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剣聖将軍記 ~足利義輝、死せず~  作者: やま次郎
最終章 ~天下泰平~
202/203

第十七章 四国遠征 ー疑念と謀略の渦巻く南海道ー

永禄四年(一五六一)十月

阿波国・勝瑞城


 ついに征夷大将軍・足利義輝による四国遠征が始まった。天下の副将軍・三好修理大夫長慶と共に畿内を一つに纏め上げた義輝は、この日ついに海を渡った。総勢三万七〇〇〇もの軍勢であり、これに四国の三好勢一万五〇〇〇が合流し、都合五万二〇〇〇で四国を平定する予定だ。


 その中核となるのが天下一の大大名である三好家であり、その三好の四国に於ける根拠地となるのが阿波の守護所を司る勝瑞城である。元は阿波細川氏の城であったが、今は長慶の実弟・三好豊前守実休が治めている。


 その勝瑞城に大三好の当主・長慶が堂々の凱旋を果たした。細川家の家臣として波乱万丈な人生を歩み、父祖が志半ばで倒れ、一時は長慶自身も没落しても不思議ではなかった。それが畿内の実力者となり、更には副将軍職を拝命しての凱旋である。長慶の城というと越水城という印象が強いが、四国に於ける三好の拠点は実休のいる勝瑞城である。長慶は在京して幕政を担う必要もあったために、久しぶりの帰国となる。その三好棟梁の帰国に四国で主に活動する三好家臣団からは、一斉に歓声が沸いた。


「よくぞここまで四国をまとめた。流石は我が弟ぞ」


 その様子に凱旋した長慶は、開口一番に弟を褒めた。


 長慶が知る勝瑞城は、細川の城だった。如何に有力家臣だったとはいえ、実休は主君・持隆を謀略の末に殺害しており、阿波統治の名分として子の真之を擁立していた。その方針は乱世に於いては常道であったものの長慶の副将軍職就任で大きく転換された。義輝が細川晴元へ討伐令を出し、その血縁者である真之を否定したからである。


 これにより阿波守護家である細川家は没落し、新たな阿波守護として実休が選ばれ、晴れて阿波守護・豊州三好家が誕生したのである。


「これも全て兄上の御力によるもの。我ら三好がこうして日の目を見られるのも兄上の御蔭にござる」

「なに、今の儂は上様あっての儂よ。上様が世に道理を定められた。徐々に天下に秩序が戻りつつある」

「然様ですな。されど孫六郎のことは残念にござった」

「……そうだな。畠山が降伏した後であったことが幸いであった」


 今年の四月に長慶たちの実弟・十河孫六郎一存が病死した。


 近隣から‟鬼十河”と恐れられた一存は長慶からの信頼が厚く、対畠山の抑えとして泉州・岸和田城を拠点としていた。畠山が降伏した後でなければ、三好の支配を大きく揺るす事態に繋がったはずだ。


(上様は時がないとして、儂に畠山攻めを急がせた。結果としてそれが幸いしたが……)


 畠山は内訌が著しい大名であり、三好と共闘していた時期があるが、三管領の家格は成り上がりを許せるほど寛容でなかった。その畠山を幕府のお墨付きを得て降伏に追い込めたことは畿内の安定に繋がり、現在の四国遠征に至っている。


 それも思い返せば全て綱渡りだ。義輝の指図がなければ、こうも上手くは運ばなかっただろう。


「兄上、孫六郎の死が弾正の仕業との噂があるが、真ではあるまいな」

「ああ、あれか。そなたまで莫迦なことを申すな。確かに孫六郎と弾正はそりが合わなかったことは事実だが、弾正の仕業というのは飛躍のし過ぎだ。孫六郎は瘧によるものと聞いておる」

「なれば良いが、このような噂が流れること自体、弾正の素行に問題があるということ。この四国では好きにはさせぬ」

 

