第16章-3
洗面所で倒れていた奈緒は、まぶたに感じる明るさから目を覚ます。
奈緒が気がついた時には、既に辺りが明るくなっていた。
「痛……」
急いで立ち上がると、洗面台の鏡で首筋を確認する。
そこにはくっきりとした青アザが、手形の形となって残されていた。
「ウソでしょ……」
嫌な汗が流れる。
そして訪れる昨夜の出来事が現実であるという実感と無残な姿となった友人の姿が脳裏に焼き付いて離れなかった。
さらに気がつくと首筋と手首がじくじくと痛み、火傷をしたかのように熱をもつ。
しばらく呆然としていたが、ふと必修の講義があることを思い出す。
慌てて時計を確認すると、講義までギリギリの時間であった。
「やばっ、もうあの講義の出席数ギリギリなのに」
急に現実へと引き戻された奈緒。そして出席日数という別の恐怖から急いで身支度を整え始める。綺麗に整頓されたアクセサリー箱からお気に入りのイヤリングを選ぶと耳につける。月の形をしたそれは、耳で跳ねるように動く。
そして首筋と手首をシャツとマフラーで誤魔化し、急いで家を後にした。
*
「えーっ、アグロバクテリウムを用いて、有用な目的の遺伝子配列と植物での選択マーカー遺伝子をT-DNA内に挿入し、それを植物細胞の核ゲノムに挿入させるという……」
講義室にてスクリーンに写る資料を指しながら説明をする老教授。
その説明を奈緒は友人たちと講義室の最後列で聞きながらノートにメモを取る。
「ねっ、奈緒。なんでマフラー取らないの?」
友人の1人が奈緒に小声で奈緒に疑問を投げかける。
講義室に入ってから、ずっと奈緒はマフラーを外そうとしなかったからだ。
「んー、ちょっと寒くって」
「えー? 暑いぐらい暖房が入ってるのに、奈緒ってそんなに寒がりだったっけ?」
奈緒は適当に友人と会話をはぐらかしながら、講義に集中する。教授が『ここ、重要だからねぇ』と言ったところには蛍光ペンで強調し、後で見返しやすいノートをまとめ上げる。
そうして講義も終盤に入った頃にふと、講義室の前のほうに座るジュリの姿が目に入った。
『あ……』
ジュリもまた真剣そうな眼差しで講義を受けている様子であった。
その姿を見て、少しだけ鼓動が早くなる。
『このあと、謝りに行こう……』
そう考え、奈緒が残りの講義時間を見るために腕時計を見た瞬間に鋭い痛みが首筋と手首に走る。
同時に聞こえてくる声。
「なんでぇ、アタシぃ……だけぇ」
「ひっ」
昨夜の恐怖が蘇る。小さく悲鳴を上げて辺りを何度も見回す。だが、その声の主である紫苑の姿はない。
奈緒の突然の様子に、友人が心配そうに尋ねる。
「な、ナオ? どうかしたの?」
「い、今、紫苑の声が……」
「……は? 紫苑は半年前に死んで」
「でも、聞こえたの」
「ナオ、あんた本当に大丈夫? 医務室についていくよ?」
心配そうに奈緒を見つめる友人。一方で奈緒は首筋と手首に熱い鉄棒を押しつけられたかのような痛みを感じていた。
「痛い……」
奈緒は痛みから涙が零れ、そのまま長机へと突っ伏してしまう。
そんな奈緒の耳に”足下”から声が聞こえた。
「なんでぇ、アタシぃ……だけぇ」
「っ……!?」
恐怖のあまり声も出せない。いつの間にか足下に居た紫苑と目が合う。
紫苑は頭蓋は砕けて右の眼球は垂れ下がり、皮膚が裂けて鮮やかな紅とぶにぶにしたピンクのまだら模様に染まりつつも笑顔で奈緒を見ていた。
「なんでぇ、アタシぃ……だけぇ」
咄嗟に紫苑から離れようと立ち上がった奈緒。
その弾みで奈緒の座っていたイスが倒れ、静かな講義室に大きな音が響く。
「えっー、そこの君、静かにしなさいよ」
「す、すみませんっ!」
そう言いながら奈緒は自身のバックをひったくるように掴むと、広げたノートや筆記用具をそのままにして講義室を飛び出した。
「ちょっと、ナオ、どこ行くのっ!?」
「……?」
その様子を見ていたジュリは疑問符を浮かべながらも、奈緒の背をそのまま見送るのであった。




