第二十五章:心に合わない器《からだ》、器に沿わない心――美生子十九歳の視点
美生子と陽希の関係が決定的に変わるこの章も長めです(約一万五千字)。
「それじゃ、どうもお疲れ様です」
「どうもありがとうございます」
深々と相手に頭を下げ、リノリウムの床で極力音を立てないように黒の合皮サンダルの足を早めに進める。
事務員の人はもう自分を注視してはいないだろうとは知りつつガラス張りのドアを静かに引いて出る。
七月初めの蒸した空気がまるで暖房さながら押し寄せてきた。
それでも背筋を伸ばして早足で進んで予備校の敷地から通りに出たところでほっと息をつく。
今回は二科目分を担当したから一万五千円弱は貯蓄用に新たに作った口座に入るはずだ。
殆ど徹夜で赤いボールペンを持っていた手はすっかり痛くなってしまったが、自室で黙々と出来るこの模擬試験答案の採点のアルバイトが一番今の自分には向いているのだと思う。
それまで単発でホテルの配膳や工場の流れ作業のアルバイトも何回かしてみた。
しかし、きつい言葉を掛けられて凹むことが少なからずあり(自分は結局メンタルが弱いのだろう)、また、ショートカットにはしていても当たり前のように女物の制服を貸与されたり女子更衣室を使うように誘導されたりするのが苦痛で、自ずと在宅で出来る仕事を探すようになった。
幸い自分が通っているのは偏差値の高い大学なので模擬試験の答案を採点するバイトには採用された。
だが、その時々で担当する分量もまちまちなので貯蓄用の口座に溜まった額も吹けば飛ぶようなものだ。
“東大入試プレ”
“京大入試プレ”
“大学入学共通テスト入試プレ”
近隣の他の予備校や塾のショーウィンドウに貼り出されたポスターの模擬試験の日程を目にすると、こちらの方があるいはもっと報酬は良いだろうか、今からでも問い合わせすれば採用してもらえるだろうかという求職者の目線で眺めてしまう。
“志望校別都立・公立中高一貫校オープン模試”
“夏期講習無料体験授業受付中”
ここはどうやら小学生メインの塾のようだ。
ショーウィンドウには塾のイメージキャラクターらしき動物が早くも向日葵の横で麦藁帽子を被って虫取り網を手にしたイラスト入りの夏期講習のポスターが貼られている。
俺も昔は夏期講習に通って国立の附属中に良い判定も出ていたし学科試験でも合格したのにクジ引きで落ちちゃったんだよな。
自分はいつも肝心なところで巡り合わせが悪いのだ。
磨かれたガラスの壁から半ば影になった蒼白い顔が虚ろな眼差しで見返してきた。
髪を切り揃えたばかりの、男女兼用のネイビーブルーのショルダーバッグを肩から提げ、下に着たハーフトップのおかげでターコイズブルーのTシャツの胸は何とか平らには見せてはいるものの、黒のハーフパンツの尻はいかにもきつそうな体つきをした、遠目には白く毛のない脚に平たい黒のサンダルを履いた大学生。
ふと思い出したように仄かなレモンの香りが鼻先を漂う。
女の装いはやめたが、汗臭いのは気になるので制汗スプレーだけは点け続けている。
ガラスに映ったそんな自分の姿を眺めながら歩いていくと、ふとその半ば影になった姿に蛍光ピンクや黄色の長方形が重なって浮かび上がった。
あれ……?
目を凝らすと、ガラスを隔てた塾の教室のホワイトボードの傍に色とりどりの短冊を吊るした笹が飾られていた。
そういえば今日は七夕だっけ。特に休みになる日でもないので忘れていた。
多分、塾の笹飾りだから「志望校に合格できますように」とか「成績が上がりますように」とかそんな願い事を子供たちが短冊に書いて吊るしてあるんだろうな。
俺もそんな風にした記憶があるし。
“本物の男になれますように”
物心付いた時からの願い事は一度も短冊に書き表して他人の目に触れる場所に吊るしたことはない。
年に一度、今夜しか会えない天上の夫婦だってそんな依頼は手に負いかねるだろう。
ポツリ。
不意に目の下に冷たい滴が点るのを感じた。
フワアッと湿ったアスファルトの匂いを孕んだ熱い風が通り過ぎるや否や、まだ明るさを多分に残した夕方の空から雨が降ってきた。
急いで近くのビルの軒下に入ってポケットからスマートフォンを取り出し、LINEのトーク欄を開く。
“雨が降ってきた。先に予約した店の近くに行ってるからゆっくり来て大丈夫だよ”
*****
「俺は明日は三限からだからちょっと遅くても大丈夫だけど、ハルは明日も仕事だよね?」
個室の居酒屋で一緒に飲もうと相手から昨日の夜中にLINEしてきたのだが、それが少し気になった。
「そうだけど、明日はもう金曜日だし、ちょっと一緒に飲みたくてさ」
黒の立襟のポロシャツを着たオフィス帰りの相手はどこか寂しいものに底を潜めた笑いを浮かべてお通しのイカの塩辛を箸で摘む。
「ぺーぺーのくせにこんなこと言うのもあれだけど、仕事はやっぱりダルいよ」
長い睫毛を伏せると、眼の下の隈が浮き上がって見えた。
「そうなんだ」
ハル、もしかして、仕事が上手く行ってないのかな?