 と兄の目の前でも松永弾正久秀に対して敵愾心を隠そうとしない実休であったが、こうやって本音を吐露できるのが三好兄弟の良いところだと長慶は思っているため、咎めはしない。そもそも久秀自身、長慶の兄弟らとはお世辞にも仲が良いとは言い難い。最初は長慶も間を取り持とうともしたが、いつまで経っても改善せず、もはや諦めの方が強い。


「四国のことは豊州に任せておるが、あまり上様を困らせるなよ」

「ははは、近頃の兄上は何事につけても口を開けば上様、上様よな。以前とは大違いだ」

「阿呆!上様のことを然様に申すでない。……が、そのように豊州は申すが、変わったのは儂ではなく上様よ。以前はあれほど肝は据わっていなかった」


 軽口を叩く弟を叱りつけるも、義輝が変心した理由は今も判っていない。


 以前より長慶は世の中に道理を定めんと戦国乱世を必死に生きてきた。畿内随一の実力者にまで昇り詰め、一時は義輝不在の京を拠点として幕政を牛耳ったが、三好が天下に認められることはなかった。世間の三好を見る目は常に‟簒奪者”であり、中には世を乱す元凶と断じる者までいる始末だ。


(何も判っておらぬ)


 そう何度も嘆いてきた。


 正当な幕府の後継者である足利義冬を将軍の座に就けんと奔走し、仕えるべき主君の騙し討ちに遭い非業の死を遂げた父・元長、その父の仇敵と知りながらも細川晴元に仕え、臥薪嘗胆し続けた長慶だ。乱世の業を打ち砕かんと生きてきて、一時は諦めかけていたものが義輝の変心により再び光を得た。


 義輝は自分の暗殺を試みたことがある。されどそれも一部の幕臣の暴走と考えることは出来る。当時の義輝の年齢は十代と若く、しかも幕臣を統制できないほど将軍権力は脆弱だったからだ。ただ反三好である細川晴元や六角義賢に支えられ、育てられていた義輝が、どうして変心したかは判っていない。義輝にとって三好長慶という人物は、将軍権力を妨害する諸悪の根源であったはずだ。


 上様は‟つまらぬ意地の張り合いで天下を騒がせることはない”と申された。もはや迷いはないと決めたのだ。儂も平島公方様を奉じることは、もはや考えていない。‟理世安民”を歪めてしまうからだ。


「此度の四国遠征は好機だ。これほどの大軍なれば、一挙に四国全域を平定することも難しくはない。上様も四国を平定なさるつもりで親征を御決断されておる」


 故にこそ長慶は固い決意をした上で四国遠征に臨んでいる。


 四国は阿波、讃岐、伊予、土佐に分かれる。阿波こそ三好で統一されているものの、隣国・讃岐には東讃が三好に従う一方で西讃守護代の香川氏の当主・五郎次郎之景は反三好の急先鋒であり、独立を貫いている。


 伊予では守護の河野氏、宇都氏、西園寺氏の三者が大きな力を持って争っていたが、三好の勢力拡大に河野氏は誼を通じてきており、近年は河野当主の通宣が中風にかかっていて家中は揺れているも、幸いにも元当主の通直が生きており、通直は幕府相伴衆に列したこともあり、幕府方だ。また宇都宮豊綱は土佐一条氏と結んで勢力拡大に勤しみ、西園寺実充は嫡男の公高を宇都宮との合戦で失ってからは後継ぎのいない状態が続いている。そして土佐は守護の細川氏は没落していたものの一条氏のを含め土佐七雄と称される者たちが力を有していたが、現在は一条氏、長曾我部氏、本山氏、安芸氏と大きく四者が主に大きな勢力を持ち割拠していた。


