第1話 俺を退学にした校長と、笑っていたクラスメイト
「神谷悠真。お前には、この学校を辞めてもらう」
校長室に入って最初に聞かされた言葉が、それだった。
目の前には、重厚な机に座る女性校長。
その隣には、担任の佐々木先生。
そして、俺の正面には、クラスメイトの桐生蓮が座っていた。
蓮は制服のネクタイを緩め、椅子の背もたれに体を預けている。
その表情には、反省の色など一切なかった。
むしろ、口元には薄い笑みさえ浮かんでいる。
「……待ってください」
俺は震える声を絞り出した。
「退学って、どういうことですか。俺は何もしていません」
「何もしていない、ですって?」
校長が眉間にしわを寄せた。
「あなたは桐生君に対して、暴力を振るったそうじゃないですか」
「それは……!」
「蓮は、あなたから突然殴られたと証言しています。ほかの生徒からも、あなたが彼に暴力を振るっていたという話が出ているんです」
「違います!」
思わず声が大きくなった。
「俺は殴ってなんかいません! 逆です! 殴られたのは俺のほうです!」
そうだ。
俺は殴られた。
蹴られた。
教科書を捨てられ、上履きを隠され、クラス全員の前で笑いものにされた。
それでも、ずっと我慢してきた。
いつか終わる。
先生に相談すれば、きっと何とかしてくれる。
そう信じていたからだ。
けれど、現実は違った。
「神谷君。言い訳をするのはやめなさい」
担任の佐々木先生が、冷たい声で言った。
「桐生君はあなたに謝罪を求めているんだ。まずは自分のしたことを認めて、謝るべきじゃないのか?」
「……先生」
俺は担任を見た。
何度も相談した相手だった。
初めて殴られた日のことも。
机に落書きをされた日のことも。
トイレに閉じ込められた日のことも。
全部、話した。
そのたびに、先生は同じことを言った。
『もう少し様子を見よう』
『桐生も悪気があってやっているわけじゃない』
『君にも何か原因があるんじゃないか?』
そして今。
先生は、俺の話を聞こうともしなかった。
「……先生は、俺が相談したとき、何て言いましたか?」
「何の話だ?」
「俺がいじめられているって相談したときです」
「……」
「そのとき、先生は何をしてくれましたか?」
佐々木先生の顔がわずかに強張った。
「俺、何度も助けてほしいって言いましたよね」
「神谷君。今はそういう話をしているんじゃない」
「じゃあ、何の話をしているんですか!」
声が裏返った。
今までずっと我慢してきた。
怒ったら、もっとひどいことをされる。
反抗したら、先生にまで見放される。
だから、何をされても黙っていた。
それなのに。
黙っていた結果が、これなのか。
「俺は被害者なんです! どうして俺が辞めなきゃいけないんですか!」
校長室に、俺の声が響いた。
数秒の沈黙。
その沈黙を破ったのは、桐生蓮だった。
「……なあ、母さん」
蓮は面倒くさそうに口を開いた。
「こいつ、話が通じないんだけど」
「蓮。校長室では、きちんとした言葉遣いをしなさい」
校長は息子を軽くたしなめた。
けれど、その口調に本気で注意するような厳しさはなかった。
「だって、俺、こいつに殴られたんだよ? それなのに、ずっと自分は悪くないって言ってるじゃん」
蓮は大げさにため息をついた。
「俺、こんなやつと同じ学校にいたくないんだけど」
その言葉を聞いた瞬間、頭の中が真っ白になった。
何を言っているんだ。
お前が。
お前が、俺を。
「……ふざけるな」
気づけば、口から言葉が漏れていた。
「あ?」
「ふざけるなよ……」
俺は蓮を睨みつけた。
「お前が何をしたのか、忘れたのか?」
蓮の口元から笑みが消えた。
「俺の教科書を捨てたのは誰だよ。上履きをゴミ箱に入れたのは誰だよ。昨日、俺を殴ったのは誰だ!」
「はあ? 証拠あんの?」
「……っ!」
「俺はお前に何もしてねえよ。勝手に被害者ぶってんじゃねえ」
蓮は俺を見下すように笑った。
「なあ、母さん。こいつ、俺のことを脅してるんだけど」
その呼び方を聞いた瞬間、俺は違和感を覚えた。
母さん?
