砂の朝、白い手紙
最後の朝は、穏やかだった。
窓を開けると、砂漠の朝の光が部屋に入ってきた。白い光。砂が反射する光は、王都の朝日とは違う角度で入ってくる。低くて、広くて、まぶしい。目を細めると、光の粒が睫毛の間で弾けた。空気はまだ冷たい。砂漠の朝の、冬のような涼しさ。
マリアが茶を持ってきた。最後の朝だから特別な配合かと思ったが、いつもと同じカモミールとミントだった。マリアらしい。最後も最初も同じ。安定が、この人の愛情の表現だ。カップの温度も、注ぐ量も、毎日同じ。
「おはようございます、リゼロッテ様」
「おはよう、マリア」
テラスに出ると、ルーカスがもういた。パンの切れ端を齧っている。隣にカップ。マリアが淹れた茶。ルーカスの分はミント少なめだと、マリアが数日前に調整した。この人がミントを苦手だと言わなかったのを、マリアが味の反応から読み取ったのだ。
「朝だぞ」
「ええ、朝です」
同じ挨拶。離宮のテラスで交わしたのと同じ言葉。でも場所は違う。関係も、少しだけ違う。昨日の夕方、告白の返事をした。好きだと言った。ルーカスは「そうか」と言った。それだけだ。それだけで十分だ。
朝食を済ませた後、荷物をまとめた。鞄の中に、石板の翻訳の写しと、母の書簡と、市場で買った砂漠百合の壺を入れた。マリアが香辛料の紙包みを丁寧に布で包んで、鞄の隅に押し込んだ。ルーカスは剣を鞘に収めて、背中に固定した。
ナディアが見送りに来た。白い亜麻布の服。いつもと変わらない。でも目が少しだけ赤い。
「また来てください」
「ええ。門の管理は、対等な取り決めとして」
「取り決めとしてだけでなく。個人としても」
ナディアが微笑んだ。研究者の笑みではなく、人の笑みだった。握手をした。手が温かかった。
ハーリドも来た。平服。護衛なし。
「良い旅を」
「お世話になりました。砂漠百合の壺、大切にします」
「あの壺は五十ダルハムですよ。市場で値切りましたか」
「値切っていません」
「次は値切ってください。それがこの街の礼儀です」
笑った。ハーリドの笑みは、今日は計算ではなかった。少なくとも、計算だけではなかった。
馬車に乗った。マリアが茶箱を足元に固定する。ルーカスが向かいの席に座った。いつもの配置。
馬車が動き出した。ザハラの白い壁が、ゆっくり後ろに流れていく。市場の喧騒が遠ざかる。香辛料の匂いが、砂の匂いに変わる。
鞄の中で、手紙を一通書いた。エルヴィラ宛ではない。セレン宛でもない。フリードリヒ宛だ。
『フリードリヒ陛下。ロストリアの調査は終わりました。ブランシュ家の紋章と王家の結界の関係について、重要な事実が判明しました。詳細は帰国後にお伝えします。なお、結界管理局の魔力増幅装置の提案は辞退しました。今後のブランシュ家の立場について、陛下とお話しする機会をいただければ幸いです。リゼロッテ・ブランシュ』
書き終えて、封をした。白い便箋に、個人の印。母と同じことをしている。情報を整理して、必要な人に必要なだけ渡す。守るべきものは守り、返すべきものは返す。
窓の外で、砂漠が広がっている。朝の光が砂丘を金色に染めている。帰り道は、行きより短く感じるだろう。でも帰る場所は、出発した時と少しだけ違う場所になっている。離宮はそのままだ。エルヴィラがいて、庭師が水を撒いていて、薔薇が咲いている。でも私が変わった。
ペンダントに触れた。金属は砂漠の朝の光で温かい。母の紋章。鍵であり、契約の証であり、道標だった。今は、それに加えて、私自身の選択の記録でもある。ここに来たこと。残ったこと。開けたこと。返したこと。渡さなかったこと。すべてが、この紋章の中に重なっている。
ルーカスが向かいの席で目を閉じている。起きている。馬車の揺れに身体がバランスを取っている。
「ルーカス」
「何だ」
「帰ったら、テラスで紅茶を飲みましょう」
「ああ」
それだけの約束。それだけの未来。大きなことは約束しない。小さなことを、一つずつ。テラスで紅茶を飲む。それだけでいい。その先のことは、テラスに座ってから考える。
砂漠の朝日が馬車の窓から差し込んで、二人の間に白い四角形を作った。光の中で、埃の粒子がゆっくり舞っていた。馬車が揺れるたびに、光の四角形が少しずつ動く。ルーカスの膝の上に移って、私の手の上に移って、また窓の方に戻っていく。
ペンダントを握った。温かい金属。母の紋章。鍵であり、契約の証であり、道標であり、そして今は、私自身の物語の一部だ。




