2話 朝が来れば
身体を返せと言っても、返せない。
どうすれば戻せるのかと問い詰めても、三百年前の魔王を名乗る男は、自分にも分からないと答えるだけだった。
納得できるはずもないのだが、森の中でいつまでも言い争っているわけにもいかない。暮牙は二匹倒したものの、夜になった森には他の魔物もいるし、何よりリゼ自身が朝から歩き回ったうえに遺跡で散々な目に遭い、身体にはかなり疲れが溜まっている。
『とにかく、アルネに戻って』
「なぜ余が貴様の指図を受けねばならぬ」
『私の身体だから。それに、ここにいたらまた魔物が来るかもしれないでしょ』
「先ほどの獣程度なら何匹来ようと問題ない」
『私にはあるの! 怪我したら私も痛いんだから!』
ゼルヴァンは答えず、先ほど暮牙に噛まれかけた頬へ指を伸ばした。実際には牙が触れてすらいないので傷はないが、あと少し避けるのが遅れていたらどうなっていたかと思うと、見ているしかなかったリゼとしては今さらながら背筋が寒くなる。
「痛覚まで共有しているのか」
『当たり前でしょ。今だって肩も腰も痛いし』
「これは貴様が余を宿す前につけた傷か?」
『そうだけど』
「何をした」
『……ちょっと落ちた』
「どこからだ」
『それは帰ってから話す』
妙な間が空いた。
「随分と騒がしい一日を送っていたようだな」
『誰のせいで最後がもっと大変になったと思ってるの』
「余が好きで貴様の身体に入ったとでも思っているのか」
それを言われると反論しづらい。
リゼからすれば勝手に身体へ入り込んできた魔王だが、ゼルヴァンの様子を見る限り、本人にも何が起きたのか分かっていないらしい。三百年前に死んだと聞かされて初めて動揺したくらいなのだから、少なくとも最初から何か企んでいたとは思えなかった。
『……町はこっち』
仕方なく森の出口を教えると、ゼルヴァンはようやく歩き出した。
そこでリゼは、自分の身体なのに歩き方まで違って見えることに気づいた。
実際には自分の目を通して外を見ているため、自分自身の全身を見ることはできない。それでも背筋の伸び方や腕の振り方、地面を踏む感覚だけで、普段とはまるで違うことが分かる。
リゼなら夜の森を歩くときは足元を確かめ、枝が揺れればそちらへ目を向ける。けれどゼルヴァンは必要以上に周囲を見回さず、暗い森の真ん中を昼間の街道でも歩いているように進んでいた。
『ねえ』
「何だ」
『歩き方、偉そう』
「歩き方に偉いも偉くないもあるか」
『あるよ。なんか、全部どけって思いながら歩いてそう』
「余の前を塞ぐならば、どかせばよかろう」
『ほら、そういうところ』
町に着いてからが不安になってきた。外見はリゼのままなのだから、黙って歩いているだけなら誰にも分からない。それでも一度口を開いて「余」などと言い出せば、顔見知りばかりのアルネでは確実に変な目で見られる。
『町に入ったら、なるべく喋らないでね』
「なぜだ」
『知ってる人ばっかりだから。私が急にそんな喋り方したら変でしょ』
「ならば事情を説明すればよい」
『どうやって? 三百年前に死んだ魔王が急に私の身体を動かし始めました、って?』
「事実であろう」
『事実なら何でも信じてもらえると思ってる?』
ゼルヴァンが黙った。どうやら三百年前の魔王でも、さすがにその説明をされた側がどう思うかくらいは想像できるらしい。
しばらく歩くと木々の密度が薄くなり、やがて森の向こうにアルネの明かりが見えてきた。
高い城壁に囲まれた大都市とは違い、町の周囲を守っているのは人の背丈を少し越える程度の石壁と簡素な柵だけである。その内側には明かりの灯った家々が寄り集まるように並び、夕食時を迎えた今は、いくつかの煙突から細い煙が上がっていた。