今、こいつは校長を母さんと呼んだのか?
「……神谷君」
校長は机を指で叩いた。
「これ以上、桐生君に対して不適切な発言をするのなら、こちらとしても厳しい対応を取らざるを得ません」
「厳しい対応って、何ですか」
「あなたは自分の立場が分かっていないようですね」
校長は深く息を吐いた。
「本校としては、これ以上、あなたのような生徒を在籍させるわけにはいきません」
その言葉を聞いて、俺はようやく理解した。
最初から、話し合いなんてするつもりはなかったのだ。
俺の話を聞く気も。
真実を確かめる気も。
いじめを解決する気も。
何もなかった。
ただ、俺を追い出したいだけなのだ。
そして、その理由も分かってしまった。
目の前にいる校長は、蓮の母親だった。
息子を守るためなら、被害者を追い出すことさえ厭わない。
そんな人間が、この学校のトップに立っている。
「……校長先生」
俺は、最後の望みを込めて尋ねた。
「もし俺が、本当にいじめられていたと証明できたら?」
校長の眉が動いた。
「何ですって?」
「もし証拠があったら、どうするんですか」
「証拠?」
「はい」
俺は机の上に置かれた自分の手を見つめた。
昨日の夜。
俺はスマートフォンに残された動画を何度も確認していた。
自分が殴られている映像。
蓮が笑いながら、俺を罵倒している音声。
そして、俺の机を囲んで笑っているクラスメイトたち。
全部、残っている。
消される前に。
壊される前に。
いつか自分を守るために。
俺は記録していた。
「証拠ならあります」
そう告げた瞬間、蓮の顔がわずかに引きつった。
ほんの一瞬だった。
だが、俺は見逃さなかった。
「……へえ」
蓮はすぐに笑顔を作った。
「じゃあ、出してみろよ」
「分かった」
「ただし、捏造なんかしてたら許さねえからな?」
「捏造なんかしてない」
「なら出せばいいじゃん」
蓮は肩をすくめた。
「まあ、どうせ何もないんだろうけど」
俺はポケットからスマートフォンを取り出した。
そして、動画の一覧を開こうとした。
「待ちなさい」
校長の声が飛んできた。
「……何ですか?」
「学校内で撮影した映像を、無断で持ち出したり、公開したりすることは認められません」
「まだ公開してません」
「そういう問題ではありません。生徒のプライバシーにも関わることです」
「でも、これは俺がいじめられている証拠です!」
「あなたの主張だけで判断することはできないと言っているんです!」
校長が机を叩いた。
「それに、あなたは学校の許可なく撮影を行った。状況によっては、あなた自身の問題として扱うことになります」
……おかしい。
何もかもがおかしい。
俺を殴ったやつは、何のお咎めもない。
俺をいじめたやつは、堂々と校長室に座っている。
それなのに。
自分を守るために証拠を残した俺が、責められている。
「……もういいです」
俺はスマートフォンを握りしめた。
「ここでは、何を言っても無駄なんですね」
「神谷君!」
担任が声を上げた。
「先生は、俺が相談したとき、何もしなかった」
「……」
「俺が助けてほしいって言ったとき、何もしなかった!」
喉が痛かった。
目の奥が熱かった。
それでも、涙だけは流したくなかった。
「なのに、今さら俺だけが悪いって言うんですか」
「君が反省する姿勢を見せないからだろう!」
佐々木先生の声が、校長室に響いた。
「少しは自分の行動を振り返りなさい!」
俺は、もう何も言わなかった。
言葉を重ねても、何も変わらない。
