1話 日が沈んだあと
明日になれば、リゼは冒険者になる。
十六歳になったらアルネを出る。それは幼いころから何度も口にしてきたことで、最初のうちは両親も、子供が遠い町へ憧れているだけだと思っていたらしい。しかし十歳を過ぎても十二歳になっても気持ちは変わらず、十五歳になってから旅支度のために少しずつ金を貯め始めたころには、さすがに誰も冗談だとは言わなくなっていた。
別に、故郷が嫌いなわけではない。
アルネは小さな町だが、リゼにとっては生まれてからずっと暮らしてきた場所で、通りを歩けば知っている顔とすれ違うし、困ったことがあれば誰かが手を貸してくれる。家へ帰れば父と母がいて、母の作る夕食も好きだった。
それでも、旅人が酒場で語る遠い土地の話を聞くたびに、胸の奥にはどうしようもなく気になるものが増えていった。
王都には、アルネとは比べものにならないほど大きな城壁と、人で埋まるほど広い通りがあるらしい。南へ行けば、見渡す限り砂ばかり続く大砂海があり、西には地平の向こうまで水が続いている海がある。北方では冬になると人の背丈を越えるほど雪が積もり、さらに遠くには、人間とは違う種族が国を作って暮らしている土地もあるという。
どこまで本当なのか、リゼには分からない。自分で見たことがないのだから、分かるはずもなかった。
だからこそ、見てみたかった。
「……これなら、もう少しくらいにはなるかな」
森の下草の間にしゃがみ込んでいたリゼは、根元を傷つけないよう摘み取った薬草を一束にまとめ、腰に下げていた袋へ丁寧に収めた。
淡い蜂蜜色の髪は肩甲骨の辺りまで伸びているものの、森へ入る日は邪魔にならないよう低い位置で一つに結んでいる。それでも屈むたびに何本かが頬へ落ちてくるので、指先で髪を耳へ掛けながら、木々の隙間から空を見上げた。
太陽はまだ高い。今から帰るには少し早く、探せばもう一束か二束くらいは見つけられそうだった。
明日の冒険者登録を控えた今日は、旅に出る前の最後の小遣い稼ぎになる予定だった。登録だけなら大した金は必要ないが、町を出てしまえば宿に泊まるにも食事をするにも金がかかり、傷薬や道具も自分で用意しなければならない。
そして今のリゼには、どうしても一つ欲しいものがあった。
「手袋……あと銀貨二枚くらいあれば買えるんだけど」
昨日、道具屋で見つけた革手袋である。
柔らかそうな革で作られ、手の甲には少しだけ補強まで入っていた。森で枝を掴むにも便利そうだし、転んだときに手を擦りむくことも減るだろう。
それに何より、身につけたら少し冒険者らしく見えそうだった。
そこまで考えたところで、リゼは今朝のことを思い出して眉を寄せた。
母が身支度に使っている小さな手鏡を借り、冒険者というのはもう少し凛々しい顔をしていた方がいいのではないかと思って、眉を寄せたり口元を引き締めたりしていたところを、よりによって持ち主本人に見つかったのである。
『何してるの?』
『……別に』
『ずいぶん怖い顔してたけど』
『だから、何でもないってば』
母は笑うのを我慢していた。
少なくとも、リゼにはそう見えた。
「……もうやらない」
少なくとも、家では。
誰もいない森の中で小さく呟き、リゼが薬草を探して再び歩き始めた、そのときだった。
少し先の斜面に、見慣れない灰色のものが覗いている。
「ん?」
アルネ近くの森には幼いころから何度も入っている。もちろん木の一本一本まで覚えているわけではないものの、町からそう離れていないこの辺りなら、どこに小川があり、どの斜面に薬草が生えやすいかくらいは知っていた。
けれど、あんなものは見た覚えがない。