「……小さいな」
『聞こえてるからね』
「事実を述べただけだ」
『私の町なんだから、もうちょっと言い方あるでしょ』
「小さく慎ましい町だな」
『言い直してもほとんど同じなんだけど』
それでもリゼにとっては、生まれてから十六年を過ごした町だった。
この道を下れば道具屋があり、その少し先に酒場がある。反対側へ行けば小さな教会があり、さらに奥には明日登録へ行く予定の冒険者組合の出張所もある。
いつもなら見慣れた景色を前にすると帰ってきたという安心感があるのだが、今日は自分の足で帰っているはずなのに、誰かに運ばれているような妙な感じがした。
町の入口には夜番の男が一人立っていた。
リゼは顔を知っている。むしろ向こうもこちらをよく知っていた。
「お、リゼじゃないか。今日は随分遅かったな」
できれば今夜だけは声をかけないでほしかった。
そう願った直後に名前を呼ばれ、リゼは頭の中で呻いた。
『そのまま通って』
「知人か?」
『喋らないでって言ったでしょ!』
幸い、今の言葉は小さかったので相手までは届かなかったらしい。
見張りの男は、泥だらけになっているリゼの服を見て眉を上げた。
「どうした、その格好。森で転んだのか?」
『そう。それでいい。それだけ言って』
「森で転んだ」
ゼルヴァンが答える。声はリゼのものなのに、口調が硬い。
男が少し怪訝そうな顔をした。
「……お前、なんか今日変じゃないか?」
『ほら!』
「疲れているだけだ」
今度は先ほどより自然だった。リゼが何も言っていないのに自分で言い直したことに驚いていると、男は「ああ」と納得したように頷いた。
「そりゃそうか。明日が登録の日だからって、今日まで無茶するなよ。母ちゃんも心配するぞ」
「分かっている」
それだけ答えて歩き出す。
男の視線が背中から外れたところで、リゼはようやく胸の内で息を吐いた。
『危なかった……』
「何がだ」
『ばれるかと思った』
「余だと分かったところで――」
『分かったら大騒ぎになるの!』
「この程度の町が?」
『町の大きさ関係ないから!』
どうも、この魔王は三百年前の王だったという自覚が強すぎるらしい。
リゼにとっては名前を聞いただけで昔話の怪物を思い浮かべる存在なのに、本人にとっては魔王ゼルヴァンであることが日常だったのだから仕方がないのかもしれない。
町の中へ入ると、ゼルヴァンは今度こそ黙ったまま周囲を眺め始めた。
道の造りも建物も、三百年前とは違うのだろう。
夕食を出す酒場から人間の笑い声が漏れ、向かいの店では獣人の商人が店主と何か話している。アルネでは珍しくもない光景だが、ゼルヴァンの視線はその二人を少し長く追っていた。
『何?』
「……いや」
『知り合い?』
「三百年前の人間がいるとでも思っているのか」
『じゃあ何見てたの』
「人と獣人が同じ町で商いをすることが、貴様らには珍しくないのか」
『別に。あの人、月に何回か来るよ』
「そうか」
それだけだった。ゼルヴァンなら何か偉そうなことを言いそうなのに、そのときだけは妙に静かだった。
三百年前には違ったのだろうか、とリゼは少し気になったものの、今は聞かないことにした。
『次の角を左』
ゼルヴァンはそのまま真っ直ぐ歩いた。
『左って言ったよ』
「分かっている」
『通り過ぎてるけど』
足が止まった。少しの沈黙のあと、何事もなかったように引き返す。
『知らないんだから、素直に聞けばいいのに』
「黙れ、小娘」
『リゼ』
「……黙れ、リゼ」
訂正するところはそこではないが、少なくとも名前は覚えたらしい。
家が近づくにつれ、今度は別の不安が膨らんできた。
『ゼルヴァン』
「何だ」
『家に着いたら、本当に変なこと言わないでね』
「誰にだ」
