第三話 魔物
大会会場から数歩外へ出ると、僕はその激しさに息を飲む。ビュオオオオという強い風の音、ザザア、バラバラバラッ、という、雨とは思えないような音の水の塊が地面を打つ。
あまりの大雨に、視界は極端に悪くなっていた。こんな中を眞城は、なんの躊躇もなく駆けて行ったのだ。
僕は心配になり、大声で眞城の名を呼んでみる。
「おーいっ、眞城くーんっ!」
……。
声は風音にかき消され、返事もない。
この大雨の中、彼がどちらの方向へ行ったのかもまったく見当がつかない。そんな中一瞬、どこからか僕を呼ぶ声がする。
「―――っ」
……今の、声は。
「お……い、晃ーっ!」
……兄ちゃん……!?
はっとして今自分が来た方に振り向くと、大雨で全身ずぶ濡れになりながら、僕を追いかけてくる兄の姿があった。
「に、兄ちゃん……っ」
「晃、何勝手なことをしよるんっ!」
「……っ、だって……っ」
「この大嵐で魔物の居る海へ近づくなんざ、自殺行為に等しいんやぞ!?」
「……っ」
兄の怒鳴り声に、現実を見る。……兄の言う通りだ。僕は、魔物襲来で中止になったとはいえ、剣道着に袴を履いたままという格好で会場を抜け出し、何も持たずに駆け出した……という、相当無謀で軽率な行動をとったことを反省しなければならない。
大嵐と共に魔物の出現……しかも肝心の眞城は見失ったままという最悪な現実を、僕は冷静に受け止める。
……無謀だなんて、最初からわかっていた。だけど……足を止めることができなかった。
「魔物が出たらどうするん……っ」
「……」
「……眞城くんなら大丈夫じゃけぇ、晃は会場へ戻れ」
「……なんで……っ、兄ちゃんは、眞城くんの何を知っとるん……?」
僕に聞かれてぐっと言葉に詰まる兄。その沈黙こそが、何よりも『秘密』であることを物語る。……いつもそうだ。兄はあまり自分のことを僕に話してはくれない。
だけど僕の、動悸に近い拍動は、どくどくと脳を打つ。
……が、その時。
耳をつんざくような音と、そこに辛うじて見える非現実的な現実に、僕は目を見開く。
『ギィエアアアアアアアアッ!!!』
そこには……けたたましい奇声を発する、魔物が出現したのだ。
いつもの穏やかな瀬戸の内海は荒れ狂い、激しい波が飛沫を上げたその中央に見えるのは、見たこともないほど巨大な、魚に似た魔物が、二体。
血で染めたように真っ赤な色をしたそれは、魚にしては随分と奇怪な見た目をしているし、ピラニアのように発達した顎は、最早凶器だ。そしてなにより、浮遊しているために普通の魚じゃない。こんな未知な生物、一体どこから来たのだろう……瀬戸内海は本島と四国に挟まれた、外洋の影響を受けない穏やかな海域であるはずなのに。
ど、どうしよう……っ、
「晃、何しよるん、早ぉ離れろ!」
あまりに奇怪な見た目の魔物に……刹那立ち竦んだ僕の腕を、兄がぐいと掴んで引っ張る。
「うっ、わわわわぁっ」
ビチャビチャビチャっ!
咄嗟に兄に引っ張られたおかげで間一髪で魔物の攻撃を回避するも、この大雨と海からの水飛沫で剣道着は全身ずぶぬれだった。
……袴が、重い。
水を存分に吸った袴は想像以上に重く、動くのにも一苦労だった。
「危ないけぇ下がっとき!」
「兄ちゃんっ、僕も一緒に……っ!」
「何を言おるん、小学生にはまだ早いて」
小 学 生 ?
「なぁ『小学生』ってのは僕のことか」
「あー、すまん。もう中学生だったな」
「――……っ!」
今のわざとじゃろ……っ! もう中学も二年じゃし!
