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第1話

バネッサは、少し浮かれていた。


夏の期間限定メニュー、「冷やしうどん」が大成功だったのだ。

一年越しにレシピを考えてきた甲斐があったというものである。


開店以来の大盛況。

バネッサは大忙しだったが、それでも幸せだった。


幸せだった……のだが。


十五時からは支度中として、一旦店を閉める。

その十五時の五分前、店の扉がカランコロンと鳴った。


「いらっしゃいませ……」


バネッサは振り向き、そして固まった。


黒いスーツ。

黒い革手袋。

黒い革靴。


店先に立っていたのは、毎度毎度、面倒事を持ち込んでくる東北の商人、クロエだった。


その後ろでは、同じく黒いスーツに身を包んだ秘書のアキラが、小さく手を振っている。


「……残念ですけど、もう、おうどんが」


バネッサはそう言いかけた。


だが、クロエは何も言わず、まだうどんの残っている麺箱を、にこにこと指さした。


「くっ」


「まだ、お時間は大丈夫ですよね」


年齢を感じさせない、低く艶のあるバリトンの声だった。


「……どうぞ。お好きなお席に」


テーブル席は空いていた。

にもかかわらず、クロエとアキラは当然のようにカウンターへ座った。


「天ぷらうどんを二つお願いします」


「あの、今は冷やしうどんが、おすすめですが」


「ここの天ぷらうどんが好きなんですよ」


クロエが口角を上げ、バネッサを見つめる。

アキラは横で、笑いをこらえるように顔を背けていた。


「……かしこまりました。天ぷらを揚げますので、少々お時間をいただきます」


「はい。楽しみです」


バネッサは厨房へ戻る前に、店の扉へ向かった。

そして、表の札を「支度中」に返す。


……ああ、何度目だろう。

この、昼休憩直前の襲撃は。


油の中へ、かき揚げの生地をそっと落とす。

じゅわ、と軽い音がして、揚げ物の匂いが立ち上がった。


店内に、かき揚げを揚げる音だけが満ちていく。


釜からうどんを網ですくい、どんぶりへ移す。

お玉でつゆを注ぎ、揚げたてのかき揚げをのせる。

そこへ、ねぎとかまぼこを添えた。


「お待たせしました。天ぷらうどんです」


クロエは静かに箸を取り、ひと口すすった。

そして、満足そうに目を細める。


「相変わらずの味です。いや、前より美味しくなっているのではないですか」


つゆまで飲み干し、クロエはどんぶりを置いた。


「社長に聞いてましたけど、本当に美味しいですよ、バネッサさん」


アキラもどんぶりを空にして、バネッサに微笑みかける。


「……おそまつさまです」


賛辞は、もちろん嬉しい。

嬉しいのだが。


このあと、恐らく面倒な話になるのだろう。

そう思うと、バネッサのテンションはどうしても上がらなかった。


「さて、お腹も一杯になりましたし──」


バネッサは、すっと手のひらをクロエに向けた。

次の言葉を制する。


そのまま、窓際のテーブル席を指し示した。


クロエはにやりと笑って立ち上がり、テーブル席へ向かう。

アキラもそれに続いた。


バネッサはため息をつきながら、お茶を淹れ、トレイにのせる。


エプロンを外して厨房を出ると、二人の前にお茶を置いた。

それからクロエの向かいに座り、空いた椅子にトレイを置く。


「で、今回はどんな面倒事を持ち込んだのですか」

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