『お父さんとお母さん。特にお母さんには気をつけて』
「なぜ母親だけなのだ」
『たぶん気づくから』
「何にだ」
『私が変だってことに』
母は昔から妙に勘がいい。隠れて菓子を食べたことも、服を破いた理由を誤魔化したことも、どういうわけかほとんど見抜かれてきた。
さすがに「娘の身体を魔王が使っている」とまで見抜くとは思わないが、今のゼルヴァンが普段のリゼとはまるで違うことくらいは分かってしまいそうだった。
「ならば、貴様が言うべき言葉を教えろ」
『え?』
「余が普段の貴様を知るはずがなかろう。真似をしろと言われても無理だ」
言い方は偉そうだが、もっともな話だった。
『じゃあ、私が言った通りにして』
「内容による」
『そこで条件つけないでよ』
そんなことを言い合っているうちに、見慣れた家の前まで着いてしまった。
窓から暖かな灯りが漏れている。普段なら何も考えずに開ける扉なのに、今夜は森で暮牙に囲まれたときとは別の意味で緊張した。
『最初は「ただいま」ね』
「その程度は知っている」
『本当に?』
ゼルヴァンが扉を開けた。
「帰ったぞ」
『全然違うじゃん!』
すぐに家の奥から足音が近づいてきた。
「リゼ?」
母が姿を見せる。エプロン姿のまま娘を見た母は、泥だらけの服へ目を落とし、それから顔へ視線を戻した。
「どうしたの、その格好」
『森で転んだって言って』
「森で転んだ」
「どこで?」
『適当に誤魔化して!』
「……森だ」
『それ答えになってない!』
母の眉が少しだけ寄った。
「リゼ?」
「何だ」
『何だ、じゃない!』
まずい。
リゼがそう思ったときには、母がこちらへ近づいていた。
伸ばされた手に対し、ゼルヴァンの身体――正確にはリゼの身体が、反射的に僅かに退こうとする。
『動かないで!』
「……」
ゼルヴァンはぎりぎりで踏みとどまった。
母の掌が額へ当てられる。
「熱はないわね」
『お母さんだから! 警戒しないで!』
「分かっている」
「何が?」
『口に出さない!』
最悪だった。
母は完全に怪しんでいる。どうすればいいかと焦っていると、ゼルヴァンは少しだけ考えたあと、今までより柔らかな口調で言った。
「……今日は疲れた。転んだし、少しぼんやりしているだけ」
リゼが教えたわけではない。しかも、かなり自然だった。
母はまだ少し不思議そうにしていたものの、泥だらけの服を見て納得したらしい。
「そう。明日が楽しみなのは分かるけど、前日に怪我なんてしないでよ」
「分かった」
「お腹は?」
聞かれた直後、腹が鳴った。
ゼルヴァンがゆっくりと下を見る。
『……腹が減っているぞ』
『朝から森にいたんだから当たり前でしょ』
『最後に食ったのはいつだ』
『昼前にパン』
「身体の管理がなっておらぬな」
「何か言った?」
『だから口に出さないでってば!』
母に見つからないよう頭の中で怒鳴りながら、リゼは早く自分の身体へ戻りたいという思いを改めて強くした。
夕食の席には父もいた。泥だらけの姿を見て「派手に転んだな」と笑われたが、母ほど細かく聞いてこなかったのは助かった。
食卓には肉と野菜を煮込んだスープ、それに焼いた黒パンが並んでいる。
いつも食べている夕食だ。しかしゼルヴァンは器を前にすると、しばらく中身を観察していた。
『何してるの?』
『香草が分からぬ』
『普通の香草だよ』
『余の時代には見なかった』
『三百年前だからじゃない?』
『三百年程度で植物が変わるものか』
『知らないよ』
ゼルヴァンが匙を取った。スープを口へ運ぶと、温かさも味も、リゼにも普段と変わらず伝わってくる。
それ自体は不思議ではなかった。視覚も聴覚も共有しているのだから、味覚まで同じ身体を通して感じるのは当然なのかもしれない。
