022 刻印魔術
「あんた、頭大丈夫?」
呆れたように女砲兵が言った。
「こっちは本気だよ! それともあたしら魔女だから信用できないってのかい?」
「教会の連中はそう言っているらしいね」
と、女砲兵が言う。
「でも、あたしは信仰心が薄いからよくわからないね。あたしも連中のことはあまり好きじゃない。なぜかって、あいつらは科学を嫌っているからね? 科学を悪魔の術だと言う奴までいるんだ。ああいう連中とは一緒に酒が飲めない」
「へえ。あんたも教会が嫌いなのかい。そこの部分は一緒だねえ」
「さて、階段を探しましょうか」
会話が一段落したところで、アルブレヒトが言った。
忘れてはならないのは、ここはまだ地下一階なのだ。
「これで地下一階だとすると、奥はどれほど恐ろしいのやら……」
女砲兵の気が滅入るのも無理はない。
黒水晶の迷宮は全部で百階ある。
たった地下一階でこれだけ手間取っているのだから、迷宮を踏破するのはどれだけ大変なことなのかわかる。
「もっと急がないといけないわよ。一階でこんなに手間取っていたんじゃあ、とてもじゃないけど百階までたどり着くことなんてできないわよ」
と、愚痴りながら角を曲がる。
すると、床に赤い染みが広がっているのが目に飛び込んだ。
フアナは赤い染みを凝視した。
「カリアナ! こっちに来るんじゃないよ!」
フアナは叫んでいた。
母親として、このようなむごい光景は見せたくなかった。
赤い染みは、人間の血だった。
死体が転がっていた。
生きているかどうか確認するまでもない。
身体がばらばらにされていたからだ。
「あんた、平気なの?」
アルブレヒトは死体を凝視している。
「さすがライトゲープ伯を倒しただけあって、度胸が据わっているね」
平気ではない。
表情に出さないだけだ。アルブレヒトだって、
(死体なんかみたくない……)
一度は死んだも同然の身なのだからなおさらイヤだ。
地下一階で、この惨状だ。
下に降りれば、もっと残酷な光景を目の当たりにすることになるだろう。
「こりゃあヤバいね……」
「あんた、傭兵だろう? 死体は見慣れているんじゃないの?」
とフアナが言うと、
「死体を見慣れているから怖いのさ」
と、女砲兵は答えた。
「あたしたちは仕事で戦っているんだ。べつに敵が憎いわけじゃない。だから、必要以上に相手を痛めつけるなんてことはしない。それにあたしたちの相手は人間ばかりで、化け物と戦ったことはない。こんな無残な死体、戦場でも見たことがない。でも、この殺し方は尋常じゃない。あきらかに人を殺すのを愉しんでいるよ。こいつはたいへん危険だよ」
一方、カリアナに寄り添っていた子供はというと、驚いたことにバラバラ死体に近づいたのだ。
死骸の破片に触ってなにやら探している。
血が手足にこびりつくのを恐れていないのだ。
予想外の行動に、最初は子供を嫌っていたフアナでさえ心配になった。
「どうしたの? なにを探しているの?」
と心配そうになった。
「ご飯を」
と、子供が申し訳なさそうに言った。
「みんな飢えなくて住むとおもったから。吸血鬼は血をご飯にしているんでしょ? だから、ご飯は置いていったままだと思って……」
そう言って、血だらけになるのも嫌がらずに死体に触れて、食料がないか探し回っている。
「そんなことしなくてもいいんだよ」
女砲兵があわてて子供の肩をつかんだ。
「健気だね。あんたがいじめるせいだよ」
すっかり悪者扱いされたフアナは黙るしかなかった。
手にこびりついた血を舐めていた。
その目は妖しく光っていた。
それに気づいていたのは、アルブレヒトただ一人だけだった。
不意に、
「ひいいいいっっ!!」
前方から悲鳴が聞こえてきた。
剣士が叫びながらこっちに走ってくる。
「寄るなぁ! こっちに近づくなぁ!」
剣士は短剣に肩に小さい盾をつけていた。
抜き身の剣を振り回して襲い掛かってくる。
「あれは……」
「吸血鬼じゃないのに……。どうして?」
カリアナが怯えたように言う。
「さてね。でも、放っておいたらこっちがやられちまう」
女砲兵が大砲を向けようとすると、
「待った!」
アルブレヒトが手で制した。
「よく様子を見るんだ! 俺たちを殺そうとしているわけじゃない! 恐慌状態だ! おそらく吸血鬼に魔法をかけられて我を忘れている状態なんだ!」
「だからって、このままだと斬られるだろうが!」