 その中でも一条氏は公家最高峰である五摂家の出自であり、その血統から土佐の盟主的存在であった。現在の土佐は長曾我部と本山が激しく争っており、過去は本山氏が長曾我部を討ち滅ぼすに至るも一条氏によって再興されて近年は融和が保たれていたが、最近になってまた争い始め、形勢は次第に長曾我部側へ傾いていった。土佐一条当主の兼定は土佐の安定を図って本山氏を支援すべく安芸氏と結託し、長曾我部に圧力をかけており、長曾我部側も一条氏の存在は無視できず、表向き上手く付き合いながら本山氏を追い込んでいった。当の兼定自身も長曾我部に注力すれば良いところ伊予にも関心を持っていたため、二方面へ戦線を拡大してしまい、長曾我部がじわじわと版図を拡大していっている。


 と混迷の最中ではあるが、特出して大きな勢力は存在しない。もし三好が畿内を無視できれば、それこそ四国平定は時間の問題だったであろう。そして畿内の問題が片付いた今、この遠征を邪魔する者はいない。


「つまりは四国には余に抗することの出来る存在はいないということだな」


 そのことは義輝も理解しており、改めて軍議の場で三好方の報告により四国の情勢を認識した義輝の表情は、まさに余裕そのものだった。以前の義輝しか知らない者にすれば、見違えるような姿だろう。自信に満ち溢れ、覇気を纏い、三好の者たちに親しく語り掛ける様子は、これまで幕府を目の敵にしてきた者たちの心を氷解させるのに十分であった。


(これが天下の戦なのだ。一大名同士の戦とは訳が違う)


 三好単独で戦わなければならなかったこれまでと、将軍という大義名分があるのは違う。そもそも伊予だろうが土佐だろうが、あくまで一国の中での争いである。将軍家単独で山城、近江、若狭を支配し、京畿十カ国に支配権、影響力を及ぼす三好家が組んでの遠征である。天下広しと言えども、この大軍勢に敵う者などおらず、長慶や義輝から見れば四国の大名たちなど有象無象としか思えなかった。そして四国が平定されれば、次は中国、九州、東国だ。その時の数は十万を優に超えているだろう。恐らく誰も勝てない。


「然様にございます」


 お互い勝利を確信したのか、義輝は長慶に視線を送り、共に満足気な笑みを浮かべた。


「四国に干渉できるとすれば中国の毛利でございますが、今や宿敵の尼子を滅ぼさんと出雲へ攻め入る気配を見せており、毛利にしてみれば手を緩めることはしたくないと考えているはずです。こちらへの干渉はありますまい」

「うむ。陸奥守は一度、大内と共に行った月山富田城攻めで痛い目に遭うておる。いま尼子攻めの手を緩めれば、途端に息を吹き返してくることを一番に恐れておろう」


 義輝の指摘に全員が首を縦に振って頷いた。


 いま中国では新興勢力の毛利陸奥守元就が尼子義久を追い詰めていた。大大名であった大内氏を滅ぼした毛利は安芸・周防・長門と制し、今や備後や備中にも影響を及ぼし、銀山を有する石見をも掌中に収めつつある。その勢いは旭日の如くである。


 加えて元就は毛利の立場を向上させるべく後奈良天皇崩御に伴い、新帝即位に即位料・御服費用を献金し、当人は陸奥守、嫡男で家督にある隆元は大膳大夫に任じられた。幕府にも相応の献金あり、義輝としてもこれを評価しない訳にはいかず、安芸守護職に任じたため、毛利は正式に守護大名に昇格していた。


 しかし義輝は毛利を安芸以外の守護職や相伴衆への就任という幕臣たちの声が多かった中、反対の意を示して安芸守護職のみに留めていた。


(以前の上様なら地方で力を持つ大名を取り込むことに躍起になられていた。伊達に奥州探題を与えたり、長尾や織田を守護に昇格させたりしているが、毛利に対しては一定程度を認めるに留まっておる)


 義輝と共にいることの多くなった長慶は、義輝の考えがある程度は理解できるようになっていた。毛利と尼子の対立については、以前までは毛利寄りの発言が多かったが、長慶を副将軍に任じて以降は尼子寄りの発言が多くなった。毛利は大内を滅ぼしたとはいえ、防長二カ国の毛利支配は脆弱としか言い難い状態だ。その状況で石見に進出し、何度も尼子に撥ね返されていた。近年、尼子晴久が死去して以降は再び毛利が攻勢を強めているが、まだ義輝が認めることが出来るのは安芸一国に限るというのが、幕府の公式見解である。