『どう?』
「悪くない」
また口から出た。
父が顔を上げる。
「珍しい言い方するな」
『もう!』
「……おいしい」
言い直した。
父は不思議そうな顔をしたものの、それ以上は気にしなかった。
ゼルヴァンが二口目を食べる。
『お母さんのご飯、おいしいでしょ』
『悪くないと言った』
『素直じゃないなあ』
『なぜ余が貴様の母親へ愛想を振りまかねばならぬ』
『私の口で喋ってるから』
『面倒な身体だ』
『私の身体なんだけど』
同じ身体を使っている。その事実は怖いはずなのに、食事をしている間だけは少し妙だった。
ゼルヴァンが食べればリゼの腹も満たされるし、熱いものを口へ入れればリゼも熱い。噛み方が普段より妙にゆっくりなのも分かる。
まるで自分の食事を、誰かに代わりに食べてもらっているようだった。
食後は母に早く休むよう言われ、その言葉に甘えて自分の部屋へ戻った。
扉を閉めた途端、リゼは頭の中から大きく声を上げる。
『疲れた……!』
「余の台詞だ」
人目がなくなったからか、ゼルヴァンは遠慮なく口を使った。
『なんで私の家で私がこんな緊張しなきゃいけないの』
「余とて、あれほど一挙手一投足に口を挟まれたのは初めてだ」
『だって、全然私っぽくないんだもん』
「当然であろう。余は貴様ではない」
言われて、リゼは少し黙った。
当たり前だった。身体が同じだからといって、ゼルヴァンがリゼになるわけではない。口調も立ち方も考え方も違っていて当然で、むしろ三百年前の魔王に十六歳の少女の真似をさせようとしている今の方がおかしい。
ゼルヴァンは部屋の中を一度見回したあと、寝台の端へ腰を下ろした。
「さて。貴様に聞きたいことがある」
『身体を返す方法?』
「それもあるが、その前だ。余が意識を取り戻すまで、何があった」
リゼは一瞬、何のことか分からなかった。
「余が気づいたときには、この身体で森に立っていた。なぜ余が貴様の中にいるのか、余自身にも分からぬ。最初から話せ」
『最初からって……今日の?』
「余に関係がありそうなところからでよい」
そういうことなら、思い当たる出来事は一つしかなかった。
リゼは森で薬草を採っていたことから、大雨で崩れた斜面に古い遺跡らしき入口を見つけたこと、好奇心に負けて中へ入ったことを順番に話していった。
床が抜けて地下へ落ちたところまで説明すると、ゼルヴァンが呆れたように目を細める。
「一人で正体も分からぬ遺跡へ入ったのか」
『入口だけ見るつもりだったの』
「その結果、床を踏み抜いたと」
『……そうです』
「明日から冒険者になると言っていたな」
『何』
「長生きできるとよいな」
『うるさい!』
腹は立つが、今回ばかりは言い返しづらかった。
続けて、地下の円形の部屋について説明する。石柱と、床一面に刻まれていた文字のようなもの。そして、その中央に浮かんでいた黒い物体。
「黒い物体?」
『うん。石みたいだったけど、普通の石じゃなかった。両手で持てるくらいで、丸いところがいくつかあって、太い枝みたいなのも伸びてて……赤黒い筋もあった』
ゼルヴァンの表情から、少しずつ先ほどまでの呆れが消えていく。
『それで、たまに膨らんで戻ってた。生きてるみたいで、すごく気持ち悪かった』
「……それに触れたのか」
『触るつもりはなかったよ。床が光ったと思ったら落ちてきたから、反射で受け止めちゃって』
「そのあと」
『溶けた』
「溶けた?」
『黒い液体みたいになって、腕から身体の中に入ってきた。そのあと胸がすごく痛くなって……変なものが見えた』
そこでゼルヴァンの目が細くなった。
「何を見た」
リゼは覚えている限り話した。
燃えていた巨大な城。
数え切れない兵士たち。