数日前の大雨で斜面の一部が崩れたらしく、土と根が剥き出しになった場所から、平らな石の一部が顔を出している。
近づいて泥を払ってみれば、自然にできた岩ではないことはすぐに分かった。表面は人の手で削ったように滑らかで、細い線を幾重にも組み合わせた奇妙な模様まで刻まれている。
「何だろ、これ……」
文字にも見えるが、リゼが知っているものとは違った。
教会に置かれている古びた年代記には、今ではあまり使われなくなった文字が混じっていることがある。それとも違うように見える。
さらに崩れた斜面の横へ回り込んでみると、張り出した木の根と石の間に、一人なら身体を横にして通れそうな隙間が開いていた。その先には日の光がほとんど届いておらず、わずかに見える石床だけが、まだ奥へ道が続いていることを教えている。
リゼはしばらく、その穴を見つめた。
今日は薬草を採って日暮れ前に帰り、明日の荷物をもう一度確かめてから早く寝る。そのつもりで家を出てきたのだから、当然ながら、見つけたばかりの穴へ一人で入る予定などなかった。
そもそも、これが本当に古い遺跡なら、自分で調べようとせず町の大人に知らせるべきだろう。中が崩れているかもしれないし、魔物が棲みついている可能性だってある。
そこまで考えて、リゼはもう一度穴の奥を覗いた。
何も見えない。
だからこそ、気になった。
「……入口だけなら」
口にしてから、自分でもずいぶん信用できない言葉だと思った。
腰に差している薬草採り用のナイフを確かめ、荷物から小さな灯火具を取り出す。危なそうならすぐに戻るし、奥へ続いていても深追いしない。それだけは守ると自分に言い聞かせてから、リゼは身体を横向きにし、石と根の間へ滑り込んだ。
数歩進むと通路は少し広がった。
壁も床も黒ずんだ石で造られており、所々にひびや欠けはあるものの、明らかに誰かの手が入った場所だった。掲げた灯りの周囲には細かな埃が漂い、外の森とはまるで違うひんやりとした空気が肌を撫でていく。
「本当に何かある……」
思わず声が弾んだ。
怖くないわけではない。誰もいない暗い場所へ一人で入っているのだから、足元で小石が転がるだけでも肩には余計な力が入る。
それでも、知らない場所を自分の目で見つけてしまったという興奮の方が、今のところは少しだけ勝っていた。
もう少し先まで。
次の曲がり角まで見たら帰ろう。
曲がった先に何もなければ、そこで終わり。
そんなふうに自分との約束を少しずつ延ばしているうちに、入口から差し込んでいたはずの光はいつの間にか見えなくなり、リゼはようやく、自分が思っていたより奥まで来てしまったことに気づいた。
「……さすがに戻ろう」
明日から冒険者になるとはいえ、登録を済ませた途端に強くなるわけではない。剣をまともに習った経験もなければ、魔法を自在に使えるわけでもなく、持っている武器と呼べそうなものは薬草を切るためのナイフ一本しかなかった。
好奇心だけで進むには、十分すぎるほど奥まで来た。
そう考えて踵を返したところで、足元から乾いた音が聞こえた。
リゼが視線を落とすと、靴のすぐ横に細い亀裂が走っている。その意味を理解して慌てて一歩退こうとしたものの、亀裂は逃げるより早く周囲へ伸び、蜘蛛の巣のように床全体へ広がっていった。
「ちょっと、待っ――!」
次の瞬間、床が抜けた。
足場を失った身体が暗闇へ落ち、灯火具が手から離れて宙を回る。
リゼは反射的に両腕で頭を庇ったものの、途中で何かに肩を強くぶつけ、そのまま背中から柔らかな土の上へ叩きつけられた。肺の中の空気がまとめて押し出され、しばらくは声を出すこともできなかった。
「っ……いた……」
ようやく呼吸が戻ってから、恐る恐る身体を動かしてみる。