「ここは俺にまかせて」
指で虚空に文字を書いた。
すると空にかかれた文字が七色に光る。
宙に、光の輪が浮かび上がった。
光の輪が、輪投げのような軌道で飛んだ。
剣士の身体を縛り上げた。
「ぐううう……」
縛られて抵抗できなくなっても、なおも足をバタバタとさせている。
女砲兵が目を瞬かせた。
「あんた、魔術師だったのか?」
「ええ」
「呪文を詠唱しないのに、どうして魔術が発動するんだい?」
「刻印魔術ですよ」
指を刻印を書いたのである。
詠唱する呪文にくらべて、あまり高度な呪文は使えない。
その代わり、早い。
一般的なレベルの敵と戦うには向いている、
魔術はイメージの力が源泉である。
声にだして詠唱する一般的な魔術よりも集中力を要する。
「魔術師としての腕はあたしよりも数段上のようだね。ティターンの王立魔術院を出た魔術師なの?」
「いいえ。民間の魔術師です」
「だったらよっぽどいい師匠がついていてくれたんだね。魔術は独学で学ぶのは至難の業だから」
女砲兵は心から感心している様子だった。
「アルブレヒトさえいれば吸血鬼が百匹いても怖くないよ!」
フアナはアルブレヒトの背中を叩いた。
しかし、アルブレヒトは冷静だった。
「それはどうでしょうね」
「ん? どういうこと?」
「光の輪程度では吸血鬼の群れに勝てないと思う」
すっかり恐慌状態に陥った戦士だから、どうにかなったのだ。
混乱しているわけだから、光の輪が飛んできても何の対処もしないのだ。
歴戦の戦士なら、何かが飛んできて対抗策をとらないわけがない。
剣で光の輪を切ることも可能だ。
ライトゲープ伯ユリウスのような剣術の達人が相手だと、まず通用しない。
アルブレヒトは、フアナの褒め言葉を額面どおりには受け取らなかった。
つまりは、
(面倒なことはすべてアルブレヒトに押しつける……)
つもりでいるのだ。
不知火凶は裏切られた。十五年間も内臓迷宮として過ごしてきた。
もはや異世界にくる前の素直でおとなしい不知火凶ではないのだ。
先ほど魔女も魔術師も関係ないとアルブレヒトは言った。
しかし、これはこれ。それはそれ。
かつての性格がいいだけの臆病な不知火凶ではない。
裏切られて十五年迷宮として過ごしたという経験が、容易に人を信じない性格に変えたのだ。
「この人、どうする?」
カリアナが不安そうに言うと、
「ほっときゃいいんじゃないの? 助けたって一文にもならないんだし」
傭兵らしい合理的な回答をした。
「そうもいかんでしょ」
反論したのはアルブレヒトだった。
「吸血鬼に見つかったら殺される。べつに本気で俺たちを殺そうとしたわけじゃないんです。魔術で混乱しただけだから、このまま放っておくのは可哀相だ」
「だったらあんた治してあげなさいよ」
フアナが言っても、
「俺は魔術師だから。混乱を解く魔法ってのはないよ」
と言うと、
「じゃあ、放っておきましょう。自己責任だよ」
「みんな先に行ってください。俺はここに残ってこの人を守ります」
「あんた、本気かい!?」
「個人差もあるけど、三十分かからずに正気に戻るでしょう。その間に吸血鬼に襲われたらこの人は終わりですからね」
「冗談じゃないよ!」
フアナが怒鳴った。
ここでアルブレヒトと別れるわけにはいかない。
フアナはあくまでもアルブレヒトに戦ってほしいのだ。
ライトゲープ伯を倒したばかりでなく、今の刻印魔術で出場者を傷つけずに縛り上げたのだ。
間違いなく役にたつのだ。
しかも、子供である。
大人は裏切るかもしれないが、子供は嘘をつかないと、フアナは考えている。
しかし、アルブレヒトも譲らない。
「予選は一週間以内に最下層まで行けばいいんだ。極端な話、全員でゴールしたっていいんだよ。フアナさんの目的は国王に会ってそのハーレムに入ることですよね? だったら慌てる必要はないでしょう」
「そうだけど……」
「お母さん」
カリアナが前に進み出た。
「だったらいまここで治療した方が早いんじゃないの?」
「カリアナ、あんた……」
カリアナが杖を一振りすると、妖精が現れた。
妖精はひらひらと飛んで、錯乱状態に陥っているジュリアーニの鼻先に止まった。
すると、妖精はシャボン玉のように弾けて、狂気に陥っていた剣士の目に光が
戻った。
癒しの妖精である。
読んでいただいてありがとうございました