この人たちは、最初から俺の味方ではなかったのだ。
校長は手元の書類を整えると、事務的な口調で告げた。
「神谷君。本校としては、あなたの今後の在籍について、保護者を交えた話し合いを行います。ですが、現時点では、自主的な退学を勧めます」
「……自主的な退学?」
「そうです。あなた自身の将来を考えても、そのほうがいいでしょう」
自主的。
まるで、俺が自分の意思で学校を辞めたがっているみたいな言い方だった。
「……断ったら?」
俺が尋ねると、校長は表情を変えずに答えた。
「その場合は、学校として必要な対応を検討することになります」
つまり、断っても追い出すということだ。
俺は椅子から立ち上がった。
「……分かりました」
自分でも驚くほど、声は静かだった。
校長も、担任も、そして蓮も。
俺が大人しく引き下がったことに、少しだけ安心したような顔をした。
だが、俺は諦めたわけじゃない。
ただ、ここで何を言っても意味がないと分かっただけだ。
「失礼します」
俺は頭を下げ、校長室を出た。
扉が閉まる直前。
蓮の笑い声が聞こえた。
「いやー、これで面倒なのがいなくなるわ」
続いて、校長の声。
「蓮、あなたは何も心配しなくていいわ」
その言葉を、俺は一生忘れないと思った。
俺の人生を壊した人間が、俺の目の前で守られていた。
しかも、守っていたのは学校のトップであり、加害者の実の母親だった。
それが、この学校の現実だった。
◇
翌朝。
俺が教室に入ると、いつもより大きな笑い声が聞こえてきた。
「おい、来たぞ」
「マジで来たんだ」
「今日で最後なんだろ?」
クラスメイトたちが、俺を見ながらひそひそと話している。
誰も、俺の目を見ようとはしなかった。
いや、正確には違う。
何人かは、面白いものを見るような目で俺を見ていた。
まるで、俺が退学になることを楽しんでいるみたいに。
「おはよう、神谷」
教室の中央で、蓮が手を振った。
その周囲には、いつもの取り巻きたちが集まっている。
「昨日は大変だったな?」
「……」
「校長先生に怒られたんだって?」
蓮は、わざとらしく心配そうな顔を作った。
「いやあ、かわいそうに。自業自得だけど」
取り巻きたちが笑った。
「お前さ、最後くらい謝ったらどうだ?」
「そうそう。蓮に迷惑かけたんだから」
「これだから問題児は困るよな」
……問題児。
俺が?
俺を殴り、蹴り、笑いものにしてきたこいつらではなく。
被害を訴えた俺が、問題児なのか。
「……お前ら、恥ずかしくないのか?」
思わず口にしていた。
「あ?」
「自分たちが何をしたのか、本当に分かってるのか?」
教室の空気が一瞬だけ静まった。
だが、蓮はすぐに笑い出した。
「ははっ! おいおい、まだその話してんの?」
「……」
「お前さ、もうすぐいなくなるんだろ? だったら大人しくしてろよ」
蓮は俺の机に手を置いた。
「最後まで迷惑かけんなって」
その手を、俺はじっと見つめた。
机の表面には、黒い油性ペンで文字が書かれていた。
『消えろ』
その下には、さらに小さな文字。
『生きてる価値なし』
昨日まではなかった。
いや、昨日の放課後に消したはずだ。
なのに、また書かれている。
「……誰が書いた?」
俺が尋ねると、蓮は首を傾げた。
「さあ? 誰だろうな」
「……」
「お前、嫌われてるからな。誰が書いてもおかしくないんじゃね?」
笑い声。
俺は拳を握りしめた。
殴り返したい。
今すぐ、こいつの顔を殴ってやりたい。
けれど、そんなことをしたらどうなる?