肩も腰もかなり痛むが、指は動くし、脚にも力は入った。少なくとも骨を折っている様子はないと分かり、ほっとしながら身体を起こしたところで、リゼは落ちてきた穴を見上げた。
「……無理」
かなり高い。
十数メートルもあるわけではないだろうが、高い場所が得意ではないリゼには、下から眺めるだけでも十分に嫌な高さだった。しかも壁には手を掛けられそうな場所もほとんどなく、あそこを登って戻るのは考えるまでもなく難しそうだった。
「入口を見るだけだったのに……」
自分で言った言葉がひどく空しく聞こえる。
少し離れた場所へ落ちた灯火具は幸運にもまだ火が残っていたので、それを拾い上げて周囲を照らしてみると、そこは先ほどまで歩いていた通路とは比べものにならないほど広い円形の部屋だった。
壁際には何本もの石柱が並び、そのほとんどは途中で折れている。床にも崩れた石が散乱し、長い年月を誰にも使われず放置されていたことは、歴史に詳しくないリゼにもなんとなく分かった。
ただ、部屋の中央だけがおかしい。
そこには円を描くように細かな文字らしきものがびっしりと刻まれており、その中心から少し上の空中に、黒い物体が浮かんでいた。
「……何、あれ」
大きさは両手で包めるくらいだった。
黒い石のようにも見えるが、表面は綺麗な結晶ではなく、いくつもの丸みと歪みが不規則につながっている。そこから太い枝のような突起が何本か伸び、赤黒い筋が内側を走っているせいで、ただの鉱石とは思えないほど生き物じみていた。
何より気味が悪かったのは、それが時折、ほんの少しだけ形を変えていることだ。
膨らんだかと思えば元へ戻り、しばらくすると、また同じ動きを繰り返す。
何を見ているのか分からないままその様子を眺めているうちに、リゼは理由もなく背筋が寒くなった。
「……触らない方がいいよね」
さすがに、これは近づきたくなかった。
好奇心より先に警戒心が勝ち、黒いものから距離を取ろうと一歩後ろへ下がったところで、その踵が床に刻まれた線の一部を踏んだ。
ぱき、と薄い何かが割れる。
「え?」
足元に光が灯った。
淡い青白さが一本の線となって床を走り、円形に刻まれた文字を次々と照らしていく。何が起きているのか分からないままリゼが後退すると、今度は部屋の反対側からも同じような光が伸び、やがて地下室全体が昼間のような明るさに包まれた。
「な、何……?」
逃げた方がいい。
ようやくそう思ったところで、硬い硝子を一度に砕いたような音が響いた。
床の光が消え、それまで中央で浮いていた黒い物体が、支えを失ったように真下へ落ちてくる。
「あっ」
リゼは咄嗟に腕を伸ばした。
落ちてくるものを受け止める。それだけの、考えるより先に身体が動いてしまう程度の反応だった。
けれど、掌へ触れたそれは石とは思えないほど熱かった。
「熱っ!」
慌てて手を離そうとしたものの、黒い物体の方が先に崩れた。
硬そうだった表面が一気に溶け、墨を流したような黒いものがリゼの指へ絡みつく。そのまま手の甲から腕へ這い上がってきたため、リゼは悲鳴を上げながら腕を振り、反対の手で何度も払い落とそうとした。
「やだ、何これ! 取れて、取れてってば!」
取れない。
むしろ黒いものは皮膚の上から染み込むように薄くなり、最後には跡形もなく消えてしまった。
呆然と腕を見下ろし、慌てて袖を捲ってみても、黒い染みも傷も残っていない。何だったのか考える余裕もないまま、今度は胸の奥で何かが強く脈打った。
「――っ!」
内側から胸を掴まれたような痛みに息が詰まり、リゼはその場へ膝をついた。
床へ手をついたはずなのに、指先の感覚が急速に遠ざかっていく。視界を埋めていた地下室の石床も青白い灯りも消え、代わりに見たことのない光景が次々と流れ込んできた。