「毛利の勢いは凄まじいが、尼子とて出雲・伯耆・備中・美作を残しておる。意地もあろう。まだ数年は尼子一手で毛利を抑えられるはずだ。それに毛利へは尼子と和睦せよと命じる。素直に従う陸奥守ではなかろうが、少なくとも今よりは毛利の勢いが鈍るはずだ」


 そう義輝はこの場でも己の考えを告げている。長慶の推測が正しい証だった。


「修理大夫、余の考えが判るか?」


 唐突の問いであったが、長慶は淀みなく己の考えを披露した。


「窮地に陥いる尼子は建て直しが急務、上様からの和睦仲介は願ってもないことかと存じます。されど毛利としては一挙に出雲へと攻め入りたいところでしょう。防長を制し、石見でも有利を保てているのは毛利が勝ち続けているからに他なりませぬ。少しでも攻勢を緩めれば、尼子や大友からの調略に靡く者も出てくるはずです。それに某は毛利に上様への忠義ないと見ております。必ず難色を示し、上様の意にそぐわない行動に出るはずです。四国を平らげれば、その事を理由に如何様にも処分できましょう」

「流石は修理大夫よ。余の考えと寸分の違いもない。陸奥守は余を上手く利用しておるだけよ。将軍たる余であれば大義名分など、どうにでもなるが、それでは世の道理に(もと)る。もし毛利が余の命を守るなら今の所領くらいは認めてやっても良いが、意に反するなら処罰する。修理大夫、余の考えは間違っておるか」

「いえ、道理に適ったものかと存じます」

「ならば毛利への圧力をかけるため、伊予を先んじて攻める。土佐はそれからよ」

「ははっ」


 基本的な方針が告げられると軍議は一旦は解散となり、各自で陣立てを組み、出陣に備える。予め決められていることもあり、また実休の差配が行き届いており、長慶は然程に忙しくはなく、少し暇を持て余していた。


(さて、今からじゃという時に、少し身体が気怠いのう)


 違和感という程度であるが、長慶は身体に不調を感じていた。このところ続いている症状だ。以前ほど身体が軽くない。故にこそ今回の遠征は嫡男・義興に功績を挙げさせるため、自身は義輝と共に後方に位置すると決めていた。


 その最中で三好家の家宰である久秀が主君を尋ねてきた。


「御屋形様、公方様は此度の四国攻めはどのように決着されるおつもりなのでしょうか?」


 久秀の疑念は義輝の四国平定後の国割りについてだった。


 将軍山での和睦に反対して以来、久秀は義輝の変心を快く思わず、長慶に義輝の考えを聞いて来ることが多くなった。その度に義輝の方針へ反した意見を伝えてくることが多く、辟易している長慶であるが、命じた実務は忠実にこなしてくるため、長慶も久秀を遠ざけることなく、今も家宰の任を外すことなく用いている。


(とはいえ、近頃の弾正は過激な発言が目に余る)


 当初は義興の後見役を久秀に任せるつもりであったが、こうも義輝を敵対視する以上は相応しくないと考えるようになった。幸いにも義興は中道的な考えをしており、義輝に対して表立って批判的な考えを述べることはない。しかし、久秀を後見役とすれば、必ず久秀の意見に流されるようになるのは目に見えている。


(ちょうど良い機会よ。儂の隠居と共に弾正も隠居させよう)


 四国さえ平定すれば、幕府は安定する。それなが義興が三好家を差配しても問題なく、これまで通り実休に四国を委ね、畿内の三好領を義興が差配し、中間の淡路を下の弟である安宅信康が両者の連絡役になることで、調整は効く。久秀は子の久通が大和、久秀の弟である内藤宗勝が丹波を支えることで、三好の統治も安定するはずだ。


