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レモンとハヤシライス(2)

 私たちは、BALの上にある喫茶店へと移動した。ここはパンケーキ推しの店のようだ。面白いドリンクもある。そして、中庭まであってとても楽しい。

「でも、幕末から明治にかけてって、そんなに簡単に肉が手に入ったのかなあ」

 私はメリーさんに素朴な疑問をぶつけた。

「江戸では『ももんじ屋』っていうのがあったの。薬食いと称して肉料理は出していたみたい」とメリーさん。

「あ、猪肉をボタン、鹿肉をモミジ、馬肉をサクラ、て呼んでた、てやつか」

 これらの隠語は花札の絵柄から来たものだ。それほど忌まれていたのかと思っていたのだが……

「新撰組は豚肉をよく食べていたし、徳川慶喜(けいき)は豚公方と呼ばれるほどの豚肉好き。そして、新京極の三嶋亭は明治六年の創業。昔から牛肉も料理の素材として使われていたみたいなの」

「つまり、その気になればハヤシライスも作れた、てわけ?」

「うん」

 私たちは、過去の時代をついステレオタイプでとらえてしまう。江戸時代は仏教の不殺生戒から獣肉は食べない、と思い込んでいた。けど、庶民は意外と気にせず、いやむしろ喜んで食べていたのかもしれない。

「でも、牛って食べるの勇気いったでしょうね。当時の人にしてみたら、耕運機一台ばらして食べる、くらいの価値はあったと思う」と私。

「そうね。それで面白い研究があるんだけど、江戸時代の牛の事故死の届け出の研究。なぜかお祭りの直前になると、届け出が増えるのよね」

「あはは。バレバレやん!」

「でね。なぜか八坂神社の門前にはステーキの名店が多いの。元々、牛頭天王を祀っていた祇園さんの門前なのに、牛肉を食べさせる店が多いのって、どういうこと? ホワイ・ジャパニーズ?」

「えっ、そうだったの?」

 私は虚を突かれた。


「寧々さんもわからないって」

 私は、メールの返信を見ながらメリーさんに言った。江戸時代からの京都人家系である山口寧々さんにもわからないのなら、おそらくは誰にもわからないだろう。

「ただ、老舗の牛鍋屋は紹介してくれた。明治十二年の創業だって。そこできけば何かわかるかも、って」

「それは凄いのです! 丸善、謎の閉店事件の真相もわかるかもしれないのです!」

 そこは、今は水明軒という洋食屋になっていて、ちょうど弁慶石の辻向かいのビルにあるという。

「あ。そこ、『京都グルメガイド』に載っていた名店だ!」

 悪い予感しかしない展開だった。


 翌週、私たちは弁慶石の近くに来ていた。

「お待たせ」

 日傘をさしてカートを引いたメリーさんが現れる。

「予約はとっておいてくれたって。そろそろ行こうか」

 十七時の開店に合せて扉を開く。

「いらっしゃいませー!」

 ウェイトレスさんが明るい声を張り上げた。

「ご予約のお客様ですね。ようこそいらっしゃいました」

……なぜわかった!? と一瞬思ったけど、白人と日本人の女子二人、という組み合わせがそうそう来るわけもないのだ、と思い直す。

 内装は、扇仕上げの壁に、焦げ茶色の柱や梁に香草の束が吊るされた、いかにも洋食屋といった造りだ。その一番奥の窓際に案内される。

 ウェイトレスさんは、メニューを置くとレモンスライスが入った水を持ってくる。おそるおそる口に含んでみたが、濾過された水のようなので安心した。というのは、元々レモンスライスが入った水というのは、水道水のまずさ――特にカルキ臭さをごまかすための物だったからだ。

 私たちは、二人そろってビーフシチューを注文する。他のメニューも、オムライスやパスタ、海老フライにコロッケといった定番ばかりだ。

 コック服の老マスターが、配膳カウンターの奥から出てきた。

「山口様からお話はうかがっております。なぜ、八坂神社の門前にはステーキの名店が多いのか、というお話でございますね。端的に申しますと、それは『薬喰い』だったからでございます」

「はい。でも、なぜお使いを食べようなんて……」

「牛は天神さんのお使わしめでございます」

「はぁ……」

 言われてみればそうかもしれない。牛頭天王には、特にゆかりのある動物はいないのだ。もっとも、素戔嗚尊に限定すれば、天の斑駒(ふちこま)の逆剥ぎ、なんてぶっそうな話もなきにしもあらず、だが。

「元はと言えば、文明開化の世となり、迷信打破の風潮が日本国内を風靡したことがきっかけです。牛頭天王のような由緒不明の神は権威を失い、祭神も素戔嗚尊(すさのおのみこと)とされました。『延喜式神名帳』の記載に統一したのですね。でも、疫病退散の伝承は素戔嗚尊の神話にはありません。そこで当時の人々は牛頭天王の功徳を『牛を食べて疫病退散のパワーにしよう』という合理精神で置き換えたのです。かく言うこの店も、明治十二年に牛鍋、オランダ語で言うところのルンダーシュトーフを売り出したのがはじまりです」

「え? 明治十二年!?」

「それって、丸善京都店がなくなった年じゃ……」

「はい、よくご存じですね」とマスター。

「その年、日本にコレラが大流行しました。千人に三人は亡くなったと言います。その元になったのが清国厦門(あもい)でのコレラの大流行でした。洋書や洋品にコレラ菌がついてきては大変だ、というわけで、一気に輸入が止まってしまったのです。丸善もそのあおりで閉店せざるを得なくなりました」