巨大な城が燃えている。
アルネとは比べることすらできない城壁の上では黒い旗が風を受け、その下では数え切れないほどの兵士がぶつかり合っていた。剣と剣が打ち合わされる音に混じって聞いたことのない言葉の叫び声が響き、空を走った光が城壁の一角を吹き飛ばす。
次に見えたのは、広い部屋だった。
何十人もの者が床へ片膝をつき、一斉にこちらへ頭を垂れている。その中には人間に見える者もいるが、額から角が伸びている者や、耳の形が明らかに違う者まで混じっていた。
彼らが誰かの名を呼んでいるように聞こえたものの、声だけが妙に遠く、言葉までは聞き取れない。
さらに景色が変わる。
今度は壊れた広間だった。
床には砕けた石と血が広がり、目の前には白く輝く剣を握った男が立っている。こちらも男もひどく傷ついていて、どちらが先に倒れても不思議ではない。
男の口が動いた。
何かを言っている。
やがて、その手から剣が落ちた。
その先を見ようとしたところで目の前が激しく乱れ、何も見えなくなった。
「――っ、は……!」
気づけば、リゼは地下室の床へ倒れていた。
どれくらいそうしていたのか分からない。服の中は嫌な汗で濡れ、呼吸も走った後のように乱れている。
「何だったの……今の」
夢と言ってしまうには、生々しすぎた。
血の匂いも、最後に立っていた男の姿まで覚えている。
けれど、顔を上げても地下室には何の変化もなく、黒い物体だけが消えていた。床にあった文字も光を失い、最初から何も起きなかったように古びた石へ戻っている。
考えても分からない。そして、分からないものについて、これ以上こんな場所で考えていたくもなかった。
「……帰ろう」
今度こそ心の底からそう思った。
落ちてきた穴を登るのは無理だったが、地下室の奥を調べると別の通路が見つかった。そこを進んだ先には崩れかけた階段があり、何度か行き止まりへ迷い込みながらも、最終的には地表近くまで続く亀裂を見つけることができた。
石の間を這い上がり、泥だらけになって森へ出たときには、普段なら気にも留めない草や木を見ただけで安心した。
「もう絶対、一人で知らない遺跡には入らない」
二人ならいいのか、と自分で思ったが、今はそれを考えないことにする。
服についた土を払い、空を見上げたところで、リゼはようやく随分と時間が経っていたことに気づいた。
「まず……」
太陽が山際まで落ちている。
アルネ周辺の森では、夕暮れを境に活動を始める魔物がいくつかいる。中でも《暮牙》と呼ばれる狼型の魔物は、昼間なら森の奥に潜んでいるくせに、日が落ちると獲物を求めて町に近い場所まで出てくることがあった。
一匹なら大人でも追い払えることはあるが、群れに囲まれれば話は別だ。
リゼは腰の袋を押さえ、町の方角へ急いだ。
地下へ落ちたせいで肩も腰も痛み、身体は普段よりずっと重い。それでも暗くなってから森へ残るよりはましだと歩調を速めながら、頭の中では先ほど見た光景について考えていた。
あれは何だったのだろう。
黒いものは、本当に身体の中へ入ったのだろうか。もしそうなら、町へ戻って誰かに診てもらった方がいい。けれど、森で遺跡を見つけ、黒い変な石を掴んだら溶けて身体へ入ってきました、と説明したところで誰が信じてくれるのか。
「……お母さんには絶対怒られる」
むしろ、そちらの方が簡単に想像できた。
明日は冒険者になる日なのに、その前日に一人で知らない遺跡へ潜り、床を踏み抜いて泥だらけで帰ってきたのだから、黒い物体の話を抜きにしても十分すぎるほど怒られる理由が揃っている。
どう説明すれば多少はましになるだろう、と考えている間にも日は沈み続け、木々の向こうに見えていた最後の赤い光が山の稜線へ消えていった。