だけど……漸く、通常運転の兄である。やっとエンジンがかかってきたというべきか。
……それにしたって、小学生はあんまりだ。確かにまだ成長期の来ていないチビじゃし、声変わりもまだだけれども。
「っ、僕は……っ!」
「来るで」
「……っ!」
どっ、と襲い掛かってくる魚のような魔物を、兄は軽々と僕を抱えてさらりと避ける。
その身のこなしは、さすがだ。……でも。
「かっ、抱えられんでも自分で避けられたし……っ!」
「ほぉか。でも、今から抜刀するけぇ、ほんまに下がっとき」
「抜……刀」
兄の持つ、太刀。これには、意味がある。
成人前の男子に於いて、ある条件を満たすと突然神勅が下り、そのうえで元服した男子にのみ帯刀・佩刀が許されるという、変わった規則。
だけどその条件というものの一切が明かされていない上に、元服自体も、魔物の正体も、すべてが謎に包まれている。兄自身、元服した数少ない者の一人ではあるけれど、その詳細は絶対に教えてくれない。
だって……神勅って……そもそも、なんなんだ……? それは突然脳内に響く声なのか、あるいは……ほんまに、目の前に神が降臨でもするというのか。それに、何も語ってくれない兄は、僕に何かを隠しているような気がしてならない。
考えすぎかもしれないけれど。
だけど、僕は今この魔物を目の前にして、自分の軽率さを呪うと共に、なぜ竹刀を置いてきたのだろう……などという、絶望的と思われるほどに真逆のことを考えていた。
僕は自分の掌を見る。剣道の稽古に打ち込み、何度も豆ができては潰れた手。
……この魔物を相手にした時、僕は戦えるのだろうか。
……。
ざあざあと降り続ける大雨は、やむことを知らないかの如く勢いよく降り続ける。
僕は、その腰に佩く太刀に手を遣る兄を見ると、これから起こりうることを想像して、思わず生唾を飲む。だけど、魔物と対峙する兄の圧倒的な雰囲気は、僕の想像しうる最悪の事態の全てを否定している。あまりに鋭く、あまりに静謐。
その様は現実味がなく、まるで夢の中の世界を生で見ているような感覚に近かった。
緊張を伴う鼓動を胸に、目だけははっきりと見開いて、風に煽られながら飛ばされないようにと、僕はその様子を見ている。その、目の前で、兄は腰に佩く刀をするりと抜く。
間近で見る、本物の太刀の抜刀。
雨は強さを増し、自分鼓動の音と、ゴオオオという風の音が、五月蠅い。
兄は刀を構えて魔物を見据えたまま、こちらへ突っ込んでくる魔物との間合いを推し量っている。
まもなく間合い六尺
一瞬のタイミングを見計らい、兄はぐっ、と地面を蹴り魔物へと向かう。
「……はっ、」
「……!」
何が起こったのか……目の前で起きていることなのに、気が付くとシュバッ!!という、魔物を切り裂く音が響く。それはもう、一瞬の出来事で。
瞬きをしてしまえば見過ごしてしまったかもしれないそれは、見事に魔物を真っ二つに切り裂いていた。
目を凝らして見ていたはずなのに何をしたのかわからない程の須臾に、そこにいたはずの二体の魔物がスパァンと口から上下に真っ二つに割れ、ぼと、ぼとりと雨の降る陸に落ちる。
すごい……!
震える声が漏れた。一瞬のうちに決した勝敗は、兄に軍配があがった。 僕は実戦の迫力に、ただただ圧倒されていた。
兄は刀を鞘に納めると、こちらに向き直って僕に声をかける。
「晃、大丈夫か」
「う……ありがとう。……って、兄ちゃん、後ろっ!」
兄の背後に広がるその光景に目を見開く。
刹那見たのは、先程兄が抜刀術で切り伏せたはずの魔物が、再度浮遊し襲いかかってくるところだった。
「っ、危ないっ!」
「……!」
ザバァン!と荒波を伴って魔物が陸を打つ。
咄嗟に、兄が僕を庇いながら魔物からの攻撃をかわしたが、まだ生きているという事実に驚愕する。
「な、なぁあいつら……」
「真横に真っ二つにしたはずなのに、あれじゃダメなんか」
真剣を握り直す兄の横で、戦慄が走る。眞城くんは大丈夫なのだろうか……彼の安否を案じた、その時。
気配も、音もなかった。
だけど不意に、静かな声で「ねぇ」と呼びかけられて振り返る。
「君も……来たんだね」
心臓が跳ね、弾かれたように振り返る。
そこにいたのは、先程の剣道着姿に……竹刀ではなく太刀を佩き、ずぶぬれになりながらも返り血を浴びて妖艶に嗤う、眞城だった。