人間とは違う姿をした者たちが一斉に頭を下げていた広間。
そして最後に見た、壊れた場所で白く輝く剣を握っていた男。
『その人と、たぶん誰かが戦ってた。見てるっていうより、その誰かの目から見てるみたいだった』
「……」
『最後に、その人が剣を落としたところで終わった』
ゼルヴァンは何も言わなかった。先ほどまでリゼの部屋を珍しそうに見ていた翠色の目が、今はどこにも焦点を合わせず、記憶の中の何かを探しているように見える。
『ゼルヴァン?』
「余が覚えている最後と同じだ」
『え?』
「勇者との決戦だ。奴が剣を落としたところまでは、余にも記憶がある」
リゼは昼間に見た光景を思い出した。
白い剣の男。あれが勇者だったのだとすれば、リゼが見たものは本当にゼルヴァンの過去だったことになる。
『じゃあ、あれってあなたの記憶?』
「その可能性が高い」
『でも、今は何も見えないよ。あなたが昔何してたとかも全然分からない』
「余も貴様の過去など知らぬ。融合の際に、何らかの記憶だけが一時的に流れ込んだのだろう」
少なくとも、頭の中身まで全部一つになったわけではないらしい。
そこだけは少し安心した。四六時中、考えていることまで全部知られるようになったら耐えられそうにない。
ゼルヴァンはしばらく黙っていたが、やがてもう一度尋ねた。
「その黒いものについて、他に覚えていることは」
『さっき言ったくらいかな。黒くて、変な形で、脈打ってるみたいに動いてた』
「……」
『何?』
ゼルヴァンがゆっくりと胸へ手を当てた。
当然ながら、そこにあるのはリゼの身体である。
「おそらくだが」
『うん』
「それは、余の心臓だ」
リゼは意味を理解できず、しばらく黙った。
『……心臓?』
「ああ」
『あれが?』
「貴様の説明通りならばな。余の肉体が滅んだあと、何らかの方法で心臓だけが残され、封じられていたと考えれば辻褄は合う」
『なんで心臓だけ残ってるの?』
「知らぬ」
『自分のでしょ』
「死んだあとの自分の心臓が何をされていたか知っている者がいるなら、余が会ってみたいものだ」
それもそうだった。
『じゃあ、その心臓が私に入ったから、あなたが出てきた?』
「その可能性は高い。心臓に余の魔力と魂の一部が残っていたのなら、この身体へ融合したことで意識まで呼び戻されたのかもしれぬ」
『……出せない?』
「少なくとも、今すぐには無理だ」
『なんでそんな落ち着いてるの!』
「騒げば出るのか」
『出ないけど!』
「ならば無駄に体力を使うな」
本当に可愛くない。けれどゼルヴァンにも、この状態をどうすれば終わらせられるか分からないのは本当らしい。
二人はそのあと、できる範囲で身体の状態を確かめた。
リゼが身体を動かそうとしても指一本動かせず、ゼルヴァンが自分から力を抜き、主導権を渡そうとしても何も起こらない。
視覚や聴覚だけでなく、味も匂いも痛みも共有している。一方で、互いが言葉にしなければ考えている内容までは分からず、過去の記憶が勝手に見えることもなかった。
『じゃあ、どうすれば戻れるの』
「分からぬ」
『魔王なのに?』
「魔王を万能の便利屋か何かと勘違いしておらぬか」
『だって、さっき暮牙あっという間に倒してたし』
「あれは技術だ。魂を他人の身体から取り出す術とは何の関係もない」
言われてみればその通りだった。
リゼはしばらく考え、それから一番考えたくなかったことを口にした。
『……もし、このまま戻らなかったら?』
ゼルヴァンはすぐには答えなかった。
『私、明日冒険者になるはずだったんだけど』
「聞いている」
『ずっと楽しみにしてた。明日登録して、何件か依頼をこなしたらアルネを出るつもりだったの』
