだ自由に過ごせた方がいいだろ」

 互いに別々な所で、と胸の内で付け加える。

「今、七万払って手術すれば、俺もお前も全部元通りなんだよ」

 と、焼け付くような陽射しに青ざめた面を晒した相手は一瞬にしてその顔をグシャグシャにして黒髪の頭を激しく横に振った。

「産んでくれ」

 がっくりと膝をついてこちらの両の手首を掴む。

 いな、掴むというように引き摺り込むようなズシリと重く痛い感触がこちらを捉えた。

 人前でやめろ。

 そんな常識的な羞恥よりも振り払えずに沈んでいく暗澹に強く襲われる。

「俺が一人でも育てるから。これからもずっと働いて」

 まるで首切り役人に命乞いする死刑囚だ。

 跪いて上向いている為に常より幼く見える、涙を宿した目も鼻も紅い顔を見下ろしながら思う。

 と、その顔が横向きにこちらのロングTシャツの下腹に押し当てられた。

「お前には要らなくても俺には掛け替えのない子だ」

 こちらからは真っ黒な髪とうっすら赤くなった鼻筋しか見えないが、涙で震えた声が聞こえた。

「ミオが産んでもどうしても邪魔だと言うなら、俺がその子と二人で生きてくよ」

 相手の頬を押し当てられた下腹部が微かに熱く濡れていくのを感じた。

 前にもこんな状況があったとぼんやり思い出す。

 その時と違って今は故郷を離れた都会の道の真ん中にいて、自分たちの脇を見知らぬ人たちが次々と足早に通り過ぎていく。

「その子がいれば、俺は生きられる」

 ハルの声は自分よりもまだ胎動などないが微かに浮腫んだ感じのするこちらの下腹部――今日で六週と四日になる胎児に向かって語り掛けているように響いた。

「金は全部出すから産んでくれ」

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