森を抜けるまで、あと少しだった。
そのはずなのに、リゼの右足が突然止まった。
「……え?」
何かにつまずいたのかと思ったが、足元には根も石もない。
もう一度前へ出そうとしても右脚は動かず、次いで左脚まで言うことを聞かなくなる。腕を上げようとしても反応せず、指先も肩も首も、自分の意思では動かせなくなっていた。
身体の感覚そのものが消えたわけではない。靴越しに地面を踏んでいる感触も分かるし、転んだときに打った肩もまだ痛い。
なのに、その身体を動かす権利だけを、突然誰かに取り上げられたようだった。
恐怖が一気に込み上げたところで、動かせないはずの右腕がゆっくりと持ち上がった。
「え……?」
リゼは何もしていない。
それでも自分の手は顔の前まで上がり、五本の指を開いたり閉じたりしながら、まるで初めて見る身体の動きを確かめるように手首を返した。
続いて、自分の口が勝手に開く。
「……これはまた、随分と小さい身体だな」
声そのものは、いつものリゼのものだった。
しかし、発音も息の使い方もまるで違う。声が低くなったわけでもないのに妙に落ち着き払っていて、少女が話しているというより、大人の男がリゼの喉を借りて喋っているように聞こえた。
背筋が冷える。
リゼは叫ぼうとしたが、唇も舌も自分では動かせない。その代わり、声にならなかったはずの言葉が頭の中へそのまま響いた。
『誰!? 何してるの!?』
身体の動きがぴたりと止まった。視線だけがゆっくりと周囲を探るように動き、そのあとで、自分の口元がほんの僅かに吊り上がる。
「……ほう。聞こえるな」
『聞こえるじゃない! 私の身体、勝手に動かしてるの誰!?』
「余も今し方、意識を取り戻したばかりだ。状況を把握しているところで騒ぐな、小娘」
『小娘って何! リゼって名前があるんだけど!』
「そうか」
『それだけ!?』
怖い。
自分の身体を誰かに勝手に使われているのだから、怖くて当然だった。
けれど、それ以上に相手の態度があまりにも偉そうなので、恐怖と一緒に苛立ちまで込み上げてくる。
「リゼ、か」
名前を確かめるように呟いたあと、身体を使っている何者かが森の奥へ視線を向けた。
『今すぐ返して』
「少し黙れ」
『は?』
「何か来る」
言われて初めて、リゼにも草を踏む音が聞こえた。
一つではない。茂みの向こうで、低い唸り声が重なる。
最初に姿を見せたのは、灰褐色の毛を持つ大きな獣だった。普通の狼より脚が長く、細く尖った頭の両側からは、口を閉じても収まりきらない曲がった牙が覗いている。
続いて左右の茂みから、さらに二匹が現れた。
『暮牙……!』
しかも三匹。
昼間ならもっと森の奥に潜んでいるはずだが、すでに日は落ちている。ここからは彼らの時間だった。
『逃げて』
「なぜだ」
『三匹いるからに決まってるでしょ!』
「見れば分かる」
『だったら早く逃げてよ! 私、戦えないんだから!』
身体を使っている何者かは、リゼの訴えを無視して腰へ手を伸ばした。
抜いたのは、薬草を切るための作業用ナイフだった。
『それで何する気?』
「他に武器が見当たらん」
『そういう意味じゃなくて!』
逃げる気がない。
その事実に気づいたリゼが焦る一方で、何者かは自分の身体を調べるように肩を回し、足の感触まで確かめている。
「筋力は不足している。身体の使い方もなっておらぬ。魔力も少ない」
『悪かったね!』
「よくこの程度で一人、森へ入ったものだ」
『薬草採りに来ただけ! そもそも私、まだ冒険者じゃないし!』
「まだ?」
『明日なるの!』
「なるほど。では今日と大差あるまい」
『あるから!』