「で、明治四十年に京都支店が復興したのですね」

「ええ。日本でのコレラの流行は明治二十八年が最後。その後、『大英百科全書』や『センチュリー大字典』の予約販売ブームがあり、この店のすぐ向かいに丸善も復興したというわけです」

「お詳しいですね」

「ええ。私もハヤシ一族の末裔ですから。ただし、一文字姓のハヤシですけどね」


 マスターの話によるとこうだ。

 早矢仕家は元々、林という苗字だった。

 美濃の守護大名、土岐頼藝(よりのり)に仕えて、とくに弓の速射に長じていた。そこで頼藝に褒められ「以後、苗字を早矢仕と改めよ」と三文字姓をたまわった。

 戦国時代の常で色々な転変を経て、早矢仕家は笹賀村が故郷となった。林マスターの先祖は、その郎党だったのだとか。

 そういう縁があって、林さんの先祖は早矢仕有的からハヤシの――いや、ルンダーシュトーフのレシピを教えてもらっていたのだ。

「面白いことには、うちのレシピにはチガヤの根が含まれていましてね」

 マスターはにやりとする。

「夏バテや胃腸の不調に効くとされているんですよ、漢方で。チガヤと聞いて何か思い出しませんか?」

「茅の輪くぐりだ!」と私たち。

「そう。それです。本来、茅の輪はクス玉みたいな物なんです。薬の玉と書いてクス玉。邪気を払うための香草や薬草を詰めた玉飾りのことです。ほぼ、漢方薬を干した物と考えていいでしょう。薬効がある根をとった残りでも、その功徳にあやかりたい、という気持ちから茅の輪くぐりが始まったんじゃないでしょうか」

 カウンターの奥からピッピーという音がした。

「ご飯が炊き上がったようです。……私はこれにて失礼いたします。あ、そうそう」

 マスターは急にまじめな顔になると言った。

「ご飯になさいますか、パンになさいますか」

 私たちはちょっとかわった、漢方薬風味のあるハヤシライス――もとい、ビーフシチューとライスをいただいた。

 他の店では味わえない、とても不思議な味わいでした。


 私たちは満足して水明軒を後にした。

「ね、弁慶石触って行こうよ!」と私。

「うん」

 ビルの階段下にある、子供の背丈ほどの緑青(ろくしょう)色をした石。

 後ろにまとめられた緑色のホースが悲しい。

「触ると、力持ちになれるんだって」

「うん」

 メリーさん、いつものキレがない。

「力がほしいかー!」

「お、おう」

 私は、相棒の気のない返事にとりあわず、弁慶石をペタペタする。

「ほら、何も起きないよ」

「う、うん」

 やる気のないメリーさん、弁慶石に触れる。

 すると……

「やあ、奇遇だね」

 後ろから声がかかった。

 金髪の、水色袴の美少年だ。

「あー、もう、現れると思ってた」とメリーさん、心底落胆した様子だ。

「クラマ・サナート、参上!」

「間違えてるし」

 人形の怪異、ジト目である。

 何か二人で謎の言葉で議論している。

 私は思い出した。

 弁慶は鞍馬山で修行したんだ!

 ということは、クマラ・サナートは、弁慶の師匠。おそらくは、京都にいるどの神格も勝てない、グレート・オールド・ワン。そして、メリーさんはなぜか嫌っている。「あのチャラ男」と言って。

……いや、わからなくはないんよ。設定十六歳で結構イケメンだし、観賞用としては最上級なんよ。たぶん、中学生以下の女子ならイチコロなヤツ。けど、絶対に誠意はなさそう。女子の直感がそう語っていた。

 この人――神さんに説教できそうなのは誰!?

 もうヤケだった。

「南無阿弥陀仏! 南無妙法蓮華経! 南無北辰妙見菩薩! 南無観世音菩薩!」

 仏教系なのは、不淫戒があって鞍馬の天狗さんが護法魔王尊だからだ。

「南無弥勒仏、南無不動明王、南無釈迦牟尼仏!」

 何か「あたった」気がした。

 強くて神々しい力があたりに満ちあふれた。

「いけません、いけません」

 気がつくと、お釈迦さんの放つ何物をも圧倒する気が世界を満たしていた。

「そなたはいまだ修行中の身。女色にふけってはいけないのです。さあ、道場にお戻りなさい。菩薩たちとともに悟りへの道を歩みましょう」

「ああっ、いやだ! 僕はまだ俗世の楽しみに未練があるんだー!」

 護法魔王尊は、神々と人の師たる釈迦牟尼如来に引きずられていったのだった。


 ふと、我に返った。

 今見た妙にリアリティーのある光景は幻だったのだろう。夏の暑さにいかれた脳が引き起こした白日夢だったのだろうか。

 メリーさんは、弁慶石の周囲をじっくり見ている。

「弁慶石って、奥州衣川から運ばれて来た、て言うけど、『京都に帰りたい』って言ったときに熱病を流行らせた、て伝説もあるの。やっぱり牛頭天王が鎮めたのかなあ」

「かもしれないね」

 一秒でも早く涼しい場所に行きたい私なのだった。

 


 

  

 




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