 とはいえ、その考えをここで披露するのは早い。一先ず長慶は久秀の質問に答え、話を続けた。


「伊予は守護の河野がおる故、河野を中心にまとめる予定だ。西園寺はともかく宇都宮は討つか降すかして所領は減らすだろう」


 伊予西園寺氏は義輝の将軍就任時に上洛して太刀を献上したという過去があり、その実績を義輝も無視は出来ない。恐らく下手な抵抗すらなければ所領安堵を得られるはずだった。河野も伊予を安定させられなかったという理由で減封させる考えに義輝はあるが、これは公にしていない。幕府との繋がりが一番に薄い宇都宮に関しては、正直に見せしめで所領召し上げが確実だった。


「土佐は如何で?」

「朝廷への遠慮もあるが、一条には手は出せぬ。土佐は争乱の元凶たる長曾我部を討って終いだろう。流石に全てを平らげるには時も兵糧も足りぬ」


 幕府勢は三好と合わせて五万二〇〇〇にも及ぶ大軍である。農閑期に出てきたとはいえ、そんな大軍を長く維持するのは不可能だ。幕府の武威を示し、守護の河野を中心に伊予を纏め上げ、返す刀で土佐に攻め込んで長曾我部を討って終わらせる。伊予も土佐も最初から叩くべき敵を想定し、他は味方に付ける。将軍という絶対の大儀があるからこそ、可能な戦略方針であり、そう義輝は長慶に告げていたが、実のところ義輝は有能な長曾我部家を幕府内に取り込むことが四国遠征の大きな目的の一つであった。


(租税の仕組みを一新するためには検地が必要だが、それには時が足りぬ。されど一両具足の仕組みは当座の凌ぎとしては役に立つ)


 兵力に乏しい将軍家としては、一両具足の仕組みは非常に簡素で受け入れやすかった。とはいえ仕組みを詳しき理解していない者たちに任せるのは難しく、そこで義輝は長曾我部家全体を幕府に取り込もうとしていたのだ。


 ちなみに西讃の香川は味方として参陣するよう幕府から使者が遣わされており、無視されるなら行きがけの駄賃として討伐する予定で、軍門に下るなら良しとするのみだ。


「本当にそうでしょうか?」


 そこに久秀が疑問を呈してくる。


「……何か気になるのか」


 家宰たる久秀がこうまで強く訴えてくるのだ。その根本は何かと長慶は問いかけた。


「某は公方様が人が変わったように御屋形様を厚遇していることをずっと訝しく感じておりました。もし伊予や土佐に幕臣が配され、公方様の意のままになるとしたら、我ら三好は東西から幕府方に挟まれることになります」

「幕府方?儂が上様に討たれると申すか」

「御屋形様は何もお思いになりませんか?公方様は山城、近江、若狭を幕府御料地に組み込みました。朝倉は元より公方様に近く、覚慶様を越中に配したことで長尾は上様の要請でいつでも上洛も出来ます。尾張の織田も公方様に守護へ任じられ、その意に逆らうことはしないでしょう。美濃の齋藤も当主を失い、若輩当主なれば幕府の命には逆らえぬはず」

「つまり四国平定の後に三好征伐があると?儂は副将軍に任じられているのだぞ。周暠様も預けられておる」

「先ほど公方様は‟大義名分はどうにでもなる”と申されておりましたぞ」

「有り得ぬ。あろうはずがない」


 と久秀の考えを長慶は声を荒げて否定した。


 ここ数年、何もかもが順調だった。今もそうである。長慶が副将軍となり、義輝を支えることで己が理想とする理世安民に則した世の中が形成されつつある。いま久秀が方針を伺って来るように、長慶も義輝に方針を伺うが、概ね義輝は語った方針通りに事を進めており、そこに嘘はなかった。