ちょうど入って三ヶ月目くらいで会社を辞める人も世間には少なくないらしいし。
「ま、地元にいた頃にバイトで行った仕分けの工場みたいなとこよりはずっといいけど」
種も仕掛けもありません、と手品師が口上を述べる時のように相手は両の手をヒラヒラさせて静脈が透けて見えるほど蒼白い手の甲と滑らかな掌を示して見せると照れた風に微笑んで続けた。
「あれから、俺もしょっちゅうハンドクリームを着けるようになった」
「そりゃ良かった」
――俺の前では無理して女のフリしなくていいんだよ?
三年前のクリスマスに相手が痛ましい面持ちで手首を握り締めた記憶が蘇る。
あれからハルの中でもうハンドクリームが女特有の美容ではなく男の自分も当たり前にするケアに変わったのは互いのためにも喜ばしい。
「俺の手よりハルの方が綺麗なくらいだよ」
自分の手は皮膚として荒れてはいないが、小さくて指も短くて爪も横長に丸っこく、男としては明らかに貧弱だし、女としてもしなやかな美しさに欠けるだろう。
「一度ケアするようになると、荒れたら塗って直そうじゃなくて荒れる前に塗って予防しようと思うようになるし、荒れそうなことも事前に避けるようになるんだよな」
黒のポロシャツの立襟から太く長い頸を覗かせた、しかし、肌が蒼白いためにどこか石膏の彫刻じみて見える相手は穏やかだが確固とした声で語る。
「お祖母ちゃんにも『明日は寒くなりそうだから手袋して出ないとね』ってこっちから伝えられるようになったり、二人で使っているハンドクリームが残り少なくなってきたら自分で買い足したりね」
社会人になったせいか、この三ヶ月の間でも処々の場面で前より口調が明瞭になった気もする。
それでいて決して攻撃的ではないのだ。
自分より年上の大人に揉まれて曲りなりにも自分で生活していくだけの給料を貰う仕事をしているからだろう。
同時に俺なんか随分ハルの目には甘っちょろく見えるんだろうなという感慨に改めて襲われる。
「失礼致します」
配膳ワゴンを背にした店員の声が響いた。
この人、ハルのお祖母ちゃんくらいだろうな。
髪こそ明るい栗色に染めているものの、どこか枯れた声と深い皺の刻まれた顔からそう察せられた。
「ライムサワーと烏龍茶、唐揚げとシーザーサラダをお持ちしました」
半透明の酒の入ったグラスを店員が萎びた手に持った瞬間、幼馴染はそっと片手を挙げて声を掛けた。
「サワーはこちらです」
何だか俺より場慣れしているみたい。こいつも酒を飲むには本来まだ一年早いはずだけど職場の飲み会で当たり前に飲んでいるんだろう。
俺はチョコレートやアイスクリームにちょっとアルコールが入っているだけでも具合が悪くなるから烏龍茶にしているけど。
もう成人の括りで結婚も投票も出来るけれど、酒や煙草を嗜むのはまだ駄目。
十九歳の自分たちはそんな宙ぶらりんな位置にいる。
「じゃ、乾杯」
向かいに座す幼馴染は労う風に微笑むと手にしたグラスをこちらのグラスにカチリと優しくぶつけてきた。
「俺の好きなもんばかり頼んじゃったけどいいの?」
ハルは特にアレルギーや好き嫌いはないものの、唐揚げもシーザーサラダもまだ来ていない料理も自分の選んだものばかりだ。
「いいんだよ、俺から急に誘ったし、飲めない人は食べる方で元を取らないと」
そう言いつつ、相手はシーザーサラダのトングを掴んでこちらの皿にまで取り分け始める。
何だかハルの方が女みたいだ。“取り分け女”とか世間で揶揄されるような。
今は俺しかいないから気の利くアピールする必要なんかないけど。
「ありがとう」
自分の取り皿に盛られた分が相手のそれより多くなった所で声を掛ける。
「悪いね」
それとも、自分が何もしないことでハルに世話を焼かせてしまっているのだろうか。
こちらの思いをよそに相手はどこか強いられた風に微笑んだ。
「いっぱい食べなよ」
これはうちのお母さんが昔、自分たちにおやつを出した時の口調だ。
違うとすれば、お母さんが一緒に食べたりして本人も楽しむのに対して、ハルは自分は何かを我慢してこちらに与えようとしている風に見えることだ。
とにかく食べよう。
ハルはわざわざ俺の好きなクルトンや粉チーズをたくさん入れるようにして取り分けてくれたのだから。