言い返したところで、一匹の暮牙が地面を蹴った。
低い姿勢から一気に間合いを詰め、剥き出しの牙でこちらの喉へ食らいつこうとする。
リゼは反射的に目を閉じたかったが、身体の主導権を奪われているせいで、それすらできない。
『来る!』
「分かっている」
牙が届く寸前、身体が僅かに横へずれた。
大きく跳んだわけでも、慌てて後ろへ逃げたわけでもない。暮牙が飛び込んでくる線から必要な分だけ外れただけで、鋭い牙がリゼの頬のすぐ横を通り過ぎていった。
恐怖で頭の中が真っ白になりかけたリゼとは対照的に、身体を動かす男には一切の迷いがなかった。
暮牙とすれ違う寸前、逆手に持ったナイフが前脚の内側へ滑り込む。
狙ったのは脚そのものではない。
前脚の付け根から胸へ続く、毛の薄い柔らかな部分だった。
リゼの腕力で無理に切り裂こうとはせず、差し込んだ刃の角度だけを保つ。すると、飛び込んできた暮牙自身の勢いがそのまま刃へ乗り、胸元が深く切り開かれた。
着地した暮牙は数歩だけ前へ進んだが、傷口から大量の血が溢れると前脚から力を失い、地面へ激しく転がった。そのまま立ち上がろうと二度ほど身体を動かしたものの、やがて動かなくなる。
『……え?』
「力が足りぬなら、相手の力を使えばよい」
あまりにも当然のように言われ、リゼは言葉を失った。
残った二匹は、仲間が倒れたことで警戒したらしい。すぐには飛び込まず、左右に分かれながらこちらを囲もうと動き始める。
リゼなら、どちらを見ればいいのか分からなくなっていたはずだった。
けれど、自分の身体は左の暮牙へ視線を向けたまま、右脚だけを僅かに引いた。
次に飛び込んできたのは右側だった。視線を向けていないにもかかわらず、足音と唸り声だけで距離を測っていたらしい。
暮牙が跳び上がり、喉元へ牙を伸ばす。その下へ身体を沈めるように潜り込むと、ゼルヴァンは獣が頭上を越えるのに合わせてナイフを下顎の奥へ突き入れた。
飛び込んできた勢いによって刃は喉の深くまで入り込み、着地した暮牙は苦しげに何歩か進んだあと、地面へ崩れ落ちた。
最後の一匹は動かなかった。
低く唸りながらこちらの様子を窺っていたものの、目の前にいる小柄な少女が簡単な獲物ではないと、ようやく理解したらしい。
「二匹見て学んだか。獣にしては悪くない」
自分の顔が笑った。普段のリゼなら絶対に浮かべない、相手を完全に見下ろすような笑みだった。
暮牙はしばらく唸っていたものの、やがて一歩ずつ後退し、そのまま背を向けて暗い森の奥へ逃げていった。
追いかけることはなかった。
男はナイフについた血を草で拭い、刃先を確かめるように眺めている。
その間、リゼは何も言えなかった。
身体は間違いなく自分のものだ。
腕力も脚力も、昨日までと何も変わっていない。
それなのに、今の動きはまるで知らない人間のものだった。
速さで圧倒したわけでも、強い魔法を使ったわけでもない。相手がどこへ来るのかを先に読み、必要なだけ避け、弱い自分の力ではなく飛び込んでくる相手の勢いを利用した。
ただそれだけで、リゼなら逃げるしかなかった暮牙を二匹も倒してしまった。
『……あなた、何者?』
今度は、先ほどよりずっと慎重な声になった。
男はすぐには答えず、ナイフを腰へ戻してから、初めて周囲をじっくり見回した。
森の木々を眺め、遠くに見える山の形を確認し、それから自分――リゼの身体へ視線を落とす。
「見覚えのない土地だな」
『ここはアルネの近くの森だけど』
「アルネ……知らぬ名だ」
『そりゃ、小さい町だし』
「国は?」
突然聞かれ、リゼは少し戸惑ったものの、自分が暮らしている王国の名を答えた。
すると男は、そこで初めてはっきりと眉を寄せた。