俺が暴力を振るったという話だけが広まり、蓮は被害者になる。
昨日の校長室で、それを嫌というほど思い知らされた。
だから、俺は拳を開いた。
「……好きにしろよ」
「は?」
「好きに笑ってろ」
俺は鞄を机に置いた。
「どうせ、お前らは何も変わらないんだろ」
蓮の笑顔が、一瞬だけ消えた。
俺はそのまま席に着いた。
もう、こいつらの言葉に反応するつもりはなかった。
俺には、俺のやるべきことがある。
証拠を整理する。
学校の外にいる人間に相談する。
そして、真実を明らかにする。
この学校の中で、俺の声が届かないのなら。
外に届ければいい。
◇
昼休み。
俺は人気のない階段の踊り場で、スマートフォンを操作していた。
保存してある動画は、全部で十二本。
最初に撮影したのは、約二か月前だった。
きっかけは、些細なことだ。
蓮に消しゴムを投げられた。
拾おうとしたら、わざと足で踏まれた。
周囲の生徒が笑った。
そのとき、俺は何も言わなかった。
次の日には、教科書がなくなっていた。
その次の日には、上履きがゴミ箱に捨てられていた。
さらに数日後。
俺は放課後の教室で、蓮たちに囲まれた。
『お前、先生にチクったんだって?』
蓮が俺の胸ぐらをつかんだ。
『余計なことしてんじゃねえよ』
その直後、頬を殴られた。
床に倒れた俺を、取り巻きたちが囲んだ。
『おい、立てよ』
『何とか言えよ』
『先生に言いつけるんだろ? ほら、言えよ』
その様子を、蓮の友人の一人がスマートフォンで撮影していた。
俺も、自分のスマートフォンをポケットの中で録画状態にしていた。
画面は見えなかった。
音声がきちんと録れている保証もなかった。
それでも、何も残さないよりはましだと思った。
あとから確認すると、映像には床に倒れた俺の姿が映っていた。
蓮が俺を殴る瞬間は、角度のせいで完全には見えない。
だが、音声ははっきり残っていた。
『もう一発いっとくか?』
『やめてください……』
『聞こえねえよ』
そして、笑い声。
何度も再生した。
再生するたび、あの日の恐怖がよみがえった。
それでも、消すことはできなかった。
これがなければ、誰も信じてくれないと思ったからだ。
実際、その通りだった。
担任に相談しても、何も変わらなかった。
校長に訴えても、信じてもらえなかった。
いや、あの人は最初から俺の話を信じるつもりなどなかったのだろう。
自分の息子を守ることが、何よりも大切なのだから。
ならば、次は学校の外だ。
俺は動画を別の場所にも保存した。
スマートフォンが壊されても、データが消えないように。
そして、ノートを取り出した。
そこには、日付と出来事が記録されている。
いつ、どこで、誰に、何をされたのか。
相談した日時。
相談した相手。
そのときの返答。
すべて、できる限り正確に書き残していた。
俺はノートを閉じた。
「……これで、全部だ」
いや。
まだ足りない。
学校が本当に俺を退学にするつもりなら、保護者との話し合いがあるはずだ。
その場で、証拠を見せる。
それでも駄目なら、さらに外へ。
俺はスマートフォンをポケットにしまい、階段を下りた。
教室へ戻る途中、職員室の前を通りかかった。
中から、聞き覚えのある声がした。
「ですから、こちらとしても困っているんですよ」
校長の声だった。
俺は足を止めた。
「蓮は、学校にとって大切な生徒です。成績も優秀ですし、周囲からの信頼も厚い」
……何を話しているんだ?
「それに、私の息子でもありますからね。こちらとしても、できる限りの配慮はしたいと考えています」
一瞬、息が止まった。
自分で言った。
自分の口で、息子だと認めた。
そして、そのことを理由に、蓮を守ろうとしている。
「はい。神谷君の件については、こちらで適切に処理します」
俺は、その場から動けなくなった。
適切に処理する。
その言葉が、頭の中で何度も繰り返された。
俺の人生を。
俺が受けた被害を。
俺が必死に訴えてきたことを。
全部、処理する。
まるで、邪魔な書類でも片づけるみたいに。
俺は壁に手をついた。
怒りで、手が震えていた。
だが、それ以上に恐ろしかった。
この学校では、何が起きてもおかしくない。
俺が何を訴えても、握りつぶされるかもしれない。
校長は、ただの学校関係者ではなかった。
加害者の母親なのだ。
最初から公平な判断など期待できるはずがなかった。
それでも。