自分で話しているうちに、急に不安になってきた。朝まで当たり前にできていたことが、今は一つもできない。
このまま身体が戻らなければ、自分で歩くことも、自分で食べることも、冒険者になることさえできない。
ゼルヴァンにやらせれば同じ身体で登録することはできるかもしれない。
けれど、それでは意味がなかった。
『私がなりたいの』
「……」
『あなたが私の名前で冒険者になるんじゃなくて、私が自分でなりたい』
ゼルヴァンはしばらく黙った。やがて寝台へ横になりながら、面倒そうに息を吐く。
「ならば、身体を戻す方法を探すしかあるまい」
『探してくれるの?』
「余とて永遠にこの小さな身体で過ごすつもりはない」
『今ちょっといいこと言ったと思ったのに』
「それに、余には確かめねばならぬことができた」
『三百年前のこと?』
「ああ」
勇者が剣を落としたあと、何があったのか。
なぜゼルヴァンは死んだことになっているのか。
そして誰が、その心臓をあの遺跡へ封じたのか。
本人にも分からないことばかりだった。
『じゃあ、お互い元に戻る方法を探すってことでいい?』
「元に、か」
『何?』
「余には戻る身体がないようだがな」
言われて、リゼは返事に詰まった。
三百年前に身体は死んでいる。もし今ここからゼルヴァンだけを追い出せたとして、その先で彼がどうなるのかは分からない。
それでも、自分の身体を一生使わせるわけにはいかなかった。
『……それも含めて考える』
「ずいぶんと軽く言うものだ」
『だって、今考えても分からないでしょ』
「先ほどまで騒いでいた者の台詞とは思えぬな」
『うるさい』
身体の疲れは限界に近かった。ゼルヴァンが横になった途端、リゼにも全身が寝台へ沈み込むような重さが伝わってくる。
「寝るぞ」
『待って』
「今度は何だ」
『寝たらどうなるの?』
「知らぬ」
『起きてもあなたのままだったら?』
「知らぬ」
『不安にならないの?』
「分からぬことを考えながら身体を壊す方が愚かだ。今は休ませろ」
嫌になるほど正論だった。
しばらくして目蓋が閉じられる。自分の意思ではないのに視界が暗くなる感覚には最後まで慣れなかったが、身体が眠りへ落ちていくにつれ、リゼの意識も少しずつ重くなっていった。
『ねえ、ゼルヴァン』
「……何だ」
『私も寝られるのかな』
「試せ」
『どうやって』
「普通に眠れ」
『身体を使ってるのあなたなのに?』
「いちいち余に聞くな」
『使えない魔王』
「小娘」
『リゼ』
少し間が空いた。
「……眠れ、リゼ」
何か言い返そうとしたものの、もう考える力が残っていなかった。
朝から薬草を採り、遺跡へ落ち、訳の分からないものと融合し、最後には三百年前の魔王に身体まで取られた。
人生で一番長い一日だった気がする。
そのまま、リゼの意識は眠りへ沈んだ。
◇
次に目を覚ましたとき、窓の外から鳥の声が聞こえていた。
まだ部屋は薄暗い。閉じた窓から入る朝の空気は少し冷たく、昨夜打った肩には鈍い痛みが残っている。
『……ゼルヴァン?』
返事はあった。
『起きたか』
まだいる。そのことに少し落胆した直後、リゼは別の違和感に気づいた。
右手の指先に力を入れてみる。
動いた。
「……え?」
今度は腕を持ち上げる。
自分が動かそうと思った通りに、腕が上がった。慌てて身体を起こすと、足も腰も、自分の意思についてくる。
「動く……!」
『朝から何を騒いでいる』
「動く! 私が動かしてる!」
両手を開いて、握る。
頬に触れる。
髪を掴む。
最後には寝台から降り、その場で一度だけ跳ねてみた。
全部、自分の意思だった。
「戻った……!」
昨日までなら、自分で身体を動かせることなど考えもしなかった。
それが今は、ただ指を曲げられるだけでも嬉しい。