「上様が御屋形を重んじようとも、幕臣たちの間には御屋形様を侮る声も多くございます」

「……それは、あの者らが御傍に仕えながらも上様の御考えを理解していないからだ」


 久秀の指摘を長慶は否定するも、その声は実際に多いことは長慶も聞いている。


 上野信孝、進士晴舎たち古くからの側近衆は、当初は将軍山の和睦に反対であったものの、義輝が勢威を取り戻すと尊大な態度を振舞うようになり、三好家中の不満が続出していた。そもそも将軍家が有名無実だった頃から反三好の姿勢を崩さなかった者たちである。ただ今は当の義輝自身が長慶を重用し、長慶も主君からの扱いに不満がなかった。加えて流石の幕臣たちも副将軍職に就く長慶の目の前では殊勝な態度を貫いていたことから大問題に発展してはいないが、このまま将軍家が強く成れば彼らがどういう態度に出るのか想像に難くない。


「奴らは以前に御屋形様を暗殺しようと目論んだ者たちです。信用できませぬ」


 かつて天文二十年(一五五一)に進士賢光が長慶を襲ったことがあった。義輝と長慶が対立していた頃のことであり、その後も幕府との合戦が相次いでいた時期のことである。三好家中では義輝の策謀と捉えているものの齢十六でしかなかった義輝が主導できたかには疑問は残る。


「その幕臣たちの中に、平島公方家を廃そうという動きがございます」

「……左馬頭様をか?」


 阿波平島公方たる足利左馬頭義冬は、大御所・義晴が健在な頃は征夷大将軍の座を激しく争っていたものの、現在は世捨て人のように政に関わることはなく、平島の地で逼塞していた。しかし、義輝の四国遠征に俄かに動向が怪しくなってきていた。


「此度の遠征が終われば左馬頭殿とは和解したいと考えておる。余の申し出を正面から受け止めてくれるとは思わぬ故、修理大夫が仲介してくれると有難い。もはや足利が割れていては天下に争乱を及ぼす」

「御尤もな御考えかと存じます。ただ遺恨が根深きご関係故、難しいところもございます」

「左馬頭殿も足利の争いには疲れておるはずだ。今の余なら然るべき所領を宛がい、足利一門に相応しい官職にも推挙できる。更には余に子が生まれれば別だが、生まれない場合は平島家からも将軍職を継承できることを法度で定めてもよいと考えておる。どうじゃ?」

「そこまで御考え下さって頂けているならば、左馬頭様も充分に上様の意を受け入れて下さるものかと存じます。この修理大夫が全身全霊を賭して左馬頭様との融和を実現させて見せまする」

「うむ。頼りにしておるぞ」


 これは京を出陣する前の、主君との会話である。


 元々長慶は実父が平島公方家を推戴していても、現状の筋目を違える気は毛頭なかった。もはや時代は過ぎ去り、筋目を違えることは世を混乱させるだけと考えていたからだ。もちろん義輝との融和がならず、対立が深まれば長慶も平島公方の擁立を本気で考えたかもしれないが、今は必要なくなったという考えが強い。心残りは平島公方家の身が立つようにはしたいと考えていた事だが、それは出陣前に主の考えを伺って払拭されたばかりだ。


 義輝の考えは長慶の予想を遥かに上回るものだった。


 何とか家格に見合う所領と立場を得ようと考えていたが、まさか将軍職の継承権まであっさりと認められるとは思っていなかった。だからこそ長慶は久秀が‟幕臣たちの間で平島公方家を廃する”という動きがあることを俄かには信じられなかった。


(長年に激しく敵対していた儂に対する幕臣たちの態度は理解できなくもないが、あの者らが上様の意に反する動きを取るであろうか)


 長慶が義輝を傀儡とし、幕政を意のままにしていたならば、彼らが主君の考えを変えようと必死になるのも判る。しかし、近年の動きは義輝が主導しているものであり、進士らの意見に義輝が左右されているとは思えない。長慶も政に深く関わってはいるものの補佐に回っているに過ぎず、将軍新政は実現している。それとも幕臣たちには長慶が義輝を操っているように見えているのだろうか。