俺は、もう黙っているつもりはなかった。
◇
放課後。
俺は再び校長室に呼び出された。
今度は、両親も一緒だった。
父さんは仕事を早退して駆けつけてくれたらしい。
母さんは、俺の隣に座り、心配そうに顔を覗き込んでいた。
「悠真、大丈夫?」
「……うん」
そう答えたものの、本当は大丈夫なんかじゃなかった。
校長の向かいには、担任の佐々木先生。
そして、桐生蓮の父親が座っていた。
蓮の父親は、腕時計を確認しながら不機嫌そうに足を組んでいる。
その隣では、蓮が退屈そうに椅子にもたれていた。
校長は書類を机に置くと、穏やかな笑みを浮かべた。
「本日はお忙しいところ、お集まりいただきありがとうございます」
その声は、先ほどまで俺に向けていたものとはまるで違っていた。
「今回の件につきまして、学校としても非常に深刻に受け止めております」
……嘘だ。
そう思った。
深刻に受け止めている人間が、被害者を追い出そうとするだろうか。
ましてや、自分の息子が加害者だと疑われているのに。
「まず、今回の問題についてですが」
校長は書類を開いた。
「神谷君が桐生君に対して暴力的な行為を行い、両者の間でトラブルが発生したと認識しております」
「……え?」
母さんが声を漏らした。
「暴力的な行為って、どういうことですか?」
「神谷君が桐生君に対して威圧的な態度を取り、身体的な接触もあったと報告を受けています」
「そんなこと、悠真からは聞いていません!」
「お母様。もちろん、神谷君のお話も伺っています。しかし、複数の生徒から証言が寄せられておりまして」
校長は、いかにも困ったような顔をした。
「学校としては、一方の話だけを信じるわけにはいかないのです」
俺は思わず口を挟んだ。
「だったら、俺の証拠を見てください!」
全員の視線が俺に集まった。
「昨日も言いましたよね。俺は殴られたんです。動画も、記録もあります!」
「神谷君」
校長が低い声で遮った。
「その件については、すでに説明したはずです」
「でも、証拠を見れば分かるじゃないですか!」
「学校内での無断撮影については、別の問題があります」
「じゃあ、どうすればいいんですか!」
俺は机に手をついた。
「何をすれば、信じてもらえるんですか!」
「悠真!」
母さんが驚いたように俺を呼んだ。
父さんも、俺の肩に手を置いた。
「落ち着け」
「……でも、父さん」
「分かってる。お前の話を聞くから」
その言葉に、少しだけ救われた気がした。
少なくとも、父さんは俺の話を聞いてくれる。
母さんも、俺のことを信じてくれている。
俺は深呼吸をして、椅子に座り直した。
「……すみません」
「いえ、構いません」
校長はそう言ったが、その顔には明らかに不快感が浮かんでいた。
「それでは、桐生君側のお話も伺いましょう」
蓮の父親が口を開いた。
「うちの息子は、以前から神谷君に絡まれていたと聞いています」
「……え?」
「何度も挑発され、我慢していたそうです。今回も、神谷君が先に手を出したと聞いております」
「違います!」
俺はすぐに否定した。
「俺が先に手を出したことなんて、一度もありません!」
「君はそう言うだろうね」
蓮の父親は、冷たい目で俺を見た。
「だが、こちらには息子の話がある」
「俺にも証拠があります!」
「なら、なぜ最初から提出しなかったんだ?」
「それは……!」
言葉に詰まった。
正確には、提出しようとした。
けれど、校長が止めたのだ。
無断撮影がどうとか、プライバシーがどうとか。
そう言われて、俺は映像を見せることすらできなかった。
その事情を説明しようとしたとき、校長が口を開いた。
「まあ、困りましたね」
彼女は俺を見ながら、わざとらしく胸元に手を当てた。
「そんなに興奮して。蓮があなたに何かしたとおっしゃるけれど、私の息子も怖い思いをしているのですよ?」
俺は、耳を疑った。
自分の息子がいじめをしているかもしれないという話なのに。
まるで、自分の息子こそが被害者であるかのように振る舞っている。
「蓮は、学校でも評判のいい生徒です。先生方からも信頼されています。そんな子が、理由もなく誰かをいじめるとは思えません」
校長は、はっきりと言い切った。
「……校長先生」
父さんが口を開きかけたが、彼女はそれを遮るように続けた。
「それに、今回の件が大きくなって、学校の評判に影響が出るのは避けたいところです」