箸を取ったところでまたも向かいから声が飛ぶ。
「唐揚げ、レモン掛けていい?」
相手は既に白い手にくし形にカットされた黄色い果実の欠片を手にしている。
「ああ」
正直、自分一人で食べる時だと唐揚げにレモンの汁は掛けない。
「お願い」
でも、掛けたのが決して嫌いというわけではないから、ハルの好みに合わせよう。
相手は黙ってどこか人工的に均一に黄色いレモンの皮を指先で折り曲げて汁を絞り出しながら、皿の揚げ物をさっと一巡する風に掛けた。
ハルはこういう所は器用だ。子供の頃から台所に立つ機会が多かったせいだろう。
そんなことを思いながら眺めるこちらに相手は眼差しを向けた。
「父親が死んだ」
さりげない笑いを浮かべた顔のままぽつりと相手は告げる。
レモンと香ばしい料理の混ざった匂いの漂うテーブルの空気が一瞬、凍り付いた。
「昨日の夜にお祖母ちゃんから電話が来てさ」
レモンを掛けたばかりの唐揚げを箸で一つ摘まみながら淡々と語るが、長い睫毛を伏せると、目の下にうっすら生じた隈が際立った。
「そうなんだ」
どういう言葉を掛ければいいのだろう。
自分にはひたすら嫌な感じの爺さんだったけれど、ハルには一応は実の父親だし、貶されたら辛いだろう。
「正直、悲しくないよ」
こちらの腹まで見透かしたように相手は吹き出した。
「生まれた時から一緒に暮らしてないし」
乾いた声で語ってサワーにまた口を着けて今度は大きく飲んだ。
「葬式ももう向こうで済ませたらしいから俺もお祖母ちゃんも出てないし」
十九歳でもう産みの父母を亡くした幼馴染は今度は皮肉な色の混ざった笑いになる。
「ジジイ、再婚しててさ」
ジジイ、と吐き捨てたところでハルの皮肉な笑顔に一瞬、引き攣れた風な痛みが走った。
「一応、そっちの奥さんと分割する形だけど俺にも遺産が入るみたい」
今度はまるで他人について語るように淡々と続ける。
「ま、遺産なんて言うほど大金じゃないだろうけど」
そこまで語ると、今は自活している相手はふっと嘆息とも安堵とも取れる息を吐いた。
「良かったね」
そう答えるのが適切かは自信が持てないまま返事をする。
「ちょっと金が入ったのはいいけど、タイミング悪いよなあ」
今度はシーザーサラダを口に運びながらハルは苦笑いした。
「もうちょっと早ければその金で大学行けたかもしれないのに」
そう歎ずるとまだ高校を出て三か月の十九歳の幼馴染の顔が急に四、五歳以上も老けたように見える。
固く真っ直ぐな黒髪には白髪の一本も、滑らかに蒼白い顔には皺も弛みもないのに。
「今からでも遅くはないと思うけど」
来春にでも受験して大学に入れば一浪生と変わらないし、世間にそんな人は珍しくない。
「うちの学校にも社会人になってから入り直した人は普通にいるよ」
これがハルには励ましになるだろうかと自信は持てないまま続ける。
「大教室で講義を受けているとうちのお母さんくらいの人もいるし、それこそ教授より年上のお爺さんみたいな人もいる」
テディだって三十歳で留学してきた。
大学には教える側にはもちろん学ぶ側にもそんな多様性があるのだ。そこからすればハルが来年どこかしらの大学に入っても現役で入学した自分と誤差の範囲内に過ぎないだろう。
「それはもう十分稼いで余裕のある人だろ」
向かいに座す相手は穏やかだが重い声で答えて首を横に振った。
「俺は受験料と入学費、四年間の学費を払った上でそこで暮らせるかをまず検討しなきゃいけないから」
“四年間の学費”と挙げた声の厳しさで、ハルが実際にはずっと前からこの件で何度も検討して諦めた現実が窺い知れた気がした。
やはり親に基本の金を全て出してもらってせいぜいが小遣い稼ぎのアルバイトしかしたことのない自分が甘いのだろう。
「お祖母ちゃんにもう負担は掛けられないしね」
相手は今度は憐れむ風な、しかし、底に暖かさのある笑いで続ける。
「お祖母ちゃんこそ一番割を食った人だよ。娘が離婚して戻ってきて、孫育てしてさ。お祖父ちゃんもお母さんも先に死んで、自分は今もパートしてるし」
「ハルのお祖母ちゃん若いし、元気じゃん」
そういう問題ではないとは知りつつ言わずにいられない。
「自分を余計者みたいに思わなくていいんだよ」
お祖母ちゃんだってたった一人の孫息子をそんな風に思ってはいないだろう。
だが、相手はどこか虚ろな、こちらの肩から後ろに広がる壁までも見透かす風な眼差しに変わった。
「ま、俺なんてまだ随分恵まれてる方だよね」
何故こちらに念を押すような言い方なのか。
「世の中には母子家庭でそれこそもっと貧乏で放置餓死させられたとか母親が新しく作った男に虐待されたなんて人もいる訳だし。お母さんはさすがにそういう方向に酷くはなかったから」
ハルは今度は実際的な、他人についての書類でも読み上げる風な調子だったが、“そういう方向”と語るところで声が妙に上擦って響いた。
やっぱり、清海おばさんはハルにとって温かく思い出せる母親ではないのだ。前々から知っていたことではあるが、やはり寒々しさを覚えた。
「バレエみたいなハイソな習い事も一応はやらせてくれたしね。お祖母ちゃんや陽子おばさんが続けられるように言ってくれてたのもあるけど」
「そうなんだ」
うちのお母さんも清海おばさんにハルが習い事を続けられるように何くれと働きかけていたのだろうか。
確かにそうしていても不思議はないけど。
自分も一緒に習っていたのに今はすっかり髪を短く切り揃えてバレリーナとは程遠い風情でいるのがいかにも呑気でいい気に過ごしている表れに思えて少し後ろめたくなる。
「母子家庭の息子がバレエなんて変だって蔭ではかなり言われてたみたいだな」
相手はいじけるというより呆れて笑う顔つきだ。
「普通はお金持ちのお嬢さんがやるもんだから」
苦笑気味に語る“お嬢さん”に自分も含まれている気がした。
「いや」
思わず口から飛び出した声が甲高く耳の中に響く。
グッと抑えた声で続けた。
「俺も長いこと習いはしたけどさっぱり素質がある方じゃなかったし、小学校高学年に入る辺りから胸や尻が大きくなって全っ然バレエ体型じゃなかったから裏では嗤われてたんじゃないかな」
――すっごく変わりましたね?
――おしゃれというより何か別な人に見せる変装みたい。
勝ち気そうな年下の少女の眼差しと声が蘇る。
――元はバレエ教室でもパッとしない、男みたいに垢抜けないなりをしていたくせに。
あれは言外にそう伝えていたのだ。
「まあ、どんな子でも何かしらは言われるんだろうけど」
相手は苦さに醒めた感じを加えた笑顔を静かに横に振って乾いた声で続けた。
「サーシャみたいに目立って巧くてプロにでもなれるとかいう息子だったら両親ももっと目を掛けてくれたのかなって」
「そんなこと思う必要ないよ」
そういえばロシアに帰ったターシャさんはどうしているのだろう、あの姉弟は果たして祖国に居を定めたのだろうかと頭の片隅で思いつつ、真っ直ぐ幼馴染を見据えて告げる。
「家族ってそういうもんじゃないよ」
口に出してから、これはハルの両親への侮辱になりはしないかと思い当って背中にひやりとしたものが走った。
唐揚げの特有の油の匂いとそこに掛けたレモンともサワーのライムともつかない柑橘系の酸っぱい匂いが沈黙した二人の間にどこか白々しく浮かび上がる。
「そうだね」
相手は思いの外あっさり頷いた。
「二人とももういないしな」
穏やかな、安堵すら感じられる声だ。
そこにこちらが少し寒々しくなるのを覚えた。
「俺ももう前を向いて、やっぱり大学行きたいな」
今度は希望より懐かしい思い出を語る調子で黒の立襟から蒼白い太く長い頸を抜き出した幼馴染は語る。
「外国語の勉強とかしたい。中国語とかロシア語とか、今はベトナムのITが伸びてるからベトナム語とか」
「そうか」
ロシア語とベトナム語は専門の外語大に行かなければ履修が難しいのではないかと思ったが、遮らずに頷く。
「サークル入ったりして同世代の気の合う仲間とワイワイやりたいよ」
「そうだね」
自分と同じ十九歳になったばかりのハルには年上の大人に揉まれて働く環境はやはり辛いのだろう。
「カノジョ作って、一緒にどっかに出掛けたりしたいよ」
カノジョ、とそこだけ上擦った声から恋人という意味での特定の女性が相手にとってずっと切望されている存在なのだと感じ取れた。
「そうだねえ」
それは自分にとっても同じことだ。
リカちゃんも、ターシャさんも、紗奈ちゃんも、そして美咲もついぞ俺のカノジョにはなってくれなかった。
「俺も今度手術して、本当にカノジョ作りたいよ」
改めて話そうと考えていたことが自然に口をついて出た。
「手術……」
こちらを見据える相手の目に張り詰めた光が宿った。
ピシリと凍り付いた空気が自分の背筋まで震わせる。
「やっぱりやるんだ」
強いて笑った風な幼馴染の目には変わらず追い詰められた動物じみた光が点じている。
「俺もネットでちょっと見たことあるけど、胸や子宮を取って代わりに性器を男の形に作ったりホルモン注射して髭を生やしたりするやつだよね」
語りながらも相手の蒼白い顔は更に紙じみた生気のない色に変じていく。
どうやらハルは俺が認識している以上に性別適合手術に恐怖や危機感を抱いているのだ。
「確かに金もかかるし、何も手術しない場合よりも健康的な害は間違いなくあるだろうね」
改めて口に出してみると、自分の体には乳房を切除した術痕が今までネットで目にしたどの他の被施術者より痛々しく残り、性行為どころか排尿にも困難を覚えるような失敗したミニペニス形成の例になるだろうという気がした。
ちょうど美容整形に失敗して見た目もおぞましく、生活にも支障を来すような傷を抱えた人のように。
美容整形に失敗して生来の容姿より醜く日常的に苦痛を抱える体になってしまった人の話は「外見の美に囚われた愚かな人の末路」といった教訓を込めてメディアでもしばしば取り上げられる。
一方、性別適合手術に失敗して生来の容姿より醜く日常的に苦痛を抱える体になってしまった人の話は今の日本では目立っては出てこない。
自分がネットで目にした手術を悔いる「デトランス」もいずれも海外のケースだった。
だからといって、これはこの国の性別適合手術の失敗率が低い保証には決してならないだろう。
容姿コンプレックスから美容整形を受ける人、検討する人より性別違和から適合手術を受ける人、検討する人がそもそも数として圧倒的に少ないから、その中で失敗して悔やむ人の存在も透明化されているに過ぎない。
「お前みたいな本当に生まれついての男の体になるわけじゃないしな」
こちらを見詰めるハルの面が笑顔のまま目だけが虚ろになる。
何故そんな、自分の方が異常と言い渡された側のような顔をするのだ。
世間で変態扱いされるセクシュアリティを抱えているのも、それ故にわざわざ危険な手術を受けようとしているのも俺なのに。
そこに淡い苛立ちを覚えつつ、自分も当事者として相手より知識と理解があることを示すべく続けた。
「ミニペニスといったって結局、それで子供は作れないし。そういう点では生まれつきの女としての機能を無くすだけの去勢手術だ」
去勢、と改めて口にすると、自分が罪人か出来損ないの家畜に思えた。
ふっと向かいの相手は溜息を吐くというより、窒息からやっと逃れるように苦しい息を吐き出した。
「ミオがずっと苦しんできたのは分かるよ」
唇まで乾いた感じに白く血の気の引いたハルは重たい声で続ける。
「でも、俺は生まれつき男だけど、正直、それで良かったと感じたことはない」
真っ直ぐな固い黒髪の頭をゆっくりだがはっきりと横に振った。
「ハル」
叫び出したくなるのをグッと堪えて常より低い声でゆっくり言葉を紡ぐ。
「俺は女でいるより男でいる方が得とか楽とか思って手術するわけじゃないんだ」
否定も肯定もなく表情の消えた相手に向かって後は心の穴にずっと溜まっていた言葉が自然に流れ出した。
「物心ついてからずっとこの体が本当の自分と思えなかった」
「胸も尻も大きくなって、初潮が来た時も絶望しかなかった」
「毎月、股から血が出てくる度に何で自分はこうなんだって頭を抱えるんだよ」
「俺はもう今の女の体のまま自分も他人も偽って暮らすのは耐えられない」
「手術して、あちこち体に支障が出ても自分の責任として引き受けるよ」
「痛い目を見ても、それは俺だけの話だから」
レモンとライムの匂いが微かに通り過ぎる中、こちらを見詰める幼馴染の瞳に虚ろなまま潤んだ光が宿った。
「そうか」
今度は噛み締めるようにゆっくり首を縦に振る。
「いつかはそう言うだろうと思ってた」
どこか乾いた声で語ると、太い頸に広い肩の幼馴染は彼より一回りは小さくしたように薄く貧弱なこちらの肩の辺りを見据える。