「その事、既に左馬頭様の耳にも入っております」

「阿呆!誰が入れた!!」


 久秀の衝撃の発言に、思わず長慶も声を荒げた。そんなことを伝えたらどうなるかくらい想像がつかないのか。主君が融和を考えている最中に逆効果となりかねず、下手をすればどれだけ良い条件を伝えようが聞く耳を持って貰えない可能性が高い。明らかに悪手だ。


「左馬頭様が不安に駆られる御気持ちは分かる。上様とは長年に亘って刃を交えて来たのだ。上様が四国を平定するに当たって、御自身がどう扱われるか不安を抱いているのであろう。されど、そのような話を聞かせては両者の対立を煽るだけぞ!」

「もはや御屋形様は御父上の悲願たる左馬頭様を将軍の座に据えられる気はないのでしょうか?」

「ない!一時は考えぬこともであったが、いま筋目を違えることは天下に無用の混乱を齎す!」

「左馬頭様が将軍を継がれることこそ、本来の筋目が保たれるとしてもでしょうか」

「……生まれのことを申しておるのか」

「はい。左馬頭様は御先代様の兄君に在らせられます」


 二人の沈黙は長くなった。


 十一代将軍・義澄の子である義冬は義輝の父・義晴と実の兄弟であるも、実は二人とも自身が兄を主張していて自分こそが正嫡であるとして争っていた。


 義晴は永正八年(一五一一)三月五日に近江国で生まれている。一方で義冬は永正六年(一五〇九)の生まれだが、義晴方は義冬を同じ永禄八年生まれであると主張した。というのも当時の義澄は天下の争いに敗れて近江国に避難している最中であり、異母兄弟であることから同じ年の生まれであっても不思議ではなくはある。


 天下はまさに復権した十代将軍・義稙とそれを補佐する細川高国、大内義興の手にあり、義澄方は巻き返しを画策していたものの劣勢であり、味方の陣営に調略の手も伸びていた。故に義澄は義晴を播磨、義冬を阿波に送り込んで味方を増やし、義稙を包囲戦と画策したのだ。これが平島公方家が誕生するきっかけとなったのだが、数年後に義晴が高国の手に落ちてしまい、傀儡将軍として推戴された。この際、当然ながら高国は自ら後ろ盾となった義稙を放逐して義澄の子を正統とし、義晴を正嫡として扱った。


 ‟戦国の世の時の如し”と称された時代の象徴である。


 当時の事は記録も記憶も曖昧になっており、当事者たる義晴も義冬も幼児で兄弟共に暮らした記憶すら残っておらず、確認のしようがなかった。結局のところ権力者たちの道具にされたであるが、晴れて将軍職を継いだ義晴に対して、義冬は己が正統と信じることでしか、この乱世を生き抜くことは出来なかった。もし自分が正統でなければ己に価値はなく、周りの者からの庇護も受けれらなくなる。だからこそ今日まで足利の正統と信じて将軍家と争ってきたのだ。


 その気持ちは父・元長を通じて長慶も痛いほど分かっている。だからこそ平島公方家を然るべき立場として扱おうとしている主君の考えに反する行動に腹が立った。


「こうなっては儂が直接に左馬頭様と御話しするしかなかろう。されど出陣前に平島まで出向いている時がない。まずは書状を送り、四国平定後に儂自ら左馬頭様の御前に参る。よいな」


 そう告げて席を立った長慶であったが、それを見送る久秀の相貌には不敵な笑みがあった。


 斯くして四国遠征が始まった。



【続く】

お待たせしました。


いつも投稿が遅れ、謝罪ばかりで申し訳ありません。間もなく完結というタイミングで待たせに待たせてしまっております。私情ながら執筆がまとまって出来ないことが原因ではありますが、完結まで続けることはお約束いたします。引き続き時間を得られたら執筆は続けておりますので、よろしくお願い致します。

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