「もちろんです」
蓮の父親が頷いた。
「私としても、息子が一方的に悪者にされるような事態は避けたい」
校長は、すぐに同意した。
「学校としても、円満な解決を目指しております」
その瞬間。
俺の中で、何かが切れた。
「……円満な解決?」
俺はゆっくりと顔を上げた。
「俺が学校を辞めれば、円満な解決になるんですか?」
誰も答えなかった。
「俺がいなくなれば、いじめがなかったことになるんですか?」
「神谷君、言葉を慎みなさい」
校長が鋭く言った。
「俺は、ずっと我慢してきました」
声が震えた。
「殴られても、笑われても、物を捨てられても。我慢していれば、いつか終わると思ってました」
父さんが、隣で息を呑むのが分かった。
「先生にも相談しました。何度も、何度も相談しました」
担任は、目を伏せた。
「それでも、何も変わらなかった」
俺は校長を見つめた。
「なのに、どうして俺が辞めなきゃいけないんですか」
沈黙が落ちた。
誰も答えない。
いや、答えられないのだろう。
俺の質問に、まともな答えなんて存在しないから。
その沈黙を破ったのは、蓮だった。
「……もうよくね?」
全員が蓮を見る。
「俺、こいつと同じ学校にいるの、マジで嫌なんだけど」
蓮は、苛立ったように頭をかいた。
「俺、何もしてねえのに、ずっと犯人扱いされてるし。動画があるとか言って脅してくるし」
「脅してなんかいない!」
「ほら、また怒鳴った!」
蓮は母親である校長に向かって両手を広げた。
「こういうところなんだよ。こいつ、すぐキレるんだ。クラスでもみんな困ってるんだよ」
「……蓮」
校長は息子をなだめるように言った。
「あなたの気持ちは分かっています」
その言葉に、俺は唖然とした。
息子には名前で呼びかけるのに、俺には終始、問題児を見るような目を向けている。
「神谷君と桐生君の関係を修復することは、現状では難しいと考えます」
校長は俺たちに向き直った。
修復?
壊したのは、誰だ。
関係を壊すほどのことをしたのは、誰だ。
「そのため、学校としては、神谷君に転学、もしくは自主退学を検討していただきたい」
母さんが立ち上がった。
「そんなの、納得できません!」
「お母様。お気持ちは分かります」
「分かっていません!」
母さんの声が震えた。
「この子がどんな思いをして学校に通っていたのか、先生方はご存じなんですか?」
「……」
「毎朝、学校に行きたくないと言いかけて、結局何も言わずに家を出ていくんです。帰ってきたら、制服が汚れていることもありました。それでも、この子は何も言わなかった!」
母さんは、俺の肩に手を置いた。
「それが、いじめを受けていたからだと、今日初めて知ったんです!」
胸が苦しくなった。
母さんには、心配をかけたくなかった。
だから、何も言わなかった。
学校で何をされても、家では普通に振る舞った。
笑って。
ご飯を食べて。
宿題をして。
何でもないふりをしていた。
それが、間違いだったのだろうか。
「……お母様」
校長は、困ったように眉を下げた。
「お気持ちは理解できます。しかし、学校にも規則があります」
「規則って何ですか!」
「これ以上、感情的になられても困ります」
その一言で、母さんは言葉を失った。
父さんが立ち上がった。
「校長先生。ひとつ確認させてください」
「何でしょうか」
「この学校は、いじめの事実を調査したんですか?」
校長の表情がわずかに変わった。
「もちろん、必要な確認は行っております」
「では、悠真が相談した記録は?」
「……」
「担任の先生は、悠真から何度も相談を受けていたそうですね。その記録は残っていますか?」
佐々木先生が顔を上げた。
「それは……」
「桐生君や、その周囲の生徒には聞き取りをしましたか?」
「必要な範囲で……」
「では、悠真が持っているという動画は確認したんですか?」
校長は答えなかった。
父さんは、静かに頷いた。
「分かりました」
その声は、先ほどまでとは違っていた。
「つまり、被害の証拠を確認せずに、息子に退学を勧めているということですね」
「誤解です。私たちは学校全体の状況を踏まえて判断を……」
「なら、その判断の根拠を説明してください」
「……」
「なぜ、被害を訴えている息子のほうが学校を去らなければならないんですか」
父さんの言葉に、校長は口を閉ざした。
蓮は、露骨に不機嫌な顔をしていた。
「……もういいだろ」
小さく呟く。
「蓮、黙りなさい」
父親に注意され、蓮は舌打ちした。
その様子を見て、俺は確信した。
こいつらは、自分たちが不利になることを恐れている。
だから、俺を黙らせたいのだ。
学校から追い出して、何もなかったことにしたいのだ。
そして、校長はそのために、自分の立場さえ利用している。
俺は、父さんの袖をそっと引いた。
「……父さん」
「どうした?」
「もう、いいよ」
「悠真?」
「ここで何を言っても、変わらない」
父さんは、何か言おうとして口を閉じた。
俺は立ち上がった。
「俺、もうこの学校には通いたくない」
母さんが、悲しそうに俺を見た。
「悠真……」
「でも、俺が悪かったから辞めるんじゃない」
校長を見つめる。
「俺を守ってくれなかった学校に、これ以上いたくないだけです」
誰も、何も言わなかった。
俺は深く頭を下げた。
「今まで、お世話になりました」
それは、感謝の言葉ではなかった。
別れの挨拶でもなかった。
俺が、この学校に対して最後にできる、精一杯の拒絶だった。
◇
校長室を出たあと、父さんと母さんは、俺を責めなかった。
退学という言葉を聞いても。
学校を辞めたいと言っても。
二人とも、ただ俺の隣を歩いてくれた。
校門を出る直前。
俺は、一度だけ校舎を振り返った。
三年間、通うはずだった場所。
友達を作って、勉強して、行事に参加して。
普通の高校生活を送るはずだった場所。
そのすべてが、今日、終わった。
いや。
違う。
終わらされたのだ。
「……悠真」
父さんが、俺の肩を叩いた。
「これから、どうするかは一緒に考えよう」
「……うん」
「お前は悪くない。父さんは、お前の話を信じる」
その言葉を聞いた瞬間、こらえていたものが溢れそうになった。
でも、俺は泣かなかった。
泣いてしまったら、もう立ち上がれなくなる気がしたから。
「ありがとう、父さん」
俺たちは、そのまま家へ帰った。
その日の夜。
俺は自分の部屋で、机の上にスマートフォンとノートを並べていた。
動画は十二本。
記録した日付は、二か月分。
相談した記録も、できる限り残っている。
これだけあれば、何かできるはずだ。
いや、何とかしなければならない。
俺が学校を辞めただけで終わらせてはいけない。
俺以外にも、被害を受けている生徒がいるかもしれない。
俺がいなくなったあと、別の誰かが標的にされるかもしれない。
そう考えると、どうしても許せなかった。
俺はスマートフォンを手に取り、動画をひとつ再生した。
画面の中では、蓮が笑っていた。
『お前、マジで邪魔なんだよ』
次の瞬間、画面が大きく揺れる。
『学校来んなよ。誰もお前なんか必要としてねえから』
笑い声。
罵声。
そして、床に倒れた俺の姿。
俺は再生を止めた。
「……必要としてない、か」
そう呟いて、机の上のノートを開いた。
最後のページに、ペンを走らせる。
日付。
校長室での話し合い。
自主退学を勧められたこと。
証拠の確認を求めたが、まともに取り合ってもらえなかったこと。
そして、最後に。
『俺は、絶対にこのまま終わらせない』
そう書いた。
書き終えた瞬間、スマートフォンが震えた。
画面には、クラスのグループチャットからの通知が表示されていた。
何気なく開く。
そこには、一枚の写真が投稿されていた。
校門の前で、父さんと母さんに挟まれて歩く俺の後ろ姿。
その下には、蓮のメッセージがあった。
『神谷、今日で退学だってよw』
続けて、別の生徒が返信していた。
『マジ? やっと平和になるじゃん』
『あいつ、最後まで被害者ぶってたらしいぞ』
『自分が悪いのに先生に逆ギレしたんだって』
次々と、メッセージが増えていく。
誰も、真実を知らない。
いや、知ろうともしない。
ただ、蓮の言葉を信じて、俺を笑っている。
俺は画面を見つめた。
怒りが込み上げてくる。
悲しみも。
悔しさも。
全部、胸の奥で渦巻いていた。
けれど、今度は目を逸らさなかった。
俺は、グループチャットの画面を閉じた。
そして、保存してある動画をもう一度確認した。
蓮が俺を殴る映像。
取り巻きたちが笑う音声。
俺の机に書かれた落書きの写真。
担任に相談した日時の記録。
校長室での会話についても、覚えている範囲で書き残した。
ひとつずつ。
ひとつずつ、整理していく。
もう、誰かが助けてくれるのを待つつもりはなかった。