「で、いつ手術を受ける予定?」
「いや、まだその前の段階だよ」
こちらは思わず苦笑いが漏れた。
「精神科と婦人科で別々にGIDの診断書が必要になるから」
日本語の長たらしい「性同一性障害」よりも“GID”と横文字の略称にした方が“BCG”など身体の病気に関する用語に紛れるし、日本語の「障害」よりも完治しやすい病気に思える。
「その精神科でも診断が出るまでに三か月から一年くらい掛かるみたいだからここ何か月かでバイトしてクリニックに継続的に通う初期費用を貯めてから来週に初診の予約入れたよ」
三ヶ月後か、一年後か。
自分と通おうとしているクリニック、担当となる医師の場合はどう転ぶか分からない。
取り敢えず定期的に通う金が続かないことで手術前に挫けないように一年間の通院を想定して貯めた。
通院しながらもアルバイトは継続してやるつもりだから手術前に手持ちが無くなることは恐らくないだろう。
「うちの親にも診断書が二通手元に揃ってから話そうと思うんだ」
前々から心に決めていたことなのに改めて口にすると、胸がキューッと塞がって早打つのを感じた。
「性同一性障害」と言おうが“GID”と横文字にしようが、田舎に暮らす父母にとっては我が子が世間的に見て異常、異端だという診断に他ならないのだ。
――あれ、実際もホモだったんだよね。
子供の頃に「覇王別姫」のレスリーを観て語った父親の声が蘇る。
両親にとってセクマイやLGBTとはテレビに出て来る芸能人、とりわけ海外スターのようなそもそもが特殊な世界の人たちであって、赤子の頃から一つ屋根の下で暮らしてきた我が子のことでは有り得ない。
まして、バレエを習って女子校に通った「娘」が、だ。
「おばさん、まだ知らないの?」
ハルは眉間に微かに皺を刻んだ、むしろ肉体的な痛みを覚えているのに相応しい面持ちで尋ねた。
「うん」
急速に罪悪感に落ち込んでいくのを覚えながら自分の手にまた目を落とす。
「髪を切って男みたいな恰好しているだけで普通に男が好きな娘だと思ってると思う」
どう見直したって、やっぱり全体に小さくて爪の丸っこい、いかにも子供っぽい女の手だ。
不器用で力もないからまともに釘も打てないし、男としては随分ものの役に立たない部類だろう。
*****
「ハル、大丈夫?」
店に入る前よりも雨が勢いを増した夜の路地。
これは俺一人でさしても小さめだとミントグリーンの折り畳み傘を心許なく思いつつ、自分より頭一つ分大きい相手の髪が濡れないように掲げる。
バラバラッと雨がミント色の生地に打ち付ける音が響いて、傘からはみ出たTシャツの肩や背中が濡れて張り付くのを感じた。
帰ったらすぐに脱いでシャワーを浴びなくてはならない。
だが、その前に明日も仕事のあるこいつを家まで無事に送り届けないと。
「飲み過ぎちゃった」
雨の中から聞こえてきた相手の声は寂しい。
手術の話の後はどうということもない世間話をした。
京都の雅希君に新しい彼女が出来た、今度は年上の院生らしい。
貴海伯母さんはこの前、健康診断で癌の疑いが出て再検査になったが、結果は無事で良かった。
大河先輩――俺には先輩でなく同級生だが――は今度アメリカに留学するそうだ。
後は空き時間によくやっているゲームやNetflixで観たドラマの話などだ。
むしろ、自分よりハルの方がよく喋ったのだけれど、青ざめた顔のまま明らかに飲むペースが上がったというか、料理はたまに摘む程度で酒をひたすら流し込んでいる感じだった。
「何か欲しい物あるか?」
濡れたアスファルトと砂の入り混じった匂いが立ち昇る中、自分の鈍さに舌打ちしたくなる。
やっぱりこいつは実の父親が死んでショックを受けたのだ。十九で両親とも亡くして心楽しい訳がない。だからわざわざ一緒に飲もうと呼び出したのだ。
それなのに俺がまともに受け止めようとせず、うかつに口を滑らせて自分の性別適合手術の話なんかしたからすっかり気分が悪くなったんだろう。
臓器を取り出すだの、性器の形を変えて作るだの、ホルモンの注射をするだの、特に自分の性別に違和感のない普通の人が聞けば、というよりこれから受けようとしている俺自身にとってすらグロテスクだ。
