20-5
鈴は古びた本の表紙を開き、1ページ目の文章を読み上げる。
その読み上げられた文章を聞いた瞬間、ジュリの鼻の中をツンとした鉄さびの臭いが充満する。痛みはなく、ただただ流れ落ちる鼻からの黒い血。1度体験したことではあるが、そう慣れるものではない。そしてそれに合わせるように部屋の真っ白な壁には墨汁でイタズラをしたかのように赤黒い血が滴り落ち始める。
(ああ、さっきと同じ)
電灯が明滅する度に、真っ白な地下室は異様な変貌を遂げていく。
壁や床が血に濡れて、至る所に血だまりができる。床や天井には蟻塚のようなものが出来、そこから腕ほどはある
ムカデや手の平大のゴキブリが這い出してくる。
そして 頭蓋に無数の蟻が入り込んで暴れるような、脳を直接触れられたような不快感。そして頭痛に襲われて膝を着く。
眼窩の奥で火花が飛ぶ。そして今度は痛みで意識を現世に保つために、口端を血が出るまで強くかみしめる。
『3月16日 ああ、今日もドネスティ副僧院長と言い争いをしてしまった。我が修道院でも免罪状を出そうというのだ、いつから、あのお方は世俗に塗れてしまったのだろう。質素貧廉こそが、我らの教えではなかったのか。毎日、毎日、主に問いかけるが答えは見つからない』
鈴が声高く読み上げる声がジュリの耳へと入る。
同時に先ほども見た砂嵐が視野の一部を覆っていく。砂嵐晴れると、そこには数人の修道士の姿。痛みのお陰か修道士たちが見えているは右目のみ。左目の視界には血溜まりを泳ぐ怪魚の姿を捉えていた。意識はゆっくりとだが、右目に映る映像――”幻視”へと傾いていく。
「兄さん、あの血溜まりの魚見えてる?」
ジョンはジュリの隣でショットガン”AA-12”を構えながら、無言で頷く。
ジョンもまたジュリと同じく、鼻血が流れて眼窩に巻き起こる火花の中に修道士たちの姿が見えていたが、火の付いたタバコを握りしめることで現世に意識を留めていた。
「ああ、さてここからどうする?」
「取りあえず、日記を読み進めて貰いましょう」
――ザザザ。
先ほどと違い、修道士たちはジュリたちに気づく様子はない。
モノクロの世界をジュリは見渡す。
『ああ、こんな……****』
『我々……だが、**……』
『*よ……救い……、ああ』
ぼそりぼそりと呟くような声。そのため、ジュリの耳には彼らが何を言っているのか聞き取ることは出来なかった。しかし、彼らの暗い表情を見れば楽しいことを話していないことは明白であった。
ふと、ここでジュリは疑問に思う。スペイン人たちが話している言語は、先ほどのジョンとリントのやりとりから見て恐らくスペイン語。スペイン語が分からないジュリであったが、彼らの言ってることが理解出来たのだ。
(まあ、都合は良いわね)
そんなことを考えながら、修道士たちを見つめるジュリ。
次の瞬間、再度右目の砂嵐に覆われ、別の場面が映し出される。
『5月7日 我らの主張は通らず。とうとうドネスティ副僧院長は我らの住処で堕落と欺瞞に満ちた免罪符を発行してしまった。ああ、ああ。主よ。主の汚れなき小屋は、汚泥と糞尿に塗れてしまいました。ああ、主よ。ただただ彷徨うか弱き子羊の我らをどうか導き給え』
――ザザザ。
『ふざけるな、……****ティ!』
『我々にとっては……、……財務は……なくてはならない』
『ドネスティ……。貴方は……、ああ、ここも……***』
『クラ***ィオ、……めろ!』
1人の修道士が別の――装飾があつらえてある修道服を着た男に詰め寄っている。
服装から詰め寄られている男は修道士よりも位が高いらしい。必死に周りの人間も食ってかかる修道士を羽交い締めにして止めていた。
(あの修道士、やっぱり”祝福されし仔ら”の)
モノクロではあったが記憶にある修道士の死人のような顔と違い、生気に満ちて――興奮のあまり、顔中の皮膚が引きつってはいたが。
じっくりとその様子を見ていたジュリの肩を突如揺さぶられる。
――ジュリの視界が暗転する。
「おい、ジュリ! 起きろっ!」
「はっ!」
ジュリの肩を揺さぶったのは隣に立つジョン。
ジョンは足下まで来ている血溜まり――今では小さな池ほどの大きさであったが、足下まで迫っていた。時折水面から覗く影はヤツメウナギにも似た細長い奇妙な怪魚。その怪魚がジュリの靴先に噛みつこうとするのを、ジョンはフルオートショットガンの弾を吐き出して守っていたのだ。
「兄さん、ごめんなさい。いつの間にか”幻視”に引きずり込まれていたわ」
「謝るのは良いから、早く身体を動かせ!」
ジョンは撃ちきったショットガンのドラムマガジンを池に投げ捨てると、すぐさま新しいマガジンを装填する。1度に32発リロードは出来るとはいえ、数が多くなれば対処は難しくなってくる。
ジョンのリロードの隙を埋めるようにジュリは身体を動かし、血の池に向かってチェーンソーの刃を突き立てる。その刃に触れた怪魚は衝撃でぶつ切りになりながら宙を舞う。
『6月22日……』
鈴が次の文章を読み始めた時にジュリは再度視界が霞掛かるのを感じるのであった。