学校が動かないのなら、学校の外に助けを求める。
学校が隠そうとするのなら、隠せない場所に事実を持っていく。
俺は、動画のバックアップを確認した。
それから、スマートフォンの連絡先を開く。
検索欄に、ある言葉を入力した。
『いじめ 告発 相談』
画面には、さまざまな情報が表示された。
相談窓口。
弁護士への相談。
いじめ問題を扱う団体。
そして、学校問題を取り上げる動画配信者の名前。
俺は、その中のひとつを開いた。
そこには、学校内のいじめや不正を取材し、当事者の証言をもとに問題を追及している配信者の紹介があった。
チャンネル登録者数は、百万人を超えていた。
俺は、しばらく画面を見つめた。
こんなところに相談して、本当にいいのだろうか。
自分の顔が世間に知られるかもしれない。
家族に迷惑がかかるかもしれない。
学校から、さらに何か言われるかもしれない。
怖くないわけがなかった。
けれど。
今日、俺は学校を失った。
守ってくれるはずの教師を失った。
信じていた場所に、居場所はなかった。
そして、その学校を動かしていた人間は、加害者の母親だった。
自分の息子を守るために、俺を追い出そうとした。
ここで何もしなければ、俺は一生、あの日のことを後悔するだろう。
俺は、問い合わせフォームを開いた。
入力欄に、ゆっくりと文字を打ち込んでいく。
『突然のご連絡、失礼いたします』
指が止まった。
何を書けばいいのか分からなかった。
どこから説明すればいいのか。
何を伝えれば、信じてもらえるのか。
俺は一度、深呼吸した。
そして、最初から書き直した。
『私は高校生です。学校でいじめを受けていました』
『何度も教師に相談しましたが、対応してもらえませんでした』
『その後、いじめの加害者ではなく、被害者である私が退学を勧められました』
『いじめの証拠となる動画や記録を持っています』
『学校側の対応についても、説明できることがあります』
最後に、こう書いた。
『このまま、なかったことにしたくありません』
送信ボタンに指を置く。
心臓が、うるさいほどに鳴っていた。
もし、これを送ったら。
俺の人生は、本当に変わるかもしれない。
良い方向に進むとは限らない。
それでも。
「……もう、逃げない」
俺は、送信ボタンを押した。
画面に、送信完了の文字が表示された。
たったそれだけのことなのに、全身から力が抜けた。
俺は椅子の背もたれに体を預け、天井を見上げた。
今日、俺は学校を追い出された。
いじめを受けたのに。
助けを求めたのに。
最後には、俺が悪者にされた。
それでも。
俺には、まだ証拠がある。
俺には、まだ声を上げる力が残っている。
そして、俺はもう、黙っていない。
窓の外では、街灯が静かに光っていた。
明日から、俺は学校へ行かない。
クラスメイトの笑い声を聞くこともない。
蓮の顔を見ることもない。
けれど、これで終わりではない。
俺はスマートフォンを手に取り、最後にもう一度、保存した動画を確認した。
画面の中で、蓮が笑っている。
その笑顔を見つめながら、俺は静かに呟いた。
「……覚悟しておけよ、桐生蓮」
お前たちは、俺を学校から追い出した。
いじめの事実を隠そうとした。
俺の声を、なかったことにしようとした。
だったら。
今度は、俺の番だ。
俺を追い出したことを。
俺を黙らせようとしたことを。
いつか、必ず後悔させてやる。
これは、俺が失ったものを取り戻すための戦いだ。
そして同時に。
俺を踏みにじった人間たちが、自分のしたことと向き合うまでの物語でもある。
◇
――翌朝。
俺のもとに、一通の返信が届いた。
『ご連絡ありがとうございます。詳しいお話を伺いたいので、一度お会いできませんか』
差出人は、昨夜問い合わせた動画配信者だった。
俺は、その文章を何度も読み返した。
そして、初めて少しだけ笑った。
「……やっと、始まるんだ」
窓から差し込む朝日が、机の上のノートを照らしていた。
その最後のページには、昨日書いた言葉が残っている。
『俺は、絶対にこのまま終わらせない』
その決意は、もう揺らがなかった。
俺は返信画面を開き、会う意思を伝えた。
このときの俺は、まだ知らなかった。
たった一本の動画が、学校だけでなく、俺を追い出した人間たちの人生まで大きく変えていくことを。
そして、この学校が迎える結末を。
誰もが、まだ知らなかった。