「大丈夫」
ミントグリーンの傘の下でいっそう顔の蒼白く浮かび上がって見える相手は憐れむ風に笑ってこちらを見下ろしている。
「でも、明日ちゃんと起きられるかな」
仕事帰りの黒の立襟ポロシャツを纏った幼馴染は自らの赤茶色の革靴の足に目を落とした。
これは通勤用に買った、恐らく安くはない物だろう。
こちらの気楽なゴムサンダルが後ろめたくなった。
と、濡れて貼り付いたターコイズブルーのTシャツの上から二の腕を掴まれた。
「ミオが起こしてくれよ」
冗談めいた調子だが、二の腕を掴む手は食い込むように強い。
“溺れる者は藁をもつかむ”
そんな言葉がふと頭を過った。
こいつにとって会社に遅刻するのは俺が大学やバイトに遅刻する比ではない死活問題なのだろう。
「明日、俺が七時くらいに電話……」
言い掛けた所で相手は制するようにきっぱりと告げた。
「俺んちの方が近いから今日は泊まってけ」
――シャーッ、バシャバシャ……。
紙を切り裂くのに似た音を立てながら卵色のヘッドライトを点けた自動車がすぐ脇の車道を通り過ぎていく。
「もう遅いし、雨も凄いから」
ハルの顔は影になっていたが、濡れた服の上からこちらの二の腕を掴んだ手は微かに爪を立てながら熱を帯び始めていた。
「いや、だって着替えとかないだろ」
傘をはみ出た背中はTシャツの下のブラトップまですっかり濡れて肌に貼り付いている。
今すぐ脱いで体を湯で流したい。
「俺の貸すよ」
顔を影にしたままの相手はカラカラと笑った。
「大は小を兼ねるから大丈夫」
返事を待たずにこちらの肩を引き寄せて車道に向かって手を上げる。
「タクシーで帰ろう」
こちらが返事をする前に申し合わせたように走ってきたタクシーが速度を落として近付いてきた。
やっぱりこいつは具合が悪いのだ。駅まで歩いて電車を乗り継ぐのもきついんだろうな。
青ざめて幽かに目の下に隈の浮き出た横顔から察しつつ答える。
「料金は俺が出すよ」
相手はこちらの背中を押しながら押し殺した声で返した。
「大丈夫だ」
*****
「ハル、階段上がるよ」
貸した肩にズシリと重たい物が伸し掛かるのを感じながらどこか虚ろな目でふらついた足を進める幼馴染に声を掛ける。
こいつの部屋は二階だが、こちらのアパートにはエレベーターがないのが呪わしくなる。
「七夕なのに散々だなあ」
こちらの肩に凭れ掛かりつつ雨に濡れた革靴で煤けたモスグリーンのリノリウムの内階段を昇りながらハルは微かな酒の臭いと共に乾いた笑いを漏らした。
「お星様キラキラどころかゲリラ豪雨とか爆弾低気圧って天気じゃん」
サーサーと幾分遠のいた雨音が入り口から濡れたコンクリートの匂いと共に聞こえてくる。
「梅雨時だからね」
本来の旧暦基準の七夕は一月ほど先の真夏の夜だが、今の暦だと夜となく昼となく雨の降り続く間の悪い時季に設定されてしまう。
「昔っから七夕、嫌いなんだよな」
血の気の引いたままの唇をした相手は雨音に紛らすように小さな声で呟いた。
「どっかから切ってきた笹に色紙で飾り付けして、短冊に願い事なんか書いても何一つ手に入らない」
どう答えれば良いのだろう。
それとも、返事など期待されていないのだろうか。
相手はそれきり口を噤むとこちらに凭れ掛かっているのか引っ張っているのか判然としない体勢のまま階段を上がっていく。
*****
「じゃ、お邪魔します」
鍵を開けてドアを開いた相手に無言で促されるようにして入る。
きっと今昇ってきた階段よりも蒸し暑いだろうという予測に反してひやりとした空気が脛の辺りを通り過ぎた。
――パツリ。
後ろで埋込スイッチを入れる音がして視野が明るくなると、三ヶ月前の引っ越しで手伝った時と比べていっそう片付いたというよりむしろ黄緑色の枕とシーツを施されたベッドと必要最低限の物しか置いていないような、妙にガランとした室内の風景が広がっている。
同時にこの部屋というかこのアパート特有の漆喰の匂いを含んだ冷気がより強まるようにしてさっと押し寄せた。
濡れたTシャツの半袖から抜き出た腕が粟立つ。
「ハル、冷房つけっぱ……」
言い掛けたところで背後から岩でも落ちてきてぶつかったような衝撃が走る。
え……?
