22-1
残暑が残る日の落ちかけた5階にある団地の一室。一室の窓は黒く蠢き、まるで壁のようであった。
ぐずぐずにふやけて真っ黒に染まった畳の上でうつぶせで倒れている黒い2人分の”人型”。そこに
捜査一課の賀茂川はハンカチで口元を押さえながら、手袋をしてその人型に触れる。
「心中、だな」
後ろで部屋を調べている捜査官に顔を向けずに話す。
六畳一間の1Kの狭い部屋。人型は大小2つで並ぶように畳の上で横たわり、近くには薄汚れた”元”白封筒が転がっていた。
「生活を苦に、ね。まだ子供も三歳で可愛い盛りだろうに。なんで道連れにするかね」
賀茂川は遺書を見ながら、大きい方の人側に視線を落として呟く。
小さい人型に優しく寄り添うように膝を曲げて倒れている人型が、この遺書の書き主である母親であることは容易に想像することが出来た。玄関や窓は完全に施錠されており、人型の近くには錆びた包丁が転がり、そして遺書もある。誰がどう見ても母が子を道連れにした心中であった。
「よっし。こりゃあ、心中で決まりだな。規定通りやったら署に戻るぞ」
「賀茂川さん。少し気になることが」
「ん?」
キッチンの方を見ていた鑑識の1人が賀茂川へと話しかける。
賀茂川は手袋を外して帰る雰囲気をだしていたために、それを邪魔されたので怪訝な表情を浮かべる。
「どうした? 何か気になることがあるなら言ってみろ」
「あー、いえ。今回の事件に関係ないとは思うんですけど。ここの団地、嫌に事件が多くないですか? この前も別棟で殺人事件ありましたよね。ほら、あのストーカー男が住んでいた女を殺した事件」
「あー、あったな。でもここ、県営の団地だろ? 言い方悪いが、そんなこともあるんじゃないのか。元々この辺りは治安が悪いことで有名だろ。ほら、早く遺体を片付けて帰ろう」
賀茂川は適当に鑑識の言葉を受け流すと、この部屋から出るために後片付けを促す。
この心中事件を調べるためにこの部屋を訪れた人間は賀茂川も含めて5人。きっちりと紺の警察官の制服に身を包んだ4人と比べて、賀茂川はきっちりと折り目の付いたスーツに腕章をつけただけのある意味ラフな格好であった。賀茂川は4人に指示を出し、遺体を死体袋に詰めて担架に乗せて搬出する。テキパキと後片付けをし、不動産屋から借りた鍵で施錠をし、5人は賀茂川を先頭にエレベーターまで進む。だが。
「あー、担架のままじゃ入らんな。よし、抱きかかえて1階まで下ろすか」
「飯田先生にどやされますよ? 『遺体の扱いがなってない』と」
「仕方ないだろ。階段からも降りられないんだから」
昭和に建てられたこの団地に取り付けられたエレベーターは、すえた臭いがする古くて狭いエレベーターであった。大人5人が乗れるかどうか、程度の広さであり担架に乗せた状態だと扉が閉まらないのだ。かと言って階段も狭く急であり、結局の所エレベーターで無理をしてでも下ろした方がマシであると賀茂川は考えたのだった。
まずは子供の遺体、賀茂川、そして子供の遺体を支えるために2人。計4人がエレベーターへと乗り込んだ。実質大人3人と子供1人。かなり狭いが、なんとか乗り込んだ加茂川は1階のボタンを押した後に『閉』ボタンに手を掛ける。
「じゃあ、先に遺体を車に移してるから。成瀨、須藤、お前らも早く来いよ」
女の遺体を持つ部下の若い男性捜査員2人に声を掛け、賀茂川は閉ボタンを押し込む。
音もなくエレベーターの扉は閉まり、やや強めの揺れでエレベーターは下降していく。
5、4、3。
窓のない閉塞感のあるエレベーターは、ただただ過ぎ去る階を点滅で報せるのみ。
2、1。
音声案内と言った洒落たものなど付いておらず、1階に着くまでの短い時間であったが賀茂川は息の詰まる思いであった。
「よし、早いとこ車に積んでしまおうや」
加茂川たちは乗ってきたバンのトランク部へと遺体を乗せる。
エレベーターから駐車場に止めたバンまでおおよそ3分。遺体を積み終える頃には優に5分は経過していた。そろそろ後に残した2人が遺体とともに来ても良い頃である。賀茂川はポケットから煙草の『マイセン』を出すとライターで火を点ける。他の2人もバンに積んだペットボトルの飲み物を口にしてリラックスしている。そして賀茂川が加えた煙草がだいぶ短くなっても、後に残した2人がバンに来る気配がなかった。
「……おかしいな。遅すぎだろ」
煙草を吸い始めて5分程度。ここまでの移動時間を顧みても10分は待っている計算になる。加茂川たちがエレベーターで移動してから計測したわけではないが、それにしても時間が掛かりすぎていた。
痺れを切らして、賀茂川は煙草を携帯灰皿にねじ込むと様子を見に団地の中へと戻る。
(ちっ、何してんだ……?)
エレベーターを見ると、5階で表示が止まっていた。
賀茂川はエレベーターの『呼』ボタンを押し、腕組みをして到着を待つ。
5、4、3、2。
エレベーターは淡々と経過階を点滅で指し示す。そして表示は1階を指し示し、エレベーターは音もなく開く。
「うっ!?」
開いたエレベーターから嗅ぎ慣れた--鉄サビにも似た濃厚な血の臭いがあふれ出る。
そしてエレベーターの中には放置された遺体袋が床に転がっていた。賀茂川はゆっくりとその遺体袋に近づくと、足先でこづく。その遺体袋は当たり前のことだが、ぴくりとも反応しない。
(……おかしい。なんで死体の入った袋がこんな所に。しかも、なんだ。この血の臭いは。 っ、まさか)
賀茂川は遺体袋のジッパーに手を掛けると思い切り引く。
そこには先ほどまでの腐乱死体の姿はなかった。その代わりに見慣れた、先ほどまで遺体を運んでいた部下の1人である成瀨が詰め込まれていた。苦悶の表情を浮かべ、開いた口には歯も舌も引き抜かれたようになくなっており、ただただ喉奥までの暗い穴が広がるばかりであった。賀茂川はエレベーターから飛び出して階段で先ほどまで部下たちが居た5階を目指す。息を切らしながらも、5階に辿り着いた加茂川の目に入るのは先ほどまでと同じ寂れた廊下のみ。
(なんだ、何があいつらに起こったんだっ!?)
もう1人の部下と遺体。
すぐさま団地中を警察の総力を挙げて探したものの見つかることはなかった。そしてこの探索に参加した捜査員がまた1人、行方を眩ませたことで大騒ぎとなるのであった。