しかしゼルヴァンの意識は残っている。
『お前はまだいるんだ』
『聞こえているぞ』
「身体は動かせる?」
『……否。今は貴様が主導権を持っているらしい』
昨夜とは完全に逆だった。
リゼが身体を使い、ゼルヴァンは頭の中から見聞きしている。
どうして戻ったのかと考えながら窓へ近づくと、東の空が明るくなり始めていた。
太陽の上端が、遠くの山から顔を出している。
それを見て、リゼは昨日のことを思い出した。
「……日が沈んだときだった」
『何がだ』
「昨日、身体が動かなくなったの。日が沈んだ直後だった」
そして今は、朝日が昇ったところで身体が戻った。
偶然かもしれない。一度しか起きていないのだから、決めつけることはできない。
それでも、まったく関係がないとも思えなかった。
「もしかして、夜だけあなたになる?」
『まだ断定はできぬ』
「じゃあ今日の夜になれば分かるね」
『また余がこの身体を使うことになるかもしれぬがな』
「……それは嫌だけど」
嫌ではある。けれど、もう二度と身体を取り戻せないのではないかと昨夜は本気で考えていた。
少なくとも朝になれば戻る可能性がある。それだけでも、昨日よりずっとましだった。
リゼは窓の外から差し込む朝日を浴びながら、自分の手をもう一度握った。
今日やることは決まっている。
『どこへ行く気だ』
「冒険者になる」
『昨夜あれだけのことがあったというのにか』
「だからって、今日までやめたくない」
旅へ出ることを決めたのは昨日ではない。
もっとずっと前からだ。
この身体の中に魔王がいるからといって、それだけで諦めるつもりはなかった。
「それに、アルネにずっといても、あなたをどうにかする方法なんて見つからないかもしれないでしょ」
『余をどうにかするとは随分な言い草だな』
「じゃあ、私たちを元に戻す方法」
『……まあよい』
「大きな町に行けば、古い魔法に詳しい人もいるかもしれないし、遺跡について分かる人だっているかもしれない。それなら、予定通り冒険者になった方がいい」
少しくらい自分に都合よく考えていることは、リゼにも分かっていた。
それでも、行きたいのだから仕方がない。
リゼは旅用の服へ着替え、低い位置で蜂蜜色の髪を結び直した。
母が使っている小さな手鏡を借りるため部屋を出ようとしたところで、頭の中からゼルヴァンの声が聞こえてくる。
『何をする』
「髪直すの」
『そのままでよかろう』
「よくない」
『誰も見ておらぬ』
「冒険者になる最初の日なんだから、ちゃんとしたいの」
『理解できぬ』
「三百年前の男には分からないんだよ」
『三百年を便利な言い訳に使うな、小娘』
「リゼ」
『……リゼ』
そこで、ふと思いついた。
ゼルヴァン。口にすると少し長い。
これから本当に昼も夜も一緒にいることになるのなら、そのたびに四文字も呼ぶのは面倒だった。
「ねえ、ゼル」
頭の中が静かになった。
『……何と呼んだ』
「ゼル。ゼルヴァンって長いから」
『余をそのような名で呼ぶな』
「なんで?」
『なぜも何もあるか。余の名はゼルヴァンだ』
「分かってるよ、ゼル」
『やめろ』
「じゃ、行こうか。ゼル」
『小娘』
「リゼ」
『余の名も正しく呼べ!』
朝から頭の中が騒がしい。
昨日までなら、冒険者になる日の朝に三百年前の魔王と口喧嘩をしている自分など想像すらできなかった。
それでも身体は自分の意思で動き、扉の向こうには、ずっと待っていた一日がある。
リゼは口元を少し緩めると、頭の中から聞こえる文句をそのままに部屋を出た。
昨日までとは何もかも違う朝だった。
けれど今日、冒険者になる。
その予定だけは、誰にも――魔王にだって変えさせるつもりはなかった。