「体を変えるな」
後ろからこちらを抱きすくめた相手はまるで外から聞き付けられるのを憚るかのように押し殺した声で囁いた。
「ハル?」
返事の代わりに雨に濡れて張り付いたTシャツの上からブラトップで平らに均した胸を押し出すように揉みしだかれる。
ゾワッと全身の毛が逆立つような震えが走った。
「やめろ」
もがいても相手の腕は堅牢な格子のように一回りは小さなこちらの体を捉えて離さない。
視野の中で一つしかない枕の置かれたベッドが大きくなる。
“矯正レイプ”
“強制性交”
切れ切れにそんな言葉が頭に浮かんだ所でドサリと視野が反転してベッドに体を投げ出された。
「何してんだよ、お前」
上から伸し掛かってくる相手を両手で押し戻しながら極力窘める口調で告げる。
ハルはきっと悪酔いしていて、自分が何をしているか分かっていないのだ。
「もう知ってるだろ」
黒い服を着て蛍光灯を背にして顔を影にしているために姿そのものが黒い影にしか見えない相手は嗤っているのか微かに震えた声で答える。
「ハルとは無理だよ」
言わなくてももう知ってるだろ?
「何が無理なんだ」
頬に鈍く重い衝撃が走る。
ハルが俺を叩いた。
「他の男とは付き合ったくせに」
もう片方の頬により強く重みを増した衝撃が来た。
一足遅れてカーッと熱い痛みが滲んでくる。
「女だから平手にしてやってる」
真っ黒な影になった相手から掠れた、しかし、奥底にゾッとするような憎しみを潜めた声が降ってくる。
「まだ男のフリするなら今度は拳でぶん殴るからな」
Tシャツの襟首を締め上げんばかりに捕まれて揺さぶられた。
じわりと両目が熱くなって体から力が抜ける。
そうすると、黒の影に飲み込まれるようにして覆い被さられた。
もう逃げられない。
殺されたくなければ、おぞましくても受け入れるしかないのだ。
よりにもよって、一番近くで理解してくれていたはずの相手がそんな牙を剥いてくる。
「今までもよくも……」
目を閉じても、こちらの切り揃えた髪をグシャグシャにしてくる手の感触と呟く声に含まれる恨みに組み敷かれた体が震え上がった。
「優しくして」
何て媚びた、弱々しい声だろう。
胸の奥にパチパチと屈辱が燃え始めたが、目を開けて相手の耳許でもう一度囁く。
「全部初めてだから」
すると、上から押さえ付けていた力が幾分和らいだ。
「美生子」
これは俺の自我や意思が生じる前に周りが張り付けた名だ。
と、思った瞬間、苦しい息を吐いていた唇を相手の唇で塞がれた。
酒臭い匂いと共に相手の舌が侵入して絡んでくる。
吐き気が喉の奥までせり上げるが、こちらは受け入れるしかない。
今しがた打たれたばかりの頬から項にかけて、まるで確かめるように撫でられる。
「ずっと好きだった」
それは、自分が消し去りたい女としての部分だろう。
ぞわぞわと悪寒で震える体をまた抱きすくめられる。
「昔から」
自分もそうだったらいいのに。
器に適した心が備わっていて、幼なじみの彼が好きだったら、自分自身にとっても都合が良いのに。
屈辱が燻る胸の奥に寒い風が吹いた。
器に沿わない心ならもう要らない。心に合わない器ならもう捨てたい。
どちらも叶わないのだろうか。
*****
アフターピルか。
締め切ったカーテンが白々とした朝の光を幽かに透かす自分の部屋でパソコンの画面を眺める顔が失敗したピエロの笑いを浮かべるのを感じた。
「心は男」と主張したところで、いざ本物の男から襲われれば「婦人科」から緊急避妊薬を買わざるを得ない。
それが自分の現実なのだ。
とにかく七十二時間以内に飲まなければならないので画面上で購入の手続きを急ぐ。