「知らぬ」
『え?』
「そのような国は、余の知る地図には存在せぬ」
『じゃあ、あなたどこの人なの?』
「人ではない」
『……そういう意味じゃなくて』
話が噛み合わない。それでも、このまま正体不明の誰かに身体を使わせ続けるわけにはいかないと思い、リゼは改めて問いかけた。
『名前は?』
「余の名を聞くか」
『聞いてるから』
「……随分と遠慮のない小娘だな」
『だからリゼって言ってるでしょ』
男は少しだけ黙った。
それから、背筋を伸ばした。
顎がほんの僅かに上がり、翠色の目が細められる。
蜂蜜色の髪も、小柄な身体も、何一つ変わっていない。
それなのに、さっきまで森を歩いていたリゼとはまるで別人に見えた。
「よかろう。名乗ってやる」
『その言い方いちいち偉そうなんだけど』
「偉いのでな」
『……何それ』
「余はゼルヴァン」
その名前を聞いたところで、リゼの思考が止まった。
知らない名ではない。教会に置かれている古い年代記にも出てくるし、旅人が子供へ聞かせる昔話の中にも、何度となく登場する名前だった。
三百年前、人間の国々と大きな戦争をした魔族の王。
いくつもの国を滅ぼし、最後には勇者によって討ち取られたと伝えられている存在。
『……待って』
「何だ」
『ゼルヴァンって、あのゼルヴァン?』
「どのゼルヴァンを指している」
『魔王の』
男の口元が僅かに上がった。
「ああ。かつて魔族を統べ、人間どもが魔王と呼んだゼルヴァンならば、余のことだ」
あまりにも平然と答えられ、リゼは逆に言葉を失った。
『……本当に?』
「余が自らの名を偽る理由があるか」
『だって、魔王ゼルヴァンって……三百年前に死んだんだけど』
「…………何?」
身体を奪ってからずっと、暮牙に襲われても少しも慌てなかった男が、完全に言葉を止めた。
『だから、三百年前。勇者に倒された魔王でしょ? 昔の年代記にも出てくるし、子供でも名前くらい知ってるよ』
「三百……年?」
先ほどまでの尊大な響きが、ほんの僅かに消えた。
男は何も言わず、自分の手――リゼの小さな手を見下ろした。
指をゆっくり握る。
もう一度開く。
その仕草だけを見れば、初めて身体を動かしたときと同じだった。
けれど今度は、確かめているものが違うようにリゼには思えた。
「勇者に、倒された……」
『そう聞いてるけど』
「……余は」
何かを言いかけて、ゼルヴァンは黙った。
しばらくして小さく目を細める。
「最後が思い出せぬ」
『最後?』
「勇者と戦ったことは覚えている。奴が剣を落としたところまではな」
『そのあとに倒されたんじゃないの?』
「知らぬ。記憶がない」
その言葉に、リゼも少しだけ黙った。
嘘をついているようには聞こえなかった。
もし本当にこの男が三百年前の魔王なら、自分が死んだことさえ知らないまま、突然知らない少女の身体で目を覚ましたことになる。
そう考えると少しだけ気の毒な気もした。
ほんの少しだけ。
『……それは後で考えるとして』
「何だ」
『身体、返して』
「無理だ」
『早い!』
「余も好きでこの状態になったわけではない。戻し方など知るものか」
『じゃあ調べてよ! 今すぐ!』
「余に命令するな、小娘」
『だから小娘じゃなくてリゼ! それとこれ、私の身体だからね!?』
「頭の中で喚くな。響く」
『じゃあ出てって!』
ゼルヴァンはしばらく黙ったあと、リゼの身体で深々とため息をついた。
その感覚まで自分へ伝わってくるのが、妙に腹立たしい。
明日から世界を見に行く予定だった。
ただ一つ、昨日までには存在しなかった大きな問題がある。
日が沈んだ途端、三百年前に死んだはずの魔王が、リゼの身体を勝手に使い始